第6話 「素晴らしき日曜日」1947年(昭和22年) 脚本 植草圭之助・黒澤明

「素晴らしき日曜日」1947年(昭和22年) 脚本 植草圭之助・黒澤明 日本版「罪と罰」Ⅰ

 この題名が、素晴らしい。というのは、この日曜日ほど散々な日はないからだ。

 昭和21年、国家公務員大卒の初任給が540円(銀行員大卒で220円)、まんじゅう一個5円、電車初乗り5円、コーヒー一杯5円(ミルクが入ると10円)。ところが、この映画のカップル(雄造と昌子)は、週に一回しか会えない日曜日のデートに35円しかない。貧乏なのは彼らだけではない。当時、日本中がこういう恋人であふれていたのである。

 この映画は、ドストエフスキーの「罪と罰」と同じ。つまり、物や金に振り回されていた人間が、ついに精神的な価値に目覚めることで、真の幸福を手に入れる、という物語。

 映画では、先ず二人で住む家(アパート)を探す。が、二人の稼ぎではとても無理。気晴らしに動物園へ行くが、猿やキリンの方が自分たちよりも立派な家に住んでいるのを見て意気消沈。一枚10円のコンサートのチケットも、ヤクザに買い占められて駄目。喫茶店でもボラれ、代金の代りにコートをおいてくることに。

 空襲で焼け野原となり、まだあちこちにバラックや廃墟が残る東京の街。ところが、昼間から着飾り、キャバレーやダンスホールで酒を飲み・踊る人間がいる。多くの戦災孤児のかたわらを、きれいな着物に着飾った裕福な家庭に育つ子供が歩いている。必ずしも皆が皆、貧乏なのではない。戦争で逆に「焼き太り(儲ける)」している人間がいる。

(ヤクザといっても、本当の日本人のヤクザ(任侠)は、戦争が始まると真っ先に徴兵され、最も危険な場所(最前線)に行かされ、そのほとんどが戦死した。敗戦当時、茫然自失状態の日本人に暴力をふるい、略奪したヤクザというのは日本人ではない。)


「罪と罰」の主人公ラスコールニコフは、優秀な人間は人を殺してもいい(他人を踏みにじってもいい)という論理の持ち主であり、自分のような優秀な人間が金と物を使い、国家を動かすべき、というのが彼の正義であった。ところが彼は、自分よりも劣る人間(一人の売春婦)から、知識ではなく心の大切さを教えてもらう。ラスコールニコフの心の変化の模写には説得力がある。それが小説「罪と罰」の醍醐味である。

 日本人の場合、闘争心によって「金と物の幻想」をぶち破る。まるでずぶ濡れになった野良犬のように、叩かれ打ちのめされ、絶望の底へ落ちたところで沸き起こる戦いの心。これによって、雄造は前向きな心を取り戻す。そして、昌子の愛と。

 空腹で切なくてやるせない最低の状況でこそ、魂の光は見えてくる。剣道の稽古で、ヒィヒィいいながら、声も出ないくらい打たれ、叩かれて、それでも立ち上がる闘争心。剣の技術も体力も尽き果てたところに、唯一絶対に消えない戦いの心が生まれる。これこそ、武道家黒澤が見た、肉体が消えても残る真実なのである。

 この映画のように、沢山の貧乏な恋人たちが生み出される状況が、これからの日本で再び起こるだろう。その時、いったい誰が裕福なのか。そして、本当に幸せになれるのはどういう人間なのかを、よく考えるといいだろう。小説でも映画でもない。生きた「罪と罰」、自分自身の「素晴らしき日曜日」を体験するために。日本人ならそれができるのだから。

 ラストで駅のベンチに坐る二人。その横のごみ箱には、英語で「TRASH」の文字。 悲しい時に流れる陽気な音楽のコントラストとは、「富と貧困」の対比でもある。

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