第9話 「羅生門」1950年(昭和25年) 脚本 黒澤明・橋本忍
「羅生門」1950年(昭和25年) 脚本 黒澤明・橋本忍 真実とはなにか
(原案は芥川龍之介の小説「藪の中」)
時は平安時代。洛外(京都の郊外)で一人の男が殺された。犯人として逮捕された盗
賊と、殺された男の霊、男の妻、そして、死体の第一発見者の木こり。だが、検非違使庁(裁判所)で語られる四人の証言は、それぞれ全く食い違っている。「ひとつの真実」に対して「四つの異なる事実(証言)」がある。いったい、誰の証言が真実なのか。
朽ち果てた羅生門の下で、この奇怪な話について語りあう木こりと僧侶、そして雨宿りに来た男。雨が上がった空の下、「彼ら」が見たこの事件の真実とは。
この世の中で、いったい「何が真実なのか」。
人類永遠の問いかけともいえるこのテーマを、この時期、黒澤が映画にしたのには理由がある。
十字架上の日本
1933年(昭和8年) 日本は国際聯盟を脱退したが、前年の12月8日、日本の外務大臣松岡洋右は、国際聯盟の総会において、こういう趣旨の演説を行った。
「あなたがた(日本以外の当時の聯盟加盟国)は、日本を十字架にかけようとしている。それはまるで、2000年前のイエス・キリストのようだ。かつて人々はイエスを悪者であると決めつけ、彼を殺した。しかし今や、あなた方イエスを死刑にした人間の子孫はそれを後悔し、逆にイエス・キリストを神の子として崇めている。現在、日本はあなた方から非難され孤立している。しかし、この日本がいつか必ずあなた方に理解され、受け入れられる日が来るに違いない。」
この演説は、総会では総立ちで拍手喝采されたが、翌日の海外の新聞はあまり好意的にその内容を伝えなかった(痛いところを突かれたのだから当然であろう)。
しかし、日本では「松岡、よくぞ言ってくれた」と、国中が沸いたという。1910年(明治43年)生まれの黒澤は、当然、この時のことを鮮烈に覚えていたはずである。
極東軍事裁判(東京裁判)
1946年(昭和21年)から始まり、1948年(昭和23年)11月4日に判決がくだり、同年12月23日、A級戦犯七人が絞首刑となった。
皇太子(平成天皇)の誕生日に死刑を執行するとは、やってくれるじゃないか、という暗い気持ちで日本中が落ち込んだ日であった。「羅生門」の公開が1950年(昭和25年)ですから、昭和23年というのは黒澤たちが映画の構想を練っていた時期である。
何が真実か
何が真実なのか。それがわからぬままに、人が人を裁くということができるのか。
被害者も加害者も、そしてそれを端(はた)で見ていた第三者までもが嘘をつくのが人間の世界。真実など、どこにもないこの世の中で、いったい誰が、何をもって真実とし、神のごとくに人や国を裁くことができるのか。
黒澤は、第二次世界大戦が終了してまだ間もない当時、日本人が口に出して言えないこの胸の内を、日本を代表してこの映画で訴えたのである。
映画「羅生門」の芸術的価値を見いだし、そこに込められた日本人の心を見抜き、ヴェネチア映画祭を通じて世界に紹介してくれたのは、同じ敗戦国のイタリア(人女性)であったという。
四人の証言
この映画が欧米人の心の琴線に触れた理由は、もう一つある。
映画「羅生門」に登場する四人(木こり・武士・その妻・盗賊)は、一つの事実(殺人)について、それぞれの立場から証言した。そして、それはすなわち、キリスト教の聖書における「四人の証言」と同じなのである。
聖書では、マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネという四人の人間が、イエス・キリストという一人の人間(神の子)が殺されるまでの様子を証言した。それが「四つの福音書」であり、聖書の中核となる書である。もちろん、「四つの福音書」が嘘だというのではない。一つの事実に対して四人の証言があるのだ。
原案である芥川龍之介の小説「藪の中」に、聖書に関する記述はない。
また、黒澤自身も子供の頃、毎朝剣道の稽古に行く時に、かならず八幡神社にお参りしていたくらいだから、「神」の意識は強かったであろうが、クリスチャンではなかった。
しかし、黒澤は「羅生門」の「四人の証言」という設定によって、聖書を日々の(精神的な)糧とする欧米人の心象に強く訴えることができる、と考えた。すなわち、この映画を見たキリスト教徒(欧米人)は「四人の証言」に必ず反応するはずだ、と。
黒澤はこの映画を、ただの文学的・芸術的作品として作ったのではない。
アメリカの映画監督ジョン・フォードが1930年代のアメリカ社会に対し「怒りの葡萄(1940年)」で抗議したように、日本人黒澤明は1940年代の日本人の強い思いを、映画「羅生門」に込めて全世界に訴えたのである。
