第11話 「生きる」1952年 脚本 黒澤明・橋本忍・小国英雄

「生きる」1952年 脚本 黒澤明・橋本忍・小国英雄 日本版「罪と罰」Ⅲ


「人みな生を楽しまざるは死を恐れざるが故なり」「死を恐れざるにはあらず,死の

 近きことを忘るるなり」「されば、人、死を憎まば、生を愛すべし。存命の喜び、日々に楽しまざらんや」(徒然草 第九十三段)


 ある市役所の職員(渡邉さん)が、勤続三十年のあいだ失っていたファイティング・スピリッツ(戦う心)を取り戻し、お役所仕事の呪いと死の恐怖を取り払い、本当に人間として生きる道を見つけて死んでいく、という物語。生きる屍(魂の死んだゾンビのような生き物)が、余命半年という人生の土壇場になって、ようやく人間になれた。題名は「生きる」だが、実際には魂の死んだ人間ばかりが登場するのがこの映画である。

 手塚治虫の漫画「どろろ(1967年)」や、テレビ漫画「妖怪人間ベム1968年(早く人間になりたい!)」は、この映画からヒントを得たのではないだろうか。


 主人公が五十歳を過ぎてから、真の人間とは何かに気ついたという点では、前作「

 醜聞」の弁護士とこの市役所の職員は同じ。そして彼ら二人は、心のきれいな少女によって心の大切さ・安心所(あんしんどころ)を見いだしたという点で、ドストエフスキー「罪と罰」の主人公ラスコールニコフと、仲間である。

 だが、大学の日本拳法部のように、毎日殴り合いをしている人間にしてみれば、胃癌だの死の恐怖がなければ生きがいを見つけられないというのは、「贅沢に過ぎる」。殴られる痛みで「生きている実感」など、十分得られるのだから。さらには、気の利いたパンチの一発でも相手の顔面にぶち込めば、なお自分と他人の存在が自覚できる。そもそも二時間ヘトヘトになるまで身体を動かせば、身も心も空虚になり、そのあとの煙草の一服ほど満たされた気分にしてくれるものはない。

 この映画に見る公務員とは、タコが自分の足を食うようにして、自分の魂を食い潰している。積極的とか自主性という以前に、人間としての自我を捨て、魂の火を消して、禅寺の坊主のように、無にならなければならないらしい。

 サンマやイワシの稚魚が群れで生きるのと同じで、数の力で自分たちを大きく見せて身を守る。ではいったい、彼らの敵は誰かといえば、「鬼畜米英」でも「嫌韓」でもなければアルカイダでもない。日本の公務員の敵とは、公務員以外の日本人、つまり民間人(納税者)なのである。

 民間人からお金を集め、その対価として様々なサービスを提供するはずが、この映画を見る限り、集めた税収の十分の一くらいしか還元していないらしい。「一時間でできる仕事を一日かけてやる」というのは、それを意味している。そのため、彼らにとって最も大切な公務とは、彼ら身内の秘密を全力で守ることにある。

 映画で助役たち公務員が感じている「うしろめたさ」とは、ひとり「渡邉さん」に対するだけではなく、彼らの日常における、より深い罪の意識に対する「懺悔」なのだろう。


 何かに守られて安穏とした人生を送りたい、という願望は人間だれもが持つ願望だ。

 国家という殻に守られた公務員になるか、神に見守られた乞食で生きるか。社会的な評価は異なるだろうが、生き物としての在り方は同じなのである。

「渡邉さん」はいい人だった。だが、彼は市民のためではなく、自分の生きがいのた

 めに働いた。その自己中心的な行動が、公園の回りに住む住民に喜ばれ、選挙を控えた代議士や助役に利用されただけ、という見方もできる。黒澤がこの映画で意図したのは、むしろ、公務員が自分のために税金を使う恐怖なのではあるまいか。

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