第7話 「野良犬」1949 年 脚本 黒澤明・菊島隆三

「野良犬」1949 年 脚本 黒澤明・菊島隆三 飼い犬と野良犬


 終戦後の混乱が続く東京で、一人の若い刑事がバスの中で拳銃を掏(す)られる。盗まれたこの拳銃を使って犯罪を重ねる男を追い詰め、逮捕するまでの物語。

 この映画だけを観れば、警察官や正義を賛美している話に見えるが、他の黒澤映画のなかの一つとして観れば、ちがった絵が見えてくる。この映画もまた、黒澤の得意とする「だまし絵」なのである。

「ルビンのだまし絵」とは、一枚の絵の中に、盃(さかずき)と人の顔が一緒に描かれた白黒の図形。白をベースに見ると盃に、黒を主体に見ると人の顔に見えるという、不思議な絵である。

 黒澤はこの「錯視現象」を映画で利用した。すなわち、二つの事実によって一つの真実を浮かび上がらせようとした。映画では、背格好も経歴も、そして、真面目で心優しいという性格まで同じ二人の若者を登場させ、彼らに全く正反対の行動を取らせることで、一つの真実を二つの面(世界)から追求するという試みを行った。つまり、犯人も刑事も、共に真実を構成する一部なのだ。

 彼ら二人の住む世界は全く違うが、その二つの世界を作ったのは別の人間である。それは神ではない。間違いなく人間だ。その人間(たち)からすれば、「刑事」も「犯人」も両方必要なのである。「善」と「悪」その両方がいてくれてこそ、「彼らの世界」が成り立つ。黒澤は善と悪、その両面をクッキリと対比させることで、「一枚の絵」の全体像を我々に見せようとしたのである。


「正義」は言う。「確かに世の中も悪い。でも、何もかも世の中のせいにして悪いこ

 とをしている奴はもっと悪い」。あるいは「一匹の狼(犯人)のために傷ついた、たくさんの羊(被害者)を忘れちゃいかんのだ」と。

 そして、「悪」に言葉はない。戦後の焼け跡にうごめく闇市の人々と、多くの生活困窮者たちの映像。そして、ラストでの犯人の涙。

 刑事も犯人も共に戦争の犠牲者戦争のために日本人全員が苦労した。刑事も犯人も、ともに正直で純粋な若者だ。たまたまその選択が公務員(刑事)と民間人(犯人)に別れただけ。1947年には、東京で22歳の女性が野犬に食い殺されるという事件があったくらい、当時は人も犬も飢えていた。

 多くの若者が野良犬のように、日本国中の街を彷徨っていたのである。

 映画の最後における犯人の号泣こそが、社会に押しつぶされた純粋な魂の苦しみを表現している。泣くこと以外、いったい彼に、どういう社会への告発のしかたがあるのか。


 日本という飼い主を亡くした野良犬

 好きで野良犬になったのではない。日本という飼い主によって戦争に駆り出され、死の恐怖、飢餓の苦しみにさらされ、身も心もぼろぼろになった。そして、日本に帰ってみれば、当の飼い主は知らんぷり。日本という飼い主は、負け犬となったかつての飼い犬には冷たい。「犯罪者」として社会から弾き飛ばすだけなのである。これを見て、水戸黄門様なら、いかがなされたであろうか。

 互いに見ず知らずであっても、戦場で共通の敵と戦った同じ日本人が、戦後の日本で、今度は日本人同士で殺し合いをしなければならない、という悲しさ。

 この「野良犬」という映画は、後に続く黒澤映画という壮大な交響楽の序奏でもある。

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