第4話 「一番美しく」1944年(昭和19年)

「一番美しく」1944年(昭和19年) 脚本 黒澤明  反戦映画の最高峰


 敵と戦い自分と戦う武道家、姿三四郎は強く、そして美しかった。武道とは、純真な精神の集中であり、誠実さであり、(怒りや憎しみを超えた)優しさである。これが「姿三四郎」二部作によって武道の精神を完成させた、黒澤明の到達点であり出発点でもあった。

 しかし、「姿三四郎」に登場する「小夜」という女性もまた、日本人ならではという、内からにじみでる強さ、美しさを見せていたではなかったか。

 一心不乱に祈る彼女の姿や、自分の父や三四郎をどこまでも信じるひたむきさ。本

 来「弱き者」であるはずの女性でも、一生懸命神に祈る、ひたむきに人を信じることで、強さと美しさが生まれる。この精神的な強さと美こそ、柔道や剣道という武道に対抗するほどの「力」である、と黒澤はいうのである。

 前作において、武道の強さと美しさを描いた黒澤は、今度は、日本女性の内面的な

 強さ と美しさを、この「一番美しく」という映画(というよりもドキュメンタリーに近い)で証明しようとした。顔やスタイルや衣服でなく、内面の充実によって醸(かも)し出される精神力の美しさ。

 しかも、インテリが頭で考えた「精神力」ではなく、少女たちが汗水流し、身体で見せる「天地自然の精神力」を、日本人にあらためて知ってもらおうとしたのである。(少女たちの監督官たちは、職務に忠実な人間である。だが、彼らの口にする「人格」や「精神」と、少女たちが行動で見せるそれとでは、重み・次元が違う)


 映画のストーリーは単純である。第二次世界大戦中、神奈川県平塚にあるレンズ工場で働く女子工員たちの毎日をドキュメンタリー風の物語として描いている。

 当時、学校でも工場でも、学生や従業員を監視するために、政府から役人や軍人が送り込まれていた。しかし、無邪気な少女たちは、まるでバレーボールやサッカーの試合に熱中するかのようにして、それぞれの仕事に邪心や疑念を捨てて一心不乱に集中した。

 戦争も政治も宗教もない、彼女たちの純真な心は、「撃ちてし止まむ」などという、偽善的な言葉を超越した美しさに輝いている。


 この映画の最大の見どころは、ラストの場面にある。ここで黒澤は、またしても彼の得意技「反転・切り返し」を使い、観客の心をアッと言わせる。黒澤は当時の映画人が強要された「戦争賛美映画の製作」を武道家らしく、非常に巧妙に、そして豪快に切り返した。彼らの力(命令・圧力)を利用して、ものの見事に投げ飛ばしたのである。

 戦争のため、国家に奉仕するために、母の看病はおろか葬式にさえ行けない(行こうとしない)娘。女子工員の指導的立場にあった彼女は、24時間いつでも「ツッパリ」通し、模範的女性の仮面をかぶって生活していた。だが、ラストの場面で「能面」をはずした彼女の素顔は、涙でクシャクシャになっていた。

 さらに見事な切り返しが、もう一つある。母の死を聞き、深い悲しみに慟哭・号泣するはずの少女が、能面のように無表情な顔をして作業場へ去る。この時、彼女たち女子工員の寮母は、このいたいけな少女をこう評して微笑む。

「本当に良い子になりました」。

 この恐ろしさ。この瞬間の寮母の顔には、四谷怪談に匹敵するほどの怖さがある。

 寮母は、女子工員たちと同じように、純真で美しい心をもつ優しい女性だ。その彼女の美しい顔がラストのこの場面で、「般若・鬼女の能面」になるのである。


 戦争(に協力すること)を賛美するかのように見えるこの映画は、実は、戦争の狂気を陰画にした映画でもあった。「お国のため」「鬼畜米英」という掛け声によって人々が洗脳され、平時の悪が善となり、正義を説けば非国民と罵倒される。黒澤は、当時の恐ろしい社会の風潮を、逆に「美しさ」に反転させることで、無抵抗の抵抗をした。陰と陽、真理の裏表。そのギリギリの一点を衝くことを剣道で学んだ黒澤が、映画作りにおいて、その力をみごとに発揮した作品のひとつといえよう。

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