3.トマトのカッペリーニ
翌週、7月の第二日曜日。園美は先週乗った電車よりも一本早い電車で表参道駅に到着した。
すっかり梅雨明けをした今日も夏らしい青空に太陽が君臨している。日傘を差して、彼女はひとりで南青山の街を歩いた。
バレエ学校とインターナショナルスクールの前を通り、道なりに進んで園美はトラットリア【ルナ】を目指す。
見えてきた白色の建物を前にして彼女は怪訝に思った。何かおかしい。
園美の腕時計の針は11時36分を示しているのに店の前の看板はいまだにcloseのまま。先週は待つ人の列が出来ていたのに今日はひとりもいない。
おかしい。ランチタイムは11時30分からだ。ランチの時間なのに開店しないとはどういうことだろう? 大きな窓から見える店内は暗く、人の気配がない。
だんだん嫌な予感がしてきた園美は携帯電話を取り出して検索画面に店の名前を打ち込んだ。表示されたトラットリア【ルナ】のホームページを確認する。
店の定休日は毎週月曜日、第二日曜日。奇しくも今日は7月の第二日曜日だった。
「ミスった……」
園美は独り言を吐いて顔を伏せた。よりによって今日は定休日だ。毎週月曜も定休日と言うことは店は明日も休み。
事前に定休日を確認しなかった自分が悪い。すずらんのピアスと彼のことで頭がいっぱいで、定休日を気にする余裕もなかった。
せっかく勇気を出してここまで来たのに無駄足だった。せっかく昨日美容院に行って髪の毛を少し切ったのに。せっかく先週ラフォーレ原宿で購入したすずらん色のワンピースを着て来たのに。
……何がせっかく?
肩を落として園美は道を引き返した。これからどうしよう? ショッピングをしたい気分でもない。空腹は感じるがトラットリア【ルナ】のトマトのカッペリーニを食べるつもりでいた園美にとって他の物を食べる選択肢はなかった。
トマトのカッペリーニは美味しかった。園美は冷製パスタを生まれて初めて食べたが、冷たいトマトが
うなだれて街を歩いて表参道駅に帰って来た。彼女は駅の地下二階改札内にあるスーパーマーケットに入った。ここで何か惣菜でも買って帰ろう。
こういった駅の地下にあるスーパーは、コンビニや街にあるスーパーよりも“ちょっとだけお洒落でちょっとだけイイモノ”が売られている。そしてコンビニや普通のスーパーマーケットで購入するよりも“ちょっとだけお洒落”な食事になる。
でも何を食べたいかまったく浮かばない。パン、おにぎり、マフィン……品物の棚を順に見て回っても食べたい物がなかった。今でも食べたい物はトマトのカッペリーニだった。
こうなったら自分でトマトのカッペリーニを作ればいい。しかし冷製パスタを園美は作った経験がない。レシピをネット検索してそれを見ながらやるしかない。
再び携帯電話のネット画面を開いて、冷製パスタ、トマトのカッペリーニでレシピ検索をした。まずカッペリーニ、次に新鮮なトマト、オリーブオイル……は幸い家にある。
園美はパスタの売り場を探した。先ほど通過した通路を戻り、見つけたパスタコーナーで彼女は立ち尽くす。
パスタの麺を手にとってパッケージをひとつひとつ眺めている男性の横顔に釘付けになった。
あの人だ。トラットリア【ルナ】のオーナー夫妻の息子でウェイターのあの男。彼がたった2メートル先に立っていた。
「あっ……」
いつの間にか震える声を出していた。この心臓の震えは緊張から? それとも高揚から?
