第8話 第四章 日本拳法とは
「世の中において、人をきる事、替る道なし。打ちたたき斬るといふ道は、多くなき所也。若しかはりては、つくぞ( 突く) 、なぐぞ( 投げる) といふ外はなし」
日本拳法とは
日本拳法とは、頑丈な防具を着用することで、真剣にケンカができるスポーツである。
何かに気がねし、躊躇し、手かげんして生きる、寸止めの生活から開放され、人間としての原点に帰り、真剣勝負の感性から現実を見ることができる。
一 徹底する( 真剣勝負の心)
日本拳法では、100どころか200〜300パーセントの勢いで敵を殴る。腹部を蹴るときでも、相手の防具である胴をぶち破り、背骨を突き抜けて向こうに足がとび出ることを意識するほど強力な蹴りが要求される。相手を投げて倒した場合、それで終わりではない。その上から殴る・蹴る( まねをする) 、関節技で完全に敵の動きを止める。それくらい徹底した攻撃でなければ、審判の判定は一本にならない。防具を着用しているからこそ、徹底的に敵を殺すほどの意気込み(真剣勝負の精神)を発揮することができるのである。
二 智力で勝つ(ソフトウェアの戦い)
防具の着用により、直接相手の肉体を傷つけることがないため、体の大きさや腕力の強さが試合の勝ち負けを決める決定的な要因とはならない。場とリズムを生む創造力、機に応じて変化を制す判断力といった、二天一流で求められるのと同じ内面的な力が、日本拳法においてもまた重要となる。
三 現実の追求(空の論理)
剣道では竹刀だけ、サッカーなら足と頭だけというように、スポーツとは、そこで使用する武器を限定し、その不自由さによって心身を鍛練しようとする。だが日本拳法では、体と精神の働きをフルに活かして戦うことで、内なる自分の可能性(理)を徹底的に探究する。
二天一流と同じく、日本拳法もまた「空( 現実) の論理」に基づく。体を動かし理( 利) を追求することで勝利の道を見い出す。実時間と実空間の世界で現実に勝つのである。
この章では、二天一流の視点から日本拳法を見る。
多様性と限定性
「なんでもあり」と「これしかない」
「観見二つの眼を研ぎ」
「平生、人の心も鼠頭牛首と思ふべき所、武士の肝心也。兵法、大分・小分にしても、此心を離るべからず」
多様性と限定性
日本拳法とは、強烈なボクシングのパンチと柔軟性のあるキックボクシングの蹴り、相撲や柔道の投げ、フェンシングの踏み込み、剣道の足さばき、そして合気道の「気を合わせる」精神が集約した総合格闘技である。しかもその多様性の中で、徹底した確実性を追及する科学的なスポーツでもある。
「なんでもあり」の心
日本拳法は、ケンカという闘争本能の原点に限りなく近づくために、戦いに於ける自由な攻撃の発想が許されている。 徹底して勝利という目的を追求するために、殴る・蹴る・投げる・固めるといった多彩な攻撃を駆使する自由な精神と、戦いの流れを意識することが求められる。
ボクシングでは、せっかくいい殴り合いが展開されていても、クリンチという抱きつく状態になると戦いは中断してしまう。しかし、本来の戦いとは相手を叩きのめすまで止まることはあり得ない。この戦いの現実を、日本拳法では多彩な攻撃によって実現することができる。水がその行き着くべきところ( 勝利) まで、様々な姿( 激流・波状攻撃・ゆったりした流れ、等々) に変化しながら、決して( 攻撃の) 流れを止めることがないように。
「これしかない」の精神
だが、「なんでもありだが、これしかない」というのもまた、日本拳法である。これしかないをより確実にするために、なんでもやるのである。
多くの選択肢とは、結局は、最も合理的な一点に集約される。日本拳法には、まわし蹴りのような見た目に派手な攻撃方法もあるが、それらは「これしかない」を援護するために使用されることが多い。二天一流における剣による面突きと同じく、日本拳法においても、拳による面突きこそが、戦いを一瞬にして決める最も合理的な攻撃となる。
