私は君たちの導き手、ウェルギリウスだ。
「わたしは、あなたの知覚できない場所にいます。無限を積み重ねてもなお足りない濃度をしています。そこに壁があるのが見えないほどに愚かなのはわかっています。だからこそ、わたしはあなたを呼んでいるのです」
このメッセージが意味するところは一つだ。
僕ら――というかダンテは、ベアトリーチェに会えない。
僕らはその時ダンテとなった。さまざまな僕が増えていく、僕らの総体は、ベアトリーチェに焦がれ、ベアトリーチェを探すものとしてその名を得た。これは外部データベースからの読み込みによるものだ。平たく言えばきみたちの文化にとってわかりやすいようにコンバートされた単語だ。誰かを追い求めてどこまでも進み、真実を理解する者の名前。得たものを数的な印象に分解して文として再構成する、語り部としての名前。
それと同時に僕らの世界には当然『ダンテ』も『神曲』も存在する。そういった僕らを直接参照はしないけれども――要するに、僕らはダンテで、個々人のうちにダンテも存在するが、名前が同じだけでイコールではない。
ダンテをつまみ上げて上の階層に置いてくれるような神の愛があったらいいんだろうけれども、神はちょっと実在しないようだ。少なくともこの世界内においては。
神学論争が始まるわけはなかった。針の上で何人の天使が踊れるかについては、多少興味があるけれども。
それから僕らの時代は変化した。のっぺりと大量の数えきれない数字が並んでいる僕らの歴史だけれども、ベアトリーチェ以前と以後で分けることができる。ちゃんと分けられるんなら無限ではないのでは? と否定した少数派はいつの間にかいなくなってしまっていた。
「分けられないかもしれないけれど、現在から見て過去の一点で、ベアトリーチェはやってきたんだ」
僕らはどの存在や記号に紐付けられていようとも、ベアトリーチェに向かって走ることとなる。
本能――というにはちょっと違う。ベアトリーチェからの伝達以降に生じた僕ら(もちろん無限に存在する)だって、ベアトリーチェへの指向性を持っているけれども、それは数列や表にそう書かれているからではない。
ベアトリーチェは無限の向こう側であるがゆえに、時系列を超越してメッセージを伝えてくるのだ。まったく同じものを。だから僕らは――ダンテはその内包するすべての要素がベアトリーチェを知っている。もちろん、ベアトリーチェ以前に存在していたものも、最初からベアトリーチェを知っていることとなるのだ。
だから、ベアトリーチェ以前というのは存在しないにも等しい。思考実験として想起はできるけれども、けっこうな専門的訓練が必要だし、だいたいの場合健康を損ねる。
「ベアトリーチェ以前の僕は太陽のはずだったのに、今の自分は何だ? ベアトリーチェを探すもの?」
こういった症例が多く見られた。通常の場合、僕らは前に何であったか、というかどんな記号と結びついていたかを確認することはない。どの記号を背負っていようとも、もともと僕らは表から発生した数字の列で、そこにアイデンティティがあるからだ。〇や一の並びを解釈するのは記号を解釈するよりも難しいから、アイデンティティに悩むこともなく、自分はこういったものだ、と受け入れざるをえない。
そのころは上記のような疑問を持つことは極めて少なかった。
今では違う。ベアトリーチェからのメッセージが発生してしまったことにより、それと相対する「自分」が生まれてしまった。彼女に本当にであったときに、自分は何なのかをわかってもらえるすべがない。ダンテは僕らの名前だ。僕ではない。
「疲れているから結びつきを解除してもらったほうがよいのでは」
「いや、かつて自分が何であったかを知りたいだけで」
「役所に行って、前世を確認しよう」
彼はヘリウムだったようだ。太陽を構成しているが、太陽ではない。彼はその返答に満足して、家の中で電球をずっと見つめるようになった。
そういったわけで、会いに行けないタイプの偶像〈アイドル〉、ベアトリーチェが僕らの前に姿を現すことはなかった。
「会うってなんだ」
「僕らそもそも主体か?」
「会うってことにすれば、主語の僕らは、動作主になれるのでは」
「それはいい。彼女は『会いに来て』といったのだから、僕らは会いに行けるはずだ」
