第3話 「姿三四郎」1943年(昭和18年)

「姿三四郎」1943年(昭和18年) 脚本 黒澤明  東洋のハムレット大日本帝国


 明治15年の東京を舞台に、田舎から上京した姿三四郎という青年が、柔道を通じて人間的に成長していくドラマ。姿三四郎という人間に、この映画を制作した当時の日本という国をオーバーラップさせている点に、この映画の面白みがある。

「姿三四郎が、思いをかける女性の父親と戦うことに悩む」「敵(柔術)を滅ぼすことで自分(柔道)が生きる。それが真の平和につながるのか悩む」といったプロットは、シェークスピアの「ハムレット」と似ている。

 西洋の「ハムレット」は、若き純真な魂が世俗的な大人たちに翻弄され、悩み、崩壊していく悲劇を描いたが、大日本帝国という純真な青年もまた、西欧列強という大人たちの欲望うず巻く国際社会に翻弄され、歴史のなかに押しつぶされた。

 黒澤映画「姿三四郎」の主人公は、なぜ戦うのか、何のための勝利かという悩みを

 、武道という「道」に求めることで乗り越えたのだが。


 見どころ

 ① 姿三四郎が矢野正五郎の弟子となり柔道を学ぶようになってから、歳月が流れる。姿が道に捨ておいた下駄が雨に打たれ、人に蹴られ人力車にはね飛ばされ、段々とぼろ雑巾のようになっていく。姿の鍛練の厳しさを下駄は物語る。

 → それまでアジアの強国とされていた中国(清帝国)が欧米列強に侵略され、中国の保護下にある韓国も同じ運命にあった。アジアではひとり日本だけが刻苦勉励し、ペリーの来航(1849年)から50年足らずで、猛然と西洋によるアジアの植民地化に対抗しうる力を身につけたのである。


 ② ある晩の繁華街

 喧嘩だ喧嘩だ、という人々の声と共に、大勢の若衆たちと街なかでケンカをする姿が登場する。街の中を縦横無尽に暴れ回る姿。しかし、誰もこの若者にかなう者はいない。

 → これは、1940年頃の日本を象徴している。

 アヘン戦争で西洋に敗北したあと、今度はその援助を受けて西欧化にはげむ中国も、インドネシアやビルマを侵略していたオランダや英国も日本の敵ではなかった。経済と軍事においてアジアの最強国家、それが当時の大日本帝国であった。

 ところが、そこへ一人の大男が現れて姿と戦いを始める。これが大国アメリカである。


 ③翌日、矢野に怒られる姿。

 矢野 「強い。全く強くなった。お前の実力は、もはや私の上かもしれん。しかしな、姿。お前の柔道と私の柔道とは天地の隔たりがある。気がつくか。お前は人間の道を知らん。人間の道を知らぬ者に柔道を教えるのは、これは「狂人」に刃物を持たせるのに等しい。理性もなく、目的もなく、狂い回るのが人間の道か。」

 → 戦うのはいい。強いのはいい。しかし、 強いといって誰かれかまわず喧嘩をするのは、武道の精神から外れる。それは正ではなく狂だ。

 武道家黒澤には、当時の日本の指導者たちが、武道の精神から逸脱していると見えた。

 実際、映画や出版物を取り締まる当時の政府の検閲官をして、あの紳士的な黒澤が「奴ら」と罵倒するほど、当時の日本の役人は「狂って」いたらしい。


 ④神と人間のちがい

 矢野に怒られた姿は、これに反発して池に飛び込み、一本の杭につかまって抗議する。他の弟子たちは許しを乞うが、矢野はこう言って突き放す。

「姿は死にはせん。考えているのだ。黙っていても、出るときは出る。それでいいのだ」

 矢野正五郎とは「神的」である。人は自分で目的地へ行き着くことができる。大自然(山や海・花や木)と対話すれば、天地自然の真理は自ずから明らかになる。「時間が解決する」というが、いつか自然に答は見つかるものだ、と。