多くの可能性の中から、最も理にかなった一点を瞬時に現実化する。大と小、強と弱、遅と速というメリハリをつけて戦いの流れを一点に集約するのである。
真拳勝負
「敵を斬るものなりとおもひて、太刀をとるべし」
真拳勝負
真拳勝負とは、実際に敵を殴ること。自分が殴るか相手に殴られるか。殺すか殺されるか。
思いっきりパンチを振り切る世界では、自分の身を敗北の危険に曝し、ギリギリの場に自らの精神を置くことのできる者だけが、勝機を勝利に現実化することができる。
日本拳法に限らず、あらゆるスポーツを行う意義の一つは、真剣勝負における自己鍛練にある。切羽詰まった、考えるひまなどない、動的な戦いの場。そこでは、本来誰もが持ちながらも日常の生活で無意識に押し殺している、戦いの感性を掘り起こすことができる。日本拳法とは、真拳による戦いという極度の緊張感によって、隠れた真の自分を見る道なのである。
双方向の世界
野球やアメリカンフットボールと異なり、日本拳法とは攻撃と防御が分かれていない。
一方が攻撃する時に他方は防御だけという決められた役割分担がなく、一つの行動の中に攻撃と防御が同居している。戦う二人が同時に殴りあう相打ちの瞬間。この時、どちらの攻撃が真の攻撃であり、どちらの攻撃が防御であったのかが明らかになる。日本拳法を行う者・観る者が共に体験する、真理の裏表の世界である。
最後は一人
バレーボールやサッカーのような、集団で勝利を追求する競技とちがい、一対一の勝負である
日本拳法では、勝敗の行方は完全に個人の能力に依存する。敗北は他人や天候のせいではない、勝利は神のおかげではない。観客の声援は勝者に対してのみ有効となる。すべてが自分自身による、徹底した肉体と精神の孤独な運用にかかっている。
三分間というきわめて短い時間と、数メートルの狭い空間の中で、自分の肉体と精神を組織的・瞬間的に有効活用し自己完結する。切りつめた時間と空間の中で勝利の可能性を徹底的に追求し、現実化するためのダイナミックな戦い。これが真拳勝負の世界、日本拳法の世界なのである。
面突きの精神
「面をさす(刺す)といふ事、忘るべからず」
「面をさすといふは、敵太刀相になりて、敵の太刀の間、我太刀の間に、敵のかほを、我太刀さきにてつく心に、常に思ふ所肝心也。敵の顔をつく心あれば、敵の顔、身も、のる( 反る) もの也。敵をのらするやうにしては、色々勝つ所の利あり」
面突きの精神
他の格闘技では、両の拳( グローブ) は顔面を防御する位置に構える。しかし日本拳法では、半身になり右の拳を上体の真ん中( みぞおちの辺り) でにぎり、左の拳は同じく腰につけて、くの字に曲げて前へ突き出す。これが中段の構え。日本拳法の構えは、左右の拳が前後して腰のあたりに位置する。
宮本武蔵の構えが、左右の剣をだらりと下げて顔面を曝けだしているのによく似ている。顔面をむきだしにして敵の攻撃を誘う。
最大の危機を最高の好機に置き換える。面という一番の急所へ敵の攻撃を誘い込みながら、ギリギリの所で自分の攻撃に反転させる。これが日本拳法における「面突き( 相打ち) の精神」なのである。
一撃必殺だからこそ最も困難な面突き。これを達成するため、あえて危険に身をさらし、他の攻撃によって面突きを援護する。懐の深い敵の中へ強く踏み込み、面突きを入れやすくするために蹴りや胴突きで敵の姿勢を突き崩す。また、たゆまぬ前進によって敵に接近しすぎた場合、そのまま相手に抱きつき膝蹴りや投げで攻撃の主導権を維持しながら、一撃必殺の面突きへ戦いの流れを持っていく。
「One for All . All for One. ( 面突きはすべてのために、すべては面突きのために) 」
