べこべこ
「両親があんまり丈夫じゃないんで…」
「金貯めてる途中なんですよ」
「離れがあるんで、実質一人暮らしなんです」
篠田孝則が、相手によってこれらのセリフを使い分けるようになったのは、30歳手前になってからだ。
いい年をした男が実家住まいだと、どうにも社会的な信用が得られない。
日々真面目に働いていたとしても、だ。
マザコンなのか、よほど金がないのか、いい家の甘やかされたボンなのか…
とにかく、「自立できない男」というレッテルを張られがちである。
彼自身は、誰にどう思われても気にしない。
ただ、しがないサラリーマンである以上、こんなことで信用を失うのは損でしかない。
これも立派な処世術。嘘をついた罪悪感すら、最近は感じなくなっていた。
「じゃ、水曜には戻るから」
孝則の両親は、今朝も晴れ晴れとした顔で旅立っていった。
今回の行き先は、長崎だそうだ。
実際には、孝則はマザコンでもボンでもないし、給料は人並みだ。家に離れなどない。
大学時代はバイトをしながらの一人暮らしを楽しみ、そこそこ生活力もついた。
このままアパート暮らしをしていこうと思った矢先、
決まった就職先はアパートから1時間半、実家から20分の距離だったのだ。
通勤に時間をかけたり、わざわざ金をかけて会社近くに引っ越すくらいなら…と、一時的に実家に戻った、つもりだった。
食費くらいは家に入れ、仕事に慣れるべくバタバタしているうちに、あれよあれよと家族のほうが変化した。姉が結婚して家を出ていき、両親が定年を迎えた。
共働きだった両親は、忙しかった時間を取り返すかのように、頻繁に出歩くようになった。
近場の温泉から、海外まで。日帰りから半月まで。
今回のように夫婦そろってのこともあれば、各自バラバラに仲間を誘っていくこともある。
そして、週末は混むからといって、週明けの月曜から旅立つことが多いのだ。
月曜は、孝則の勤め先の定休日でもある。
そんなわけで、孝則はかなりの時間、一軒家を自由に使えるようになった。
不便がなく窮屈さも感じないので居座っていたら、今日に至るというわけだ。
孝則は、今日もひとりの休日を楽しむべく、台所へ向かう。
冷蔵庫を覗くと、中には豚肉と豆腐、もやし。卵。
そして、ダイヤ模様の缶が見える。
よしよし。
まずは服を脱ぎ捨て、パンツ一丁になる。
ダイニングにノートパソコンを運び、立ち上げて動画サイトを開く。
「90年代ヒットメドレー」なんてものをクリックしてみる。
どこか懐かしいシンセサイザーの音が流れ、孝則は腰を振って踊りだす。
歌を口ずさみながら、つまみのメニューを考える。
食器棚から固形タイプの鍋の素、キムチ味を発見した。
決まった。キムチ湯豆腐だ。
ミニサイズの土鍋を出し、湯を沸かして鍋の素を放り込む。
味噌を溶かして、豚肉を入れる。
コマ切れなので切る必要なしだ。おかん、ナイス。
肉に火が通ってきたので、次はもやしを洗ってひと掴み。
豆腐を包丁で切ろうとして、手でちぎろうと思いなおす。
「木綿で良かった。絹ごしだったらボロボロだー」
自然と歌うような口調になり、ひとりで笑ってしまう。
土鍋に蓋をして、文字通り小躍りしながら冷蔵庫を開ける。
見慣れた青と銀のパッケージの缶チューハイをとりだす。
「待ってろよ」と缶に声をかけ、ダイニングテーブルに置いた。
鍋の蓋の穴から湯気が上がっているのを確認し、火を止める。
布巾で蓋を取ると、キムチ色の汁がぐつぐついって、それに合わせて豆腐もうごめいている。
「ふうーー!美味そう!」
布巾で土鍋を掴み、チューハイの待っているテーブルへ運んだ。
さあ、この瞬間がやってきた。
飲む前からテンションが上がっていたが、不思議と冷静になる。
いきます…。
缶を開ける。途端に、爽やかなレモンの香り。
飲み口に口をつけ、ひと口…。
目を閉じる。キレのいい炭酸と、レモンの香りが体に流れ込んでくる。
ふうーっ、と息を吐く。
ああ、美味い!
誰もいない家で、楽な格好で、自分だけの時間。このひと口。
孝則は一瞬、自分はなに不自由ない幸せ者だと錯覚する。
そして、ダイヤ模様の缶をべこべことへこませて、錯覚でもないかと思いなおす。
赤い汁に浮かぶ豆腐を崩して、口に運ぶ。
「あつっ」
はふはふしながら、噛みしめる。
自分の空間を、時間を、幸せを。
あっという間に、缶は空に近づいていく。
冷蔵庫にはまだ、違う味のストックがあった。
缶をべこべこ鳴らし、最後の一滴を飲み干した。
実家を出るのは、まだまだ先になりそうだ。
☆モデルにしたお酒は、キリン「氷結」レモン。ALC5%。
缶チューハイの定番ですよね!
あの、べこべこ缶が妙に好き(笑)。
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