 ところが、神のごとく厳格でストレートな矢野に比べ坊主は人間的だ。池に漬かる三四郎を心配して、あれやこれや話しかける。

 和尚「こら、慢心。つらいか。うん?」「返事をせんところをみると、悟れんな。」「降参する気はないか、三四郎?・・・しかし、お前がつかまっている杭がなくなれば、お前は泥に沈んでしまう。陸へ上がるのは無念。杭なくば死ぬ」

 三四郎「うるさいぞ! 坊主」

 和尚「どうだ。ここらで降参して陸へ上がれ」

 三四郎「上がらん」

 和尚「ふん、強情っぱり。それもよかろう。夜もすがら、月を眺めて明かすか」


 禅坊主とは、口ぶりは男っぽくでも、性格は女性的なのが多い。この坊主も、大自然の心と一体化しようと格闘している三四郎に、まるで母親のようにやさしく話しかける。「いずれわかる」と、毅然としている矢野と違い、ああしろこうしろと口やかましい。

 だが、人間にとって父親と母親は両方必要だ。「いずれわかる時が来る」といって、それまでの間にめげて、非行に走ってしまう子供もいる。「悟るまでの時間稼ぎ」として、母親が話し相手になってやることも大切なのである。

 弟子を厳しく突き放す父親役の武道家と、それをフォローする母親役の坊主という構図は、まるで、漫画「巨人の星(昭和41年〜46年)」における、父「一徹」と、主人公「飛雄馬」を優しく見守る姉「明子」のようだ(母親はいない)。三四郎が池に飛び込んだとき、驚いてエプロン姿で飛び出してきた坊主は、まさに「母親」を感じさせる。


 ⑤ ある日、神社にお参りにきた矢野と姿は、神殿の前で祈りを捧げる乙女の美しさに感動する。

 矢野「見ろ美しいじゃないか。

 姿、あの美しさはどこから出てくるかわかるか。

 祈るということの中に己を棄てきっている。自分の我を去って神と一念になっている。

 あの美しさ以上に強いものはないのだ。

 我々はここで遠慮しようか。

 いいものを見たな姿。 いい気持ちだ」


 こう言って、二人は離れたところから神殿に礼をし、静かに立ち去る。

 神は目に見えないが、「神に祈る人間の美しい姿」に神を見た二人。お経も線香も木魚もない。色も匂いも音もない世界で、ただひたすら自分の心を神に近づけようと「戦う」美しい姿に、三四郎は武道と共通する「真剣」の心を見たのである。

 ここで大切なのは、矢野はその美しさに「強さ」を感じ取ったということ。単なる美の賛美で終わらないところが武道家なのである。日本拳法の試合では、単に相手を殴るだけでは、審判に一本と言わせることはできない。強さの証明とは、そこに「美しさ」がなければならない。

 → 姿三四郎とちがい、昭和の日本の指導者たちは「正しい強さ」という日本武道の精神が、ついにわからなかった。三四郎に破れた柔術家「門馬三郎」のように、ただただ力で押すことばかり考えていた(戦艦大和)。


 いつの世でも、若き未熟な魂は大人たちの汚れた心によって潰されてきた。

 東洋のハムレット、大日本帝国という頭でっかちのインテリもまた、西洋という大人に破れたが、汗水流して働く八百屋のおばちゃんや大工のおやじという「真の人間」は負けていない。知識や肩書ではなく、身体を使って学ぶという日本武道の精神は、彼ら庶民の心の中に今も生きている。

 映画「姿三四郎」と「虎の尾を踏む男たち」の「富樫」役は、俳優「藤田進」でなければならなかった。黒澤は「姿三四郎」という映画に当時のアジア情勢を反映させたのと同じく、俳優もまた、今この時、この役者しかいないという「旬」の役者を選んだ。藤田進という男の「一番おいしい時期」に姿三四郎という適役を見つけてきた、と言えるくらい、藤田のためにあるような役だった。日本の誇る世界的映画俳優「三船敏郎」でも、この役だけは藤田に敵わなかったであろう。


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