第22話 黒澤の怒り
黒澤映画と小津安次郎の映画で、なにが一番違うのかといえば、それは「怒り」である。
黒澤映画には怒りがある。人間の持つ自然の「真・善・美、純真な心」は賛美するが、「弱い者イジメ」をする人間や社会に対して、黒澤は強い怒りを抱いていた。それは、子供に対する父・母・教師という存在も含めた、社会的立場を利用して人をだます、強制的に従わせる人間のことだ。権力を利用して他人の名誉や尊厳を横取りする人間。
たとえば「どですかでん」で、インテリぶって子供をだまし、自分のために利用する父親たち。「生きる」における市役所の助役たち。「白痴」で、純粋な人の心を弄ぶ金持ち連中への怒りである。
黒澤はまた、同じ「ヤクザ」でも、任侠と「ごろつき」を区別していた。「七人の侍」における、村を襲う野武士は「ごろつき」であり、村人(黒澤)の怒りの対象であるが、助ける側の野武士は任侠であり、初めは山賊と同じ野武士だと村人から忌み嫌われていたが、やがて友好を深め尊敬の対象に変わっていく。
黒澤は、戦争には反対の立場であったが、女性的な「争いはいけません」ではない。
武道家の黒澤が、戦いを否定するはずがない。自衛のために戦う、自分を進歩させるために自分と戦うという意味においては、むしろ積極的に戦うことをモットーとしていた。
戦争に対する黒澤の怒りとは、自分たちの政治的無能・経済政策の無策によって戦争や災害を引き起こして国民を不幸にするインテリや、戦争によって金儲けをする者たちに対して向けられていた。
黒澤明が「トラ・トラ・トラ」の日本側監督を降ろされたのも「怒り」が原因だ。黒澤が真珠湾攻撃というものを、単にアメリカの言いなりになって映画にするわけがない。「真珠湾攻撃とはなぜ引き起こされたのか」という歴史の真実を追求すれば、当然、日本人黒澤には強い怒りが生じてくる。彼なら「ペリーの来航」までさかのぼって戦犯探しをするだろう。そしてその真実を映画に盛り込もうとすれば、当然、「日本は卑怯者」というイメージを作りたいアメリカの思惑と激突する。
東京オリンピックの記録映画にしても、「黒澤映画」にしたら、単なるスポーツの記録映画ではなく、そこにうごめく人間の醜い欲望まで表現していただろう。なにしろ、黒澤はリアリティ(真実)を追求する男なのだから、単にお仕着せの提灯映画など作るはずがない。ドイツのレニ・リーフェンシュタール同様、日本の黒澤明も、魂のある記録映画を作れる映像芸術家である。
「怒れる男」黒澤明は、魂をもつサムライだったのだ。
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