第14話 「どん底」(1957年)脚本 黒澤明・小国英雄

「どん底」(1957年)脚本 黒澤明・小国英雄  魂の掟


 秋の夕暮れ時。ゴーンという鐘の音と共に、坊主たちが寺のゴミを崖の下へばらまく。「どうせ下はゴミためさ」と言いながら。その下にあるのが、この映画の主人公たちの住む長屋。

 寺は貧乏人を救わない。この厳しい現実から物語は始まる。


「どん底」といって、確かにこの映画の主役は貧しい人たちだが、彼らの本性はどこ

 にでもいる人間のそれと同じだ。黒澤は社会の最低辺に住む人々を描きながら、人間の本質を見ている。つまり、人間は誰でも嘘つきである。自分ををごまかすための嘘、人を貶めるための嘘、自分をよく見せようとする嘘、等々。毎日、人と自分に嘘をついて生きている。宗教など笑いとばす長屋の住人の中で、巡礼こそが一番の嘘つきだし、何よりも「世論」というものこそ、いつでも嘘ではなかったか。


 冷酷でがめつい大家と、この亭主を殺したいと願う、さらに冷酷で貪欲な妻。長年連れ添った女房の死を願う亭主。売春婦をしながらも、純粋な心を忘れない夜鷹。過去の栄光にすがる元殿様。人生とはイカサマ博打と達観している博打打ち。金持ちを軽蔑し、貧乏人には優しい男気のある泥棒。長い役者人生で、自分のセリフ(人生)を忘れてしまった元役者。生真面目な駕籠かき。過去に人を殺しかけたことのある職人。「過去」のある巡礼。

 彼ら「悪人ども」はしかし、みな魅力的だ。なぜなら、格好をつけていないから。正直で純粋な魂をそのまま発散させている。だから、すぐ喧嘩になるのだが、彼らのつく嘘とは正直者の嘘であり、嘘にも心がこもっている。「生きる」に登場する助役のような、頭で考える計画的な嘘ではない。

 親鸞は言った「善人なおもて往生す。いわんや悪人をや」と。偽善者でさえ天国へ行けるなら、真に善人である「悪人」が行けないことはない、と。

 映画のラスト。宴会の真っ最中、元役者が首を吊ったことを知らされた博打打ちがこう言う。「ちぇっ、せっかくの歌を台無しにしやがって(バカヤローめ)」。

 どんな弔辞やお経よりも心に沁みる「弔いの言葉」がここにある。この言葉で、役者は天国へ行けたに違いない。

 

この映画の原作であるゴーリキーの「どん底」で、韃靼人(タタール人 イスラム教徒)はこう言う。「魂の掟がなければ、人は正しく生きていけない」と。人間は何らかの心のつっかえ棒がなければ、生きていけない。しかし、キリスト教やイスラム教の「つっかえ棒」とは、「嘘も方便」という仏教とちがい、先ず真実を理解すること。イエス・キリストが惨殺されたという現実を直視するところから、キリスト教は始まっている。

 武道家黒澤明の場合は少しちがう。自分をごまかさず、自分と戦うことで精神を鍛え、自分自身の魂の掟によって強く生きるべし。これが武道で鍛えた黒澤の答えであった。

 元役者にとって、巡礼は心の支えだった。実在しようがしまいが、アル中の自分を救ってくれる場所がある、という巡礼の言葉だけで安心できた。ところが、巡礼が姿を消すと共に、その夢も消えてしまった。

「嘘による安心」の味を覚えた者は、それがなくなれば自分の存在も消えるしかない。

 映画「羅生門」も「どん底」も、ともに人間の純粋で弱い心をテーマにしている。嘘ばかりの世の中で、どう嘘とつき合って生きていくか。

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