第24話 あとがきにかえて

 あとがきにかえて 黒澤明の「映画技術」


 黒澤明の言いたかったこととは、結局は「日本と日本人」についてであった。

 人間と社会全般についての深い考察が、日本人黒澤明の手によって「日本と日本人」になったのである。

 だから、日本人を語りながら黒澤は、世界を語っているともいえる。そして、その故にこそ彼の映画は世界で高い評価を受けた。


 黒澤明が映画に込めた情熱を知るとは、彼の映画技術を精神的な面から感じることである。

 黒澤映画は、人それぞれいろいろな楽しみ方ができるように、たくさんの見せ場が用意されている。主役や脇役の見せ場、大道具・小道具、カメラや音楽や美術の見せ場、等々。

 そして、脚本家であり映画監督でもあった黒澤明。その最大の見せ場とは、なんといっても、真理の裏表の妙であろう。武道家黒澤らしい一瞬の気合いによって、見えるものを見えなくし、見えないものを見せる「技術」である。


 剣道でも柔道でも日本拳法でも、最もむずかしいのが「相打ち」の判定だ。観客はもとより、最も近くにいて、両者の呼吸を感じながら判定を行う審判でさえ、戦う二人が同時に技を掛け合った時、いったいどちらの技が有効なのか、その判断に迷うことがある。大相撲では「同体」といい、しばしば審判四人が土俵の上で協議する場面が見られる。

 日本刀(の鋭利な刃)に象徴される武道(真剣勝負)では、その刃先ほどの鋭利な一点が生死の分かれ目となる。技をかけるのがコンマ一秒早くても、遅くても死ぬ(自分が負ける)。コンマ一秒・コンマ一ミリという、鋭い刃先のような刹那を制した(完全にコントロールした)者だけが勝者となるのである。


 剣道に熟達した黒澤明という男は、この「日本刀の刃先」を映画に取り入れた。相撲における「同体(相打ち)」を、映画のなかで意図的に行ったのである。虚構と真実、笑いと悲しみ、娯楽と芸術、美と醜、善と悪。その境目の刃先のような「ギリギリ」のところを映像にする、ドラマにする。これが黒澤独自の映画スタイルであり、だからこそ、私は彼の映画を「黒澤映画」と呼ぶ。


 黒澤の凄味は、知識や技術ではなく強力な精神力によって場の雰囲気を作りだし、

 スタッフ全員を完璧にコントロールすることで、芸術家の無形の思いを、日本刀の刃先のような鋭利な一点に「絵」として凝縮させた点にある。黒澤映画の映像の濃さ、重みというのは、ひとえにこの精神的な集中力の賜物だ。


 海外の映画のなかには、黒澤映画で見た「絵」を思い出させるものがいくつもあるが、「日本刀の刃先」を感じさせる映画はない。技術は追いかけることができても、「武道の気合い」「侍魂(さむらいだましい)」という無形の力を発揮するのは難しい。これこそが、海外で黒澤映画が珍しがられ、且つ尊重される理由である。三船敏郎の素晴らしい演技以上に、黒澤自身が映画に込めた武士の迫力が、世界中の人間の心を圧倒するのだ。


 自伝「蝦蟇の油」によると、黒澤は、日本のインテリと頭でっかちの映画評論家が大嫌いだった。彼らが、心ではなく頭で映画をこねくり回し、本当は面白い映画や、あるいは社会というものを「豊富な知識と教養」でこねくり回し、かえってつまらなくしているからだ。


 朧月夜(おぼろづきよ)のように美しく温暖な気候の島国で、味噌や抹茶という和の風味を味わいながら長いあいだ生きてきた日本人の心があれば、映画の知識や武道の経験などなくても、黒澤映画に込められた日本人の思いを感じ取ることができるだろう。


 2013年 12月3日 平栗雅人

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黒澤明 知ってる ? 黒澤映画に見る日本 2013年12月5日 V1.1 @MasatoHiraguri

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