園美の声と視線に気付いた彼が園美に顔を向けた。彼はわずかに目を見開いて彼女を見据える。
『先週店に来てくれた方ですよね?』
「えっ……あっ、はいっ!」
よく覚えているなと思った。客商売だから?常連になれば店員に顔を覚えられることはあるが、園美はまだ一度しかあの店を訪れていない。
彼は持っていた商品を棚に戻して園美に一歩近付いた。ウェイターの姿しか見たことがなかった園美は彼のラフな私服姿をまじまじと眺める。
『ピアス落としませんでした? すずらんみたいな花がついた』
「はい。もしかしてお店に?」
『ありました。取りに来るかもしれないからと預かっているんです』
「すみません! 今日、お店にピアスのことを尋ねに行ったら定休日だって知らなくて……」
園美は恥ずかしげにうつむいた。頭上で彼の吐息混じりの笑い声が聞こえる。
『店に来たんですか?』
「はい、さっき……。営業していなかったので引き返して来たんです」
『そうだったんですね。いつもは日曜も営業しているんですが、第二日曜だけは休みなので。申し訳ありません』
「そんな。定休日を確認しなかった私が悪いんです」
低いトーンで紡がれる彼の声が心地よかった。もっと聞きたい、ずっと聞いていたい。
心臓が痛くて、むず痒い。
『でも困ったな。ピアスは今は俺の家にあるんです。店に置いておくとどこかにいってしまうかもしれないから持ち帰ってしまって……』
彼の視線が園美が持つ空の買い物カゴに向けられる。これからトマトのカッペリーニの材料を揃える予定だった園美のカゴには何も入っていない。
『昼飯の買い物ですか?』
「いや……その……今日はお店に行ってトマトのカッペリーニを食べる気でいたんです。定休日なら仕方ないし、でもどうしてもトマトのカッペリーニが食べたくて、自分で作ろうかなって……」
『それでまずカッペリーニを探しにここに?』
「はい。冷製パスタを作ったことがないのでレシピを見ても上手く作れるか自信はないんですけどね」
彼は園美と彼女の買い物カゴを見て黙考していた。切れ長の綺麗な瞳でそんな風にじっと見つめられると顔や身体に熱が溜まる。
『俺が作りましょうか?』
「えっ……」
『ピアスは俺の家にありますし、定休日のお詫びも兼ねてトマトのカッペリーニは俺が作りますよ』
しばらく何も言えずにいる園美の様子を見た彼は慌てた様子で付け加えた。
『別に変な意味じゃなくて……ああ、でも知らない男の家に行くのは嫌ですよね、すいません』
申し訳なさそうに眉を下げる彼から目が離せなかった。家に誘われたのには驚いたが、こんな奇跡的なことはもう二度とないかもしれない。
「そんなことないです。お家にお邪魔してもいいのなら……」
大人な女ならこういう時、どうする?
29歳設定の恋愛ドラマの主人公ならどうしている? 簡単に男の誘いに乗らないのがいい女? 家に誘われてノコノコついていく女は尻軽女?
この男がカッペリーニを作ってご馳走してくれるだけで終わる保証はない。
彼の人柄もよく知らない。男は自分のテリトリーに入った途端に狼になることもある。
迫られた場合、逃げる? 逃げない?
そんな事態になる? ならない? わからない。
迫られた場合、どこまで許す? 許さない?
キスをしても身体は許さない? それとも最後まで許して彼に身を委ねる?