真の強者とは、いつでも「自分の一点」に敵を引き込み、確実にそこで勝つ。
流れに多少の違いはあっても、最後の最後では必ず同じやりかたで勝つ。たとえそれを相手がわかっていても、そこから逃れることはできない。強者のプロセスへ引き込まれるかのようにして、敗者は当然の如く敗者となる。
武蔵が六十数度の戦いに勝ち抜いた理由はそこにある。その時その瞬間、新たなる心で戦いながら、武蔵は最後の一瞬では必ずその一点へ敵を引きこみ、無理なく勝ったのである。
相打ちの美学
「喝咄と云ふは、いづれも我打ちかけ、敵打ちかへすやうなる所、はやき拍子を以て、喝とつきあげ、咄と打事。この拍子、 何時も打合いの内には、専ら出あふ事なり」
相打ちの美学
日本拳法の原点は面突きにあり、面突きの要諦は相打ちにあり。
相打ちをいかに乗り越えて勝つか。ここに、格闘技としての日本拳法最大の闘争心が求められ、また、二天一流と日本拳法における最大の共通点がある。
たがいに静止して構えている時、いきなり打ちかかっても、グローブで防御されるか避けられる。よほどぼんやりした相手でなければパンチは当たらない。自分が動いて敵を動かし、しかも先に攻撃しなければ、短い時間の中で勝機を見つけ、それを自分のものにすることはできない。
かといって先に攻撃すれば、相手は「先の先」を取りにくる。先制攻撃は必要だが、自分が攻撃する直前に敵に攻撃されると、かえって致命的な打撃を被る。
完全なる一本を取るために乗り越えねばならない相打ちの恐怖と、それを克服したところに「相打ちの美学」が生まれる。
コンマ一秒の相打ちに勝つため、更にその先を取ろうとする。そしてこれが決まった瞬間の美しさは、観る者を魅了する。我々はミケランジェロの彫刻を、真・善・美が一体となった美しさとして称賛するが、日本拳法における面突きもまた、正しさに裏打ちされた善なる美しさがある。
どちらも間違いではない。共に正しいことを行っている。にもかかわらず、そこにあってなかったものが勝者と敗者とを厳格に分ける。見た目には全く同じタイミングで攻撃しているのに、勝利の女神は一方にしか微笑まないのである。
コインの裏表のようにピタリと張りついた勝利と敗北。それを反転させるために、一瞬早く打っても負け、遅くてもまた負ける。相対的な時間の中では、全く正しいからこそ勝ち、全く正しいからこそ負ける、ということが起こり得るのである。
剃刀の刃一枚で切り分けられた勝者と敗者のコントラスト。写真や絵、音楽や彫刻、あるいはどんなに美しい言葉よりも説得力のある、生きた人間の真理がそこにある。
自分と敵との時間の中で先を取る。この相対的な関係に勝つことが、審判、観衆、神をも納得させる絶対的な勝利となるのである。
相打ちにならないために
「先を取る事、肝要也」
「敵のながれをわきまへ、相手の人柄を見うけ、人のつよき・よわき所を見つけ、敵の気色にちがふ事をしかけ、敵のめりかりを知り、其の間の拍子をよくしりて、先をしかくる所肝要也」
「思はざる所へ、いきどふしく仕掛けて、敵の心のきわまらざる内に、我が利を以て、先をしかけて勝事、肝要也」
「ひたいにしわをよせず、まゆあいにしわをよせて目の玉うごかざるやうにして、またゝきをせぬやうに思ひて、目をすこしすくめるやうにして、うらやかに見ゆる」
相打ちにならないために
相打ちを相打ちでなくし、自分が勝つにはどうしたらよいのか。
一 敵よりもコンマ一秒早く自分のパンチが敵の顔面に届くようにする
勝新太郎の映画「座頭市」の居合斬りとはこれである。この盲目の剣客は、敵がその太刀に手をかける時の音( 呼吸) に反応し、自分の太刀( 仕込み杖) を抜きざまに斬りつける。しかも、抜いた太刀をふり上げてから斬るという二テンポの動作ではない。太刀を抜きながら敵に体あたりするようにして斬る。助走がない分、敵よりも早く斬りつけることができるのである。
