4.アイスティーソーダ割り

 鮮やかな色合いのトマトとバジル、その下にはシャキッと冷たいカッペリーニが渦を巻いている。

園美はパスタをフォークに絡め、口に入れた。


「美味しい! お店の味と同じですね。でも同じだけどこっちの方が酸っぱくないような……」

『店で出しているトマトのカッペリーニは親父のレシピなんです。俺のはソースにケチャップを少し足していて、トマトの酸味を和らげています。店の方が好みでしたか?』

「どちらも美味しいですけどお店のものよりも優しい味です。こちらの方が私は好きかも」


もちろん店のものよりも美味しく感じるのはこれが雪斗が作ったトマトのカッペリーニだからでもある。


「雪斗さんはいつからイタリアに行っていたんですか?」

『調理師の専門学校を出て日本のレストランに就職したんです。そこの料理長がイタリアの人で、彼のツテでイタリアで修行させてもらえることになって。22歳から26歳までイタリアに居ました。去年帰国してからは親父の店の手伝いを』


 互いに下の名前呼びでいいとキッチンに立った時に雪斗に言われた。いつまでも苗字で呼び合うのは仕事の時みたいで嫌でもあり、雪斗の名前を呼びたかった園美にとっては彼の名前を呼べるのも名前を呼ばれるのも嬉しかった。

もうそろそろ、この感情に名前を付けなければいけない。


 22歳から26歳までイタリアに居て、去年帰国……と言うことは彼の年齢は27歳?


「じゃあ雪斗さんは今は27歳?」

『早生まれなので来年の1月に27になります。……園美さんは?』

「28です。今月末に29歳になっちゃいます」


 園美の誕生日は7月27日。もうすぐ20代最後の1年間が始まる。

雪斗が年下と知って残念なような、そうでないような、年齢はまぁまぁ予想通りだった。

この年齢になると2歳下でもそこまで年下でもない。2歳上もそこまで年上でもない。


『誕生日今月なんですね』

「27日です。もう誕生日が来て嬉しい年でもないですよね」


 去年の誕生日はひとりだった。ひとりでも平気だった。

友達と一緒に過ごしたくてもその頃の真緒は街コンで知り合った慎二とほぼ毎日デートをしていた。他の友達も結婚したり出産したりで平日の仕事帰りに会って飲みに付き合ってくれる友達や終電までカラオケで一緒に騒いでくれる友達は20代前半の頃に比べれば減った。


友達の数は減っていない。ただ“遊んでくれる”友達の数は減る。30歳間近になれば皆、友達付き合いよりも大切なものが出来てくる。

28歳の誕生日はちょっと高いワインと人気のスイーツ店のケーキを買って、好きな恋愛ドラマのDVDをレンタルして、ひとりで過ごした。誕生日おめでとうと連絡してきてくれる友達も年々少なくなる。寂しくないと強がっても寂しかった。


『27日は……月曜日ですね』

「明日も明後日もまだ仕事だーって憂鬱になるので週明けの誕生日ってあんまり嬉しくないんです」


 それからは園美の仕事の話をしたり、雪斗のイタリア修行時代の話をしたりした。食べ終えた食器をキッチンで片付ける。

園美が洗剤で食器を洗い、雪斗がすすぐ。


『またイタリアに来ないかと誘われているんです。今は親の店を手伝っていますが、いずれは自分の店を持つつもりでいます。そのためにまだ本場で修行する必要があって』


 洗剤の泡がついた園美の華奢な手と水で濡れた雪斗の大きな手が触れ合った。たったそれだけで身体に電流が走ったように、ドキドキと心臓が高鳴る。


「……イタリア……行くんですか?」

『迷っています。迷う理由が……できてしまったんです』


彼が言った最後の言葉は小声だった。迷う理由と言った気がするが園美には迷う理由が何のことか想像もつかない。


 片付けが終わり、食器を棚に戻す雪斗を手持ちぶさたに見つめる。トマトのカッペリーニはご馳走になった。本来ならここでおいとますべきだ。


『時間まだ平気ですか? この後予定があるとか……』


雪斗に聞かれて園美は首を左右に振った。あいにく日曜日に予定をびっしり詰め込むほどアクティブでもなければ人気者でもない。

暇な日は一日中、暇な日のままだ。


『常連のお客様からいただいた桃があるんです。山梨の桃だそうで。桃、お好きですか?』

「はい。先週もトマトのカッペリーニにしようか桃のカッペリーニにしようか悩んだくらいで……」

『よかった。すぐに出しますね』


デザートを食べ終わるまではここに居させてもらえる。まだサヨナラを言わなくてもいい。


 彼は何を考えているのだろう? 一度しか来店していない女性客を独り暮らしの家に招いて手料理を振る舞い、デザートを勧める。


 雪斗の微笑んだ顔は優しくて、だけどその奥の感情はわからない。ピアスを返す名目で園美を家に呼んだのなら、他の女もそうやって簡単に家に招いてしまうのか?