……わからない。
ありもしない妄想をしても仕方ない。
もし本当にカッペリーニを作ってご馳走してくれるだけで終わった場合、きっと園美は残念な気持ちになるだろう。だけど何も起こらない方が彼に幻滅しないで済む。
彼のカゴにはカッペリーニのパスタが入り、あっという間に材料を揃えて会計を済ませた。前にイタリアのレストランに勤めていたと聞いたから彼も料理人なのだろう。
『自己紹介まだでしたね。
「
互いに自己紹介を済ませた二人は表参道駅から三駅のところにある代々木上原駅で降りた。乗車時間はわずか7分。
『俺、さっきまで店にいたんですよ。在庫の確認や色々と仕事が残っていて。永沢さんが来たのは俺が店を出た後だったんですね』
「そうだったんですか……」
もう少し早くに店を訪れていれば店には雪斗がいた。逆にあと少し遅ければ、表参道駅のスーパーで雪斗と会うことはなかった。
偶然とはいくつもの“もしも”と“まさか”で出来ている。
代々木上原駅を下車して歩くこと数分。住宅街の一角にグレーの建物に赤い階段が印象的なアパートがある。ここが雪斗の住居だ。
「ご両親とは一緒に住んでいないんですね」
『まぁ今は……。職場が親と一緒だからプライベートは別々の空間を保っていたくて、イタリアから戻ってきてずっと独り暮らしです』
赤い階段を登った先の白色の扉に雪斗が鍵を差し入れる。彼の手には表参道駅の地下で購入した食材を入れた袋が提げられていて、園美はこの感覚に懐かしくなった。スーパーで一緒に買い物をして帰宅する恋人同士になれたみたいだった。
『狭くてすみません。そこのソファーにでも座っていて待っていてください』
雪斗の部屋は縦に長いワンルーム。フローリングの部屋にはキッチンとベッドやソファーの生活スペースがせせこましく同居している。彼の部屋にはテレビがなかった。
ソファーに座るとキッチンで動く雪斗がよく見える。
男の人に料理を作ってもらうなんて何年振りだろう。2年前まで同棲していた別れた恋人は家事を一切しない人だった。
包丁も持てない、洗濯機も回さない、アイロンもかけない。家事は女の仕事だと、時代錯誤な両親の刷り込み教育の結晶のような男だった。
その前に1年付き合っていた恋人は料理ができる人だったが、あまりにも味へのこだわりが強くて園美が作る料理の味付けに文句を言う人だった。
さらにその前の恋人となると大学時代の話になるが、互いに実家暮らしだった大学時代の恋人には手料理を振る舞った経験も振る舞われた経験もない。
こんな風に料理ができるのをワクワクして待っている至福の時間は外食でしかありえない。たまに実家に帰っても社会人になった娘が上げ膳据え膳とはいかない。実家でも家族分の料理を作ったり洗濯を担当することもある。
調理の合間に雪斗がこちらにやって来た。ゴソゴソと探し物をしていた彼はくるんだハンカチを園美の手のひらにそっと載せた。園美がハンカチを開くと、失くしたすずらんのピアスの片割れが顔を覗かせた。
「ありがとうございます。これお気に入りだったんです」
『よかった。ピアス可愛いですよね。お似合いでしたよ』
ピアスが可愛いと言われただけなのに自分まで可愛いと言われた気になって園美は頬を染めた。こんなにすぐに顔を赤くしていたら恋愛初心者の中学生並みだ。
ハンカチは雪斗に返して、戻ってきたすずらんのピアスをポーチの中に入れようとした時、もうひとつのピアスがポーチから出てきた。先週、ラフォーレ原宿でもう片方のピアスを外してからずっとポーチに入れっぱなしだったようだ。
雪斗が園美の手元にあるふたつのすずらんを見つめる。
『揃いましたね』
「はい」
園美は右耳と左耳につけていたピアスを外してすずらんのピアスに付け替えた。すずらん色のワンピースとお揃いのすずらんのピアスが彼女の耳元で涼やかに揺れる。
肩の下まで伸びていた髪を少しだけ切ったことで、耳元のすずらんのピアスの存在が一層際立つ。
『似合いますよ』
「ありがとうございます」
照れ臭くはにかむ園美を見て雪斗も微笑む。彼はキッチンを一瞥して立ち上がった。
『もう少しで出来ます。待っていてくださいね』
「お手伝いすることありますか?」
『そうですね……。もうすぐカッペリーニが茹で上がるので冷やすための氷水の用意をお願いできますか?』
「わかりました」
園美は立ち上がり、雪斗と共にキッチンに立った。
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