第13話 「生き物の記録」1955年 脚本 黒澤明・橋本忍・小國英雄

「生き物の記録」1955年 脚本 黒澤明・橋本忍・小國英雄  メビウスの輪


 当時、第二次大戦の戦勝国アメリカやソ連・中国が、狂気のように繰り返し行っていた核実験。その恐怖から、七十歳の老人(中島喜一)は自分の工場を売り払い、家族全員で南米へ移住することを計画する。これに反対する息子たちは彼を裁判所に訴える。裁判所の調停委員(弁護士)は言う。「裁判所というところはね、犬も食わない夫婦喧嘩を飯のタネにするようなところなんですよ」と。

 裁判所の決定に不満を抱く老人は思い詰めて工場に放火し、終に精神病患者として入院させられる。裁判所の調停委員という立場にある一人の歯科医が見た老人は、果して本当に「狂人」だったのか。

 精神病院の医者は、面会に来た歯科医にこう言う。「狂人というものはそりゃあ、みんな憂鬱な存在には違いありません。しかし、この患者を見ていると、正気でいるつもりの自分が妙に不安になるんです。狂っているのはあの患者なのか、こんな時世に正気でいられる我々がおかしいのか、・・・」


 ラストの場面。

 喜一と面会を終えた妻・息子・娘達、しばらくして歯科医も一人で、病院の階段を降りてくる。彼らはみな「狂人」になった喜一に絶望して彼から離れていく。

 しかし、若い女性に背負われた赤ん坊(孫)は、これから老人と面会する為に階段を登っていくではないか。

「生き物の記録」という題名が示すように、この映画におけるテーマは「記録」で

 ある。今、この老人は「狂人」かもしれない。しかし、この赤ん坊が大人になったとき、彼の考えはどう評価されるのだろうか。その時のために、今ここで、この老人の言動を記録しておこうではないか。つまり、この映画は、黒澤明が、社会人として失格した人間を一匹の生き物としてとらえた記録なのである。


 ここで私たちは「羅生門」のラストを思い出す。そこにも「赤ん坊」がいた。だが、羅生門」と「生き物の記録」の赤ん坊とでは、その役割がちがう。

 「羅生門」の赤ん坊とは、あの殺人事件とは無関係である。赤ん坊はいまの時代に

 起こった事件の真相を、後世、正しく検証してくれる可能性の象徴である。時間という神が過去の出来事を正しく評価してくれる、という確信である。

 ところが、「生き物の記録」における赤ん坊とは、喜一の引き起こした騒動と決して無関係ではない。

 もし、この赤ん坊が喜一と同じ老人になったときに日本が放射能で汚染されるような事態になれば、この赤ん坊は「未来における被害者」であり、喜一老人は「過去における被害者」であったということになる。 彼を狂人として精神的に追い込んだ者たちの方こそ「狂っていた」ということなのだから。

 つまり、「生き物の記録」における赤ん坊とは、将来における(原子力問題の)当事者そのものなのである。

 黒澤明がこの老人を狂人と思っていないことは、工場の慰安旅行の写真をみれば明らかだ。そこに写った家族や工員たちとなごむ喜一の姿は、決して「狂人」のそれではない。黒澤は、この写真を家族が見る場面を作ることで、観客にそれを伝えているのである。

 喜一は、この時代・この社会では狂人であったかもしれないが、生き物としての本能からすれば、きわめて正常ではなかったのか。

 だが、この判定ばかりは「時間の神」に委ねるわけにはいかない。「羅生門」の殺人者は人間だが、放射能の寿命はほぼ永久なのだから。

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