いけない。29歳にもなると男の嫌な面をある程度知り尽くしている。キラキラした純粋なラブストーリーを信じられなくなってくる。


 臆測だけで勘繰ってしまうのは自分の悪い癖だ。だからこれまでの恋もダメになって来た。

周りを見ても最終的にはいつも鈍い女が幸せを掴んでいる。勘が鋭いことは恋愛においてはデメリットでしかない。


雪斗がもしイタリアに行ってしまうのならこれ以上深入りしない方が傷は浅く済む。

この感情に園美は“恋”の名前を付けていた。そう。もうこれ以上、雪斗に恋をしなければいい。簡単なことだ。


 雪斗が切り分けた桃を入れたガラスの器とグラスを持ってきた。テーブルには他に麦茶のような色合いの液体が入るボトルとソーダ水のペットボトルが置かれる。


『店でアイスティーを頼まれていましたよね?』

「ええ。コーヒーが苦手で……。紅茶党なんです」

『水出しで作ったアイスティーをソーダで割ると美味しいんです』

「ソーダ?お酒じゃなくアイスティーをソーダで割るんですか?」

『飲んでみます? ダージリンのアイスティーソーダ割りです』


 雪斗は氷を入れたグラスにアイスティーを注ぎ、その上からソーダ水を注いだ。シュワシュワと炭酸の泡が氷の周りを踊る。見ているだけで涼しげだ。

雪斗からアイスティーのソーダ割りのグラスを受け取り、一口飲んだ。すっきりとしたダージリンの風味にシュワシュワのソーダが混ざりあって喉を通る。とても清涼感のある飲み物だった。


「美味しい!」

『水出し紅茶とソーダがあれば作れますからぜひ家で作ってみてください』


 雪斗は自分の分のアイスティーのソーダ割りを作ってソファーに座った。同じソファーに座る園美と雪斗の距離は人ひとり分空いている。


彼は桃をかじり前を見据えている。園美もフォークに刺した桃を口に入れた。

気まずい空気が流れている。どちらも会話を始めない。


『……軽い男に思われたくないからこういう時にどうすればいいのか、わからないんですよね』


 独り言のような雪斗の独白だった。園美は桃と紅茶の味が広がる口元を結んで横目で彼を捕らえる。雪斗も横目で園美を見た。


絡み合う視線は付かず離れず、人ひとり分空いた距離がもどかしくて、でもそれがふたりの最後の砦だった。


『園美さんは俺が女を簡単に部屋に誘う男だと思ってます?』

「それを言うなら……私が男の部屋に簡単に入る女だって思っていますか?」


 沈黙が続く。どちらも否定できる答えを持ち合わせていない。だって二人は出逢ってまだ二回目なのだから。


『園美さんはどっちでしょうね』

「私も雪斗さんはどっちなのかなって考えてるところです」


 また沈黙。にらめっこしましょ、笑うと負けよ……二人は同時に笑い出した。

笑って笑って、喉が渇いた喉にアイスティーのソーダ割りが染みる。


『駆け引きは疲れますね。柄じゃない』

「ですね。私も柄じゃないです」

『駆け引きを止めてストレートに白状すると、あなたがあのピアスをいつ店に取りに来るのか心待ちにしていました。OLさんのようだったから来るとすれば平日のディナータイムかもしれない、だからディナータイムになるとそわそわ落ち着かなくて今日も来なかった、また来なかったって今度は落ち込んで』


 この恋に深入りしないとさっき決めた自分との約束を園美は守れそうもなかった。

じわりと熱くなる目元に涙の予感。身動ぎした彼女は雪斗との間の人ひとり分の距離を数センチ詰めた。


雪斗も園美との距離を埋める。数センチずつ距離が近付いていくふたりは、やがて0センチの距離になった。雪斗の腕が園美を抱き締める。


『初めて会った時からあなたが好きでした』


雪斗の告白に園美は涙で潤む瞳で微笑んだ。彼女も同じ事を考えていた。

先週のあの瞬間。園美と雪斗は同じ瞬間に同時に恋に落ちた。


 園美が落としたガラスの靴はすずらんのピアス。鈴蘭の花言葉は〈再び幸せが訪れる〉


 カッペリーニの上に載るフルーツトマトみたいなひやりとした唇を重ねる。やがてフルーツトマトの味がした唇は桃とアイスティーの味に変わる。

夏の味がするキスだった。



     ―END―

※園美と雪斗のその後は、女刑事と殺し屋をW主人公とするロミジュリミステリーシリーズ【ミドエンシリーズ】でご覧になれます。

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