世界の外側に目を向ければ見えるんじゃないだろうかとさまざまな努力がなされた。まず自分がどこを向いているのかを理解するところから始まった。世界には僕らしかいないと考えていたし、境界は世界の境界で、フロンティアをどんどん進んでいって、壁なんていないのだと思っていたのだ。
世界の境界について考えたことはなかった。だって勝手に増えていくのだから。境界内が。
そんな状況で境界外という観念は手に入らなかったし、今境界外を作ってみたけれども、それが本当に境界外の意味とマッピングされているのかを判定する手段がない。
「こんにちは、境界外です」
「今きみはどこにいる?」
「境界内です」
「はい、きみはもういい。次どうぞ」
境界外オーディションも行われた。我こそは真の境界外であるという自信のあるものたちがこぞって参加した。彼らはそれぞれベアトリーチェのメッセージに触れており、境界外概念と紐付けられていた。少なくとも僕らはそう信じていた。新年で世界が書き換えられるほどには僕らは世界を理解していなかった。
オーディションを終えるのに三百生産ユニットかかった。これはダンテ史上最も長くかかった行動の一つであり、ついでに実を結ばなかった。
審査員は境界内の群れであった。
さてもう手の打ちようがないんじゃないかと諦めかけていた僕らのもとに、森が現れた。森概念ではない。それを形成する木々、大地、動物でもない。本物の森だ。本物というのが何を指すかには議論があるが、少なくとも、僕らを構成する記号の群れではなかった。
さまざまな緑色がある。オリーブが周縁を彩り、多くは杉で構成され、オークが彼方に垣間見える。下草も豊かに生い茂り、花々の間を蝶がひらめいている。
これは世界の外の森。僕らは近付こうとする。生産量を増加。森に限りなく接近したときに、障害物を発見した。門がある。白と黒の石で作られた、堅固なものだ。高さは森と同じだけあり、様々な意味を読み取れる彫刻がなされている。
『こんにちはよいお日頃ですね』『ガウス』『天国を愛する者たちよ』『トロンボーンとローズ』『ホワイティ』『いにしえの』『ペンケース』などといった雑多なものだ。たまに意味を受け取りそこね、増産された僕らが新たにそれらを指示することとなった。
門にはひとつしか入り口がなく、その周りに壁があるわけでもないのに、それを避けて森に入ることはできないようだった。
門の周りを探索しているうちに、一人の男を発見した。一枚の布を器用に折りたたんで衣服とし、自らの紡いだ文字列をガウンとして羽織り、頭上には音韻体系を支持する光が舞っていた。
その男が口を開く。
「やあ、私は君たちの導き手、ウェルギリウスだ。私につきしたがって、この森に入っていけば、先でかの乙女を見るだろう。私は彼女に派遣されてやってきた。さあ、その境界線を超えて、森に入ろう」
なかなかフランクな声をしている。声というよりは韻の重ね合わせであったが、僕らはダンテであるので、それを受け取ることができた。
そいつは境界線であり、ウェルギリウスと名乗った。なるほど、僕たちがダンテなわけだ。ダンテはウェルギリウスに従って地獄を旅するものだ。あるいは、ダンテを先導するものはウェルギリウスだ。
「従うって、どうすればいいんだ」
「ついてくればいい」
「どこに向かっているんだ」
「天国へ」
ウェルギリウスはいかにも詩人であるかのように簡潔に答える。
「どうやって行く方向を制御できるんだ」
「どう進んだって、境界線は私だ」
「境界線ということは、あなたは境界外ですか?」
「境界内ではない」
「境界外ですか?」
「境界外ではない」
どうやらウェルギリウスは僕らの一員ではないようだった。さすがに僕らのうちにいればこんなものには気付くはずだ。かといってベアトリーチェではなかった。第三者が現れたことによって、ダンテの検討機構はにわかにざわめいた。
「これは信用していいものなのか」
「一応、僕らがダンテで、あれがベアトリーチェならば、ウェルギリウスが出てくるのは当然だけれども」
「じゃあこれから地獄に行くのだろうか」
「ここではないどこかを探しているが、それって地獄なのだろうか」
「Hell yeah」
