第15話 「蜘蛛巣城」1957年 脚本 小国英雄・橋本忍・菊島隆三・黒澤明
「蜘蛛巣城」1957年 脚本 小国英雄・橋本忍・菊島隆三・黒澤明 強すぎた日本
勇猛果敢な戦国武将 鷲津武時は、自分の主人を殺して蜘蛛巣城(くものすじょう
)の主(あるじ)となる。しかし、「強いが故に弱い」この男は、肉体の強さに精神の強さが追いつかずに、最後は自滅する。まるで大正・昭和の日本である。
ストーリーは「マクベス」そのものだが、「蜘蛛巣城」という映画は、三船や山田五十鈴の至高の演技によって、日本人(の強さと繊細さ)が強烈に描き出されている。
黒澤映画では、むしろその原作・原案が西洋文学でない場合に、それら古典文学のテーマを見ることが多い。たとえば「素晴らしき日曜日」「醜聞」「生きる」「悪い奴ほどよく眠る」といった映画には、ドストエフスキーの「罪と罰」の思想が盛り込まれている、というように。
強いだけでは勝てない
見よ 妄執(もうしゅう)の夢の跡
魂魄(こんぱく)未だ住むごとし
それ執心の修羅の道
昔も今もかわりなし
この歌とともに、霧の中から現れる「蜘蛛巣城跡」と書かれた木のモニュメントは、まさに広島の原爆ドームを思い起こさせる。
「昔も今もかわりなし」というように、昔から何一つ変わっていない、権力という妄
想にとりつかれた者たちへの絶望を、この映画は暗示している。明治以来、日本が経験した数々の戦争を振り返り、自衛を超えて侵略戦争にした日本のインテリたちが繰り返す「修羅の道」を、黒澤は見たのである。
鷲津は戦に強かったがゆえに、敵の侵略から国を守る(自衛する)ことができた。そしてその功労により、第一の家来として主君に可愛がられた。ところが彼は、その類まれなる強さに由来する傲慢と臆病から、自分の主に反抗してこれを殺した。
昭和の初め、日本の「鷲津たち」もまた、自分らに「侵略戦争のやり方」を教えた「主君」米英に対する傲慢と恐怖から、これを討たんとした。
大義名分を失った日本
かつて日本は、米英に操られて朝鮮半島に侵略した清帝国と戦い(日清戦争)、日本海の支配権を巡ってロシアと戦った(日露戦争)。
ところが、その次に日本は、近代戦争の教師であった米英に反抗し、更には西欧列強が浸食していた中国や、オランダが侵略していたインドネシアにまで手を広げたため、自衛」という大義名分を失ってしまった。アジアの国々にとって日本は解放者だが、欧米諸国にとっては、自分たちの利権を侵害した「侵略者」であったのだ。
鷲津だけが正しいと思っても、傍(はた)から見れば、主君の恩義を忘れた謀叛の徒、悪者・狂人と見なされ、他の武将から総攻撃を食らう。昭和の日本もまた、「悪」の烙印を押され、世界中を敵に回し、最後は進退窮まり自滅した。
太平洋戦争末期、日本全土でいくら情報統制が行われ、軍人や役人が国民の目を欺こうとしても、人々は知っていた。これは負け戦だな、と。鷲津の家来たちのように、戦争末期の日本国民は、疑心暗鬼で殿様(役人)を見ていたのである。
鷲津とは、池に飛び込む前の姿三四郎である。有能だが道を知らない。
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