第8話 「醜聞」1950年 脚本 黒澤明・菊島隆三
「醜聞」1950年 脚本 黒澤明・菊島隆三 日本版「罪と罰」Ⅱ
ある観光地の旅館で、たまたま宿が一緒になった画家と美人の声楽家。その二人の姿を写真週刊誌が「密会」としてスクープした。名誉を重んずる二人は弁護士(蛭田)に依頼して、出版社を告訴する。この弁護士は酒とギャンブルに目がないだらしない人間なのだが、天使のように清純な娘がいる。裁判では出版社が雇った優秀な弁護士との争いになり、原告の敗訴が確定したかに見えたが、娘の死により真実に目覚めた蛭田の告白によって。
この映画は、一見すると他人の私生活を食い物にするマスコミ批判のように見える。あるいは、弁護士にも良いのと悪いのがいる、という事実を教えているかのようだ。
だが、黒澤はこの映画で、真実を正しく見ようとしない無邪気な大衆の存在を指摘し、その危険性もまた訴えているのである。
黒澤のような映画屋にとって、大衆は大事なお客さんだ。しかしその大衆とは、黒澤が映画で主張する真実ではなく、「別の事実」に関心を持つことが多い。映画の内容そのものよりも、むしろ俳優や音楽について、あるいは映画制作の裏話(うらばなし)のようなことを好んで話題にしたがるものだ。
たとえば、黒澤の代表作「羅生門」では、「何が真実なのか」というテーマではなく、「羅生門」の俳優の演技や音楽の素晴らしさ、ベネチア映画祭で金賞をもらったというような話題ばかりが取りあげられる。受賞したのは真実だ。しかし、この映画がなぜ受賞したのかという、映画の内容についての議論や考察がなければ、観衆が自分の頭でそれを考えなければ、この素晴らしい映画を本当に見た、楽しんだことにはならないだろう。
ここに大衆(人間)の弱さがある。真実を見ない(考えない)で、虚構(別の真実・あまり重要でない真実)を見て納得し、感激し、そして安心する。
映画「醜聞」の最後、娘の死によって物と金の幻想から目覚め、小説「罪と罰」の主人公と同じく、真の人間となった蛭田のことを画家はこう言って讃える。「僕たちは生まれて初めて、星が生まれるところを見たんだ。その感激に比べれば、(裁判の)勝利の感激なんてケチくさくて問題にならん」と。
黒澤にしてみれば、自分が丹精込めて作った映画の真実(黒澤の心)を観客が理解してくれれば、賞など、どうでもよいことなのである。
民主主義の世の中では、大衆の支持が多い方が正義とされる。だが大衆とは、本当に大切なことを理解せずに、「世論」という幻想に騙される。あるいは、嘘かもしれないと思いながらも、その嘘を支持してしまう。そんな「無邪気な大衆」がその社会・国に多ければ、人々は真実を見失い、鼠の集団自殺のような行動をとる。それはまるで、70年前の「大日本帝国」のようだ。
「尊敬のない人気なんてたくさんだわ。 見せ物になるのは真っ平」という声楽家の言葉には、スキャンダル(嘘や幻想)で売っているのではない、私の真実(歌と心)を知ってほしいという、歌手と聴衆(大衆)の正しい関係を求める真の芸術家の心があった。
プロレスは観客に夢を与えるという性質上、多少の嘘も許される。しかし、武道の試合とは、真実を見るために観客がいる。事実の証人として、武道の試合に必要な存在なのだ。
「姿三四郎」で主人公は言った。「柔道は見せ物ではない」と。武道家黒澤明は、映画という見せ物の中に、武道としての真実を見せるために映画を作ったのである。
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