第21話 「マトリックス」と黒澤映画

 マトリックスとは、それを見ようと積極的に意識する人間には見えるが、これに取り込まれている受け身の人間には見えない。ネオやモーフィアスたちのような「覚醒した・目覚めた人間」は、現実世界というものが何者かによって作られた幻想である、ということを知っている。しかし、ほとんどの人間にはそれがわからない。

 覚醒という言葉は、もともとは「釈迦が覚醒した(悟りを開いた)」と言うように、真実・真理に目覚めたという、善なる意味で使われる言葉である。目覚めるがオーバーなら、「知る」でもいいだろう。


 アメリカン・インディアンには「(真実を)知った者は他の者に伝える義務がある」という言葉がある。イエス・キリストは真実・真理を知ったがゆえに、それを人々に知らせた。黒澤映画も「マトリックス」も、映画という虚構を楽しみながら、同時に「真実」を知ることができる映画なのである。


 優しい日本人

「どですかでん」の六ちゃんが、まいにち電車で通る街には、悲しい事件や滑稽な出

 来事という現実がある。ところがせっかくの現実を目の前にしても、彼にはそれが見えない。彼に見えるのは、絵に描かれた美しい夕日や星空、色とりどりの電車という「夢」だけだ。それはまるで、「すぐ目の前にある真理の大海に気づかず、砂浜できれいな貝がらを拾って喜ぶ子供」と自らを評した、ニュートンの言葉そのものであり、メールや写真・ビデオ、ネットやテレビで喜ぶ、多くの日本人の姿でもあるのだろう。

 一方、ひどい現実に悲しみ怒りながらも、心に夢と希望を失わなかった「素晴らしき日曜日」の恋人たちのように、黒澤明という男は「坂の上の雲」を見つめながら、現実という坂道を上り続けた、もう一人の日本人であった。


 戦う「ハリウッド」

 映画「マトリックス」の最後で、主人公ネオは電話の向こうの「誰か」に、こう話す。

「この電話を聞いている(盗聴している)のは分かっている。お前たちは我々を恐れて

 いる。変化を恐れている。この戦いがどんな結末を迎えるかわからない。だが、これからが本当の始まりなのだ。この電話のあと、人々に本当の世界を見せる。お前たちが支配しない世界を。どんな規制も束縛もない世界を。・・・その先、お前たちはどうする」と。


 黒澤映画「夢」で、放射能という目に見えない毒に色をつけるという話がある。それを考え出した日本の役人がこういうことを言う。

「結局、色をつけたところで、危険であることに変わりはない。それが危険であるという真実を知りながら殺されるというのは、知らないで死ぬよりも、よほど残酷だ」

 アメリカの東部に反抗して西海岸へやってきた「ハリウッド」は、イエス・キリストと同じく、真実を見る能力・見せる義務を持つことを民族の誇りとしている。彼らが黒澤明という男を尊敬するのは、彼が世界でも数少ない「戦う映画人」であったからだ。

 イエスも「ハリウッド」も、ファイティング・スピリッツのある者だけが行くべきところへ行けると信じている。真実を知って死ぬことは辛いかもしれないが、その先に待っている場所が違うのだ、と。

 六ちゃんのように「酔生夢死」するか。ネオのように真実と格闘して死ぬか。ある

 いは、真実を見ながらも夢を忘れない武道家黒澤明のように生きるか。それは個人の選択なのである。

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