武道家黒澤明の見た真実 「五番目の証人」
殺人現場を直接目撃した証人として、盗賊、侍とその妻、そして木こりの四人がいる。
だが、じつはここに第五番目の証人がいる。
それは、物語の最後に登場する、門の下に置き去りにされた赤ん坊である。この赤子こそ、将来、この事件の真相を究明し「真実」を見いだしてくれる「時代の証人」となるのだ。
歴史というものが、「生きた証人」が存在する間は本当の歴史にならず、百年、千
年経ってからようやく真の歴史となるように、やがてこの赤ん坊に象徴される子々孫々の時代となり、彼らが冷静に、客観的に事実を評価できたとき、真実は明らかになる。
木が千年・二千年経って、ようやく木としての存在と威厳を示せる姿となるように、「事実」というものもまた、時間という養分を取り込みながら、「存在感のある事実 (=真実)」となるのだ。
柔道や剣道、日本拳法といった武道の試合は、神前(神棚を前にして)で行われる。大衆という観客以前に、先ず「神」という証人がいる。そしてこの証人は、武道における「コンマ一秒の真実」を確実に見究めることができる。しかも、無限の過去から永遠の未来にわたり人間を見守る、不滅の証人である。
武道家黒澤は、この「神への思い」を「赤ん坊」に託したのである。
日本人の証明
これは日本の俳諧における「連句・連歌」である。平安時代に記された説話「今昔
物語」、大正時代芥川龍之介によって書かれた小説「藪の中」、そして昭和における黒澤明の映画「羅生門」。三人の作者が、日本民族の時間の流れの中で、ひとつの事件を追い続ける。それぞれ微妙に異なる三つの物語が、序・破・急というように、連続した物語となる。説話「今昔物語」で始まり、小説「藪の中」でつなげ、映画「羅生門」で完結する。三人の日本人芸術家による連係プレーが、一千年の時空を超えて一つにつながったのだ。
千年かけて一つの物語を作り上げるというのは、時間の神を信じ、縄文時代の昔から連綿として同じ心を引き継ぐ日本人でなければできない、一大文学なのである。
アメリカ映画「十二人の怒れる男 1957年」 とはキリスト映画
父親殺しの罪に問われた少年の裁判で、十二人の陪審員が議論を戦わせる物語。十一名が有罪(死刑)を支持するなか、一人の陪審員の熱意ある説得により、全員が真剣に討議をすることで、次第に事件の真相が解明されていく。
十二人の陪審員が裁こうとしているのは「イエス・キリスト」であると考えれば、人を裁くということがどれほど重みのあることなのか。それをこの映画は私たちに投げかけている。
イエス・キリストという男は、本当に正しく審議されて「死刑」になったのか。磔(はりつけ)にされたイエスに対する人々の評価というものは、本当に確信・裏付けのあるものだったのか。当時、イエスの死を決定した人々とは、もしかしたら、この映画に登場する陪審員のように自分の個人的な事情(好み)から、物事を正しく見ず、早急に判決を下したのではなかったのか。
この映画では、陪審員たちの様々な個人的事情が明らかにされる。早く野球の試合が見たいから評議を終わらせたいという男。子供が自分に反抗して家出した、その憎しみを、いま自分たちが裁こうとする青年にぶつけようとする父親。会社の経営が思うに任せない為に苛立っている経営者。
当然ながら、人間は誰もが個別の事情をかかえて生きている。しかし、人を裁くというのは、そういう人間的な思惑で行われるべきではないはずだ。事件の証人たちが「自分に都合良く目にした事実」を、陪審員がこれまた、自分に都合の良い証拠として受け入れ、機械的に評決を下すのでは、リンチ(私刑)と大差ないではないか。
名優ヘンリー・フォンダ扮する男の職業は建築家、即ち「大工」、つまりはイエス・キリストの父親であるヨセフと同じ職業である。彼は他の陪審員と違い、この事件を他人事として冷たく突き放さず、同じ人間としての優しい視点で、容疑者を見ている。そして、「Architect」建築家らしいというか、アメリカ人らしい、論理的な話の進め方をする。
黒澤明の「羅生門」を観たあとでこの映画を見れば、二つの映画が同じテーマを取り上げていることがよくわかる。「何が真実なのかのわからぬままに、人が人を裁けるのか」。人間ではなく国を裁く時でさえも、「裁く国の事情」に引きずられ、事実を事実として見ようとせず、本当に正しく審議しないということがあるのではないか。
第二次大戦の勝者であるアメリカ人が作った「十二人の怒れる男」という映画は、東京裁判やその前に行われたニュールンベルグ裁判に対する、彼ら「裁いた側」の反省が込められている、と見ることもできる。その意味で、この映画はフェアーを尊重するアメリカ人(ハリウッド)らしい映画といえるだろう。
「人間は結局、真理に行き着けないのではないのか」という、人類永遠の疑問・諦め