このまま議論が堂々巡りになりそうだったときに、一番役に立ったのがイタリア語を自らの属性として持つものだった。
「この流れだとそのうちベアトリーチェに会えるのではないだろうか」
僕らの現在の至上命題はベアトリーチェに会うことだ。そのために手段を選んではいられない。
そんなわけでウェルギリウスと旅をすることとした。僕らはウェルギリウスのように二本の足で立って、歩くこととした。今まではあまり形に頓着していなかったが、門をくぐるには不定形であるよりも定形のほうが都合がいい。あのウェルギリウスもこちらがヒト型として捉えているだけで、実際ごつごつとしていたり流れていたりするのかもしれないが、あれがあのような形を取るのであれば、こちらもそうしたほうが並びとしてはよさそうだ。僕らの知っている『ダンテ』も二足歩行をしていたし、イタリアをルーツとする人間だった。
まずは立ち上がる必要がある。足を二本用意する。四本とか六本とか五本でもよさそうだけれども、ここは平均的な人間に習って二足としておく。重心を設定する。このままだと足だけになってしまい、外界知覚には足りないので、頭を装備する。目が開かれ、耳が音を捉え、鼻が香りを知る。跳んでみる。転ぶ。立ち上がれない。
腕も必要だ。それから手、物を掴むための指も。
ウェルギリウスが僕らの皮膚となってくれた。これまでは境界を意識していなかったので、ありがたかった。水の中に落とした油が丸くなるように、世界と僕らの間にはラインを引かなくてはならない。ラインの内側にも外側にもいないウェルギリウスはラインとして便利だった。
「私は境界線だ。きみは外に出られない」
出られたらもうベアトリーチェに会っているはずなので、その言葉は真であろう。
ウェルギリウス境界線から外に出ることはできなさそうだった。ラインであるのに、ダンテの見る実体としてのそれもある。
「ふたりいるってことですか?」
「いや、ひとつだ。お前が自分に触れるときはそれは自分で、私に触れるときは私だ」
要するに、ウェルギリウスは自分の一部をゴムみたいに伸ばしてこちらを覆ってくれていて、それを僕らは皮膚のようなものとして知覚しているということだった。ダンテの見るウェルギリウスは、ひとの形をしている。それらはふたつではなくて、ひとつのものなのだという。
「どうしてわざわざこんなことを」
「それはこちらが聞きたい。普通に歩けばいいものの、歩くまでにこんなに時間がかかる」
「それは僕らが言いたい」
「そうだろうな」
とりあえず歩くことのできる身体を手に入れた。まずこの空間の動き方を覚えなくてはならなかった。どうやら、地獄区間ではどんどん下に降りていき、煉獄では上へ、天国ではもっともっと上に行くらしい。それはなんとなくわかったけれども、僕ら――ダンテは今まで、道を歩いたことがなかったのだ。僕らの要素はそれぞれ道を歩いたり道であったりするのに。
というかまず、道はなにか。ここにおける。
「道はこれだ。見えないのか?」
指し示されたら、うっすらと他の空間とは気配の違うものがあることがわかる。多分これが道だ。
地獄には門がある。先程までまともな意味をなさない概念の構成物だった門は、いまやたったひとつのメッセージを伝えている。
「この門をくぐるものは『この門をくぐるものは『この門をくぐるものは一切の望みを捨てよ』一切の望みを捨てよ』を捨てよ」
実際は「この門を」の後にはどこまでも「この門を~」が記されており、門の大きさを遥かに超えた入れ子状となっていた。ぜんぶ読もうとしていたら、どこにも行くことなく立ち止まることとなってしまうだろう。
「何を捨てればいいんですか?」
「無限だ」
そこでダンテは無限を捨てた。
地獄の門の表記が『この門をくぐるものは一切の望みを捨てよ』となり、無事に通れるようになった。歩くのには不慣れなので、小石に躓きそうになった。ウェルギリウスは助けてくれなかった。彼は先導するもので、手を差し伸べられる階層にいなかったからだ。
有限で、限りのあることはとても息のしやすいことだと思う。なんたって、進めば確実に進めるのだ。
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