第20話 「どですかでん」1970年 脚本 黒澤明・小国英雄・橋本忍

「どですかでん」1970年 脚本 黒澤明・小国英雄・橋本忍   日本版マトリックス


 主人公の六ちゃんは、もう高校生くらいの歳なのだが、学校へ行かず、毎日、六ちゃんしか見えない路面電車を運転して街を走る。さて、今日はどんな景色を見ることやら。

 黒澤映画のなかでは、唯一「戦い」のない映画(その所為か、黒澤映画に常連の三船敏郎が出演していない)。恋人・夫婦・親子・老いという、よりプリミティブ(素朴)な世界を淡々と「絵にして」いる。役者の口から言葉でなにか言わせるというよりも、絵(色)でそれを表現している。映画ではなく「絵画(えーが)」という感じだろうか。

 たんばさんという篤志家(人徳者・長屋の長老的存在)は、フランスの小説「レ・ミゼラブル」のミリエル司教がモデルになっているが、この老人の家の壁の色は白。教会のようだ。職人の父親と子供たちがいる空間は、温かい心を反映しているし、哀しい過去を背負った中年男のそれは、暗く寒々しい。そして、六ちゃんの家の中は、もちろん明るい色で一杯、夢の世界のようだ。

 唯一、黒澤が怒りを表明しているのは、「インテリが子供を殺す」ということ。乞食の子供は、乞食であることに不幸ではなかったが、父親の知識によって殺された。また、難解な言葉を振り回す義父は、娘の魂を殺した。彼らインテリよりも、飲んだくれの八つぁんや熊さん、無学でも心優しい父親や優しい心を持つ老人の方が、ずっと心ゆたかに楽しく生きているではないか。


 ヴィクトル・ユーゴー作 「レ·ミゼラブル」序文

「法律と風習があるために、社会的処罰が存在し、文明のただなかに人工的な地獄を

 つくりだし、神意による宿命(自然な運命)を人間の不運でもつられさせているかぎり、また貧乏のための男の落伍、飢えのための女の堕落、暗黒のための子供の衰弱という、現世紀の三つの問題が解決されないかぎり、またあちこちで社会的窒息が起りそうであるかぎり、言葉をかえてもっと広い見地に立って言えば、地上に無知と悲惨がある以上、本書のような性質の本も無益ではあるまい」


 トレイン・マンとは六ちゃんだった !

 アメリカ映画「マトリックス(1999年)」では、現代人の見ている現実とは、仮想空間(マトリックス)のことであり、ネオやモーフイアスという一部の人間だけが、真実と仮想空間の間を行き来できる、ということになっている。


 日本映画「どですかでん」では、六ちゃんだけが現実と仮想空間の間を「電車」で行ったり来たりできる、(自分だけの)救世主なのだ。六ちゃんは子供たちからさえ、「電車バカ」と呼ばれて、石を投げられたり、家の壁に落書きされたりしている。しかし、彼の純粋な心とは、日本人にとって大切な魂の救済方法でもあるのだ。


「マトリックス」で、モーフィアスがネオに現実の世界を見せるが、それは「どです

 かでん」で、六ちゃんが走る廃墟の街そのものだ。また、「マトリックスⅢ」に登場する「トレイン・マン」とは、六ちゃんと同じ「電車の運転手」である。つまり、黒澤映画は三十年も前に、映画「マトリックス」の登場を予告していたのである。

「マトリックス」の救世主ネオは、人類のために、敵を殴って蹴って投げ飛ばす。彼

 らは戦うことで真実を手に入れようとする。そして、「どですかでん」の我らが六ちゃんは、ただただ毎日、電車を走らせる(起きていながら夢を見る)ことで、一人静かに心の安寧(安心)を手にしている。

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