に対し、アメリカ(映画)と日本(映画)では、異なる結論を提示しているのが面白い。
(真実に行き着くことはできない、と)建築家は決して諦めない。真実を追究する意志を放棄せずによく話し合えば、今、ここで必ず真実は見えてくる、と懸命に努力する。アメリカ人の中には、こういう人間がたまにいるものだ。彼を中心に人々の心が次第に変化していく。その間の手に汗握る人々の討論、やり取りの凄まじさは、まさにアメリカ映画。エキサイティングでドラマチックである。
一方、日本映画「羅生門」では、「時間」を持ってきている。
春夏秋冬という季節の変化のなかで、木や草の色、姿・形、匂いも変化する。春の山は萌木色、夏には濃い緑、秋には紅葉し、冬には枯れたり雪で真っ白になる。風の匂いやその肌触りも四季折々で違う。この日本の四季と同じで、人の心もまた、長い時間の中で変化していく。人間の常識や価値観というものも、季節(自然)の変化と同じように変るもの、という意識は、数万年の長きにわたりこの国に住んでいる私たち日本人の身体に、無意識の記憶となって染みついている。川のようにゆっくりと流れる時間を意識して日々の生活を営んできた日本人には、時間という神がいる。季節を決めてくれる「時間に心を委ねる」ことができるのが日本人なのだ。
武道家であった黒澤は、人間が必死になって戦う(議論する)真剣勝負の大切さをよく理解すると同時に、戦う二者以外の「存在」についても、強く意識していた。なにしろ、日本には時間の神を含め「八百万の神々」が存在するのだから。
黒澤は映画「羅生門」で、木こりに抱かれる赤ん坊に神を象徴させることで、時間の淘汰による正しい判断(真実)に期待した。日本人らしい静かなる結末によって、この物語(事件)を締めくくることにしたのである。
○「羅生門」は、1950年のヴェネチア映画祭で金獅子賞を受賞した。
そして、それから30年後の1982年、今度はヴェネチア映画祭50周年記念行事で、歴代グランプリ作品中最高の作品(獅子の中の獅子・栄誉金獅子賞) に選ばれた。
○ 2001年、国際バレーボール連盟は、この百年間で最も活躍したチーム(二十世紀最優秀チーム賞)に、1964年のニチボー貝塚(東京五輪日本チーム)を選んだ。
これら2つの事実は、まさに「時間という証人」の存在を示しているといえよう。
「ハリーの災難」1956年 監督 アルフレッド・ヒッチコック
この映画はヒッチコック版「羅生門」である。
「羅生門」で黒澤は、ひとつの殺人事件を巡り、それを目撃した人間たちの嘘をと
おし、「真実とは何か」という人類永遠のテーマを観客に投げかけた。
ヒッチコックは、映画「ハリーの災難」で英国人流に、このテーマを料理した。
美しい田園風景の中に転がる一人の男の死体。彼の名はハリー。この死体をめぐり、四人の男女が繰り広げる「ドタバタ喜劇」という映画である。
「ハリーの災難」とは「羅生門」(1950年)のパロディなのか、はたまた、東洋の巨人・黒澤明(の提議したテーマ)に対する、西洋の巨匠ヒッチコックの(真面目な)挑戦なのか。
事実として死体はある。
だが、この死体という事実をめぐり、いま生きている人間が様々な悲喜劇を引き起こすというだけのこと。「真実の追求」など、どうでもいいことなのだ。
英国人はみな自分のことで忙しい。人の死など、回りの人間からすれば、何かに利用する道具でしかない。乞食は死体が履いている靴を失敬し、医者は商売に利用し、坊主は死体をお布施に変える。死体の前妻であった女性でさえ、次の男と再婚する法律上の手続きのために、前夫が間違いなく死んでいるという事実だけが重要であって、それがわかればもう、その「物」に興味はない。
事実(死体)とは、そこに居合わせた者たちによってその場で合意されれば、土に埋めてしまう(真実として確定する)だけのこと。その死にどういう事情があったのか、あとで議論することなど英国人にとっては時間の無駄。昨日の死体より今日のクリケットの試合の方がよほど重要なのだ。
そして、埋めてしまえば、死体は死体でさえなくなる。「死んじまったものはしょうがない」。「真実」とはそんなものですよ、と。
これが英国流ジョンブルの考え方なのである。
四人が何度も死体を埋めたり掘り返したりする。それが死人である「ハリー」にとって災難というわけだが、ここにも「真実というものの困った性格」を、ヒッチコックは暗示している。
つまり、「真実の追求」のために死体(過去)をいじくり回す愚かさを、見せているのである。
この映画の宣伝のために、わざわざヒッチコックは来日した。
「羅生門」を作った国に対する彼の思い入れがわかるではないか。
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