武蔵の二天一流では、この拍子を「五方の構え」と呼ぶ。助走のない構えから斬りにいくリズム。少しも太刀を後ろに引かず、構えた位置からそのまま斬りつけるのである。
日本拳法もまた、助走のない構えからパンチを打つ。右の拳も左の拳も九十度の角度で、しかも手首を返して腰の位置につけている。腕と手首とに、すでに殴るための「溜め」が盛り込まれているから、一ミリも後ろに助走することなく、その位置から強力なパンチをくり出すことができる。どんな状況であっても、このリズムを維持できた方が、究極のコンマ一秒に勝つのである。
二 相手の攻撃を不完全にし、自分の攻撃を一本という完全な攻撃にする
「場と拍子」によって敵の心を乱して間合いを見誤らせ、打つタイミングを狂わせる。敵のパンチが虚しく空を切るとき、自分のパンチだけが正確に敵の顔面をとらえる。
三 敵の動きを止めて一方的に自分が打つ
敵を追いこみ、その反動で敵が打って出てくる瞬間、先を取る。敵の心を圧迫し、あるいは誘導し、その反転する瞬間を刺すのである。
敵をリードする
「敵のしかくると、そのままその理を受けて、敵のする事を踏みつけて勝つ心也」
「兵法の智力を得て、我が敵たるものをば、皆我卒なりとおもひとつて、なしたきやうになすべしと心得、敵を自由にまはさんと思ふ所、我は将也、敵は卒也」
「心道にひかされて、人にまわさるる心あり。兵法の道、直に礼しき所なれば、正理を以て、人を追いまはし、人をしたがゆる心肝要也」
敵をリードする
相打ちを乗り越えて勝つには、敵の自分への攻撃を許しながら、こちらがコンマ一秒先に敵を攻撃する、という流れを作らねばならない。
肝心なことは、敵が自分を攻撃する瞬間を事前に知っていなければならない、ということ。そのためには、自分が希望する場所と武器とタイミングで攻撃してくれるように、敵を誘導する必要がある。
こちらの意志で敵に攻撃させる。これが「先の先」という戦い方を完全に成立させる決め手であり、ここで初めて確実に敵を潰すことが可能となる。自分の待ち構える一点に来てもらうことで、相打ちを乗り越えるという命題がクリアーされるのである。
柔道には「返し技」という考え方があるが、敵が自分を攻撃してくるのを待って返すのでは、確実な返しを行なうことはできない。敵がこちらの期待する技をしかけてくれるよう、相手に働きかけることで、自分が勝てる流れができてくる。
この一点に来れば、必ず敵は止まる。これが強者の兵法なのである。
では、どうリードするか。
ここでもまた、二天一流と同じく「物事を理に忠実に追求する」精神が重要である。
人間的な考えで先を読もうとしたり、他の事例をそのまま、自分が直面する問題に適用しても、現実に翻弄されるだけである。
「理をそのまま受けて、敵を踏みつける」。「理に素直であれば、敵の行動も自分の命令で行わせているかのように把握できる」「正理をもって敵をコントロールする」
それは、自分が見る月や自分を照らす太陽の位置から、その運行する軌跡を追いかけるのと同じ作業なのである。
前へ出る
「敵を打ちとるには、少しも引く心なく、強く勝つ利也」
「心意二つの心をみがき、観見二つの眼を研ぎ」
「目の付けやうは、大きに広く付る目也。観見二つの事、観の目つよく、見の目よはく、遠き所を近く見、ちかき所を遠く見る事、兵法の専也。敵の太刀を知り、少しも敵の太刀を見ずと云事、兵法の大事也」
前へ出る
戦いの本質とは心の戦いであり、心で負けた方が現実の勝負でも負ける。前へ出ながら執拗に顔面を攻撃するのは、敵に戦闘意欲をなくさせ、論理的な思考を乱すという目的も含んでいる。
前に出て敵を押し込む側は、場の状況と敵の心がよく見える。反対に追い込まれている側は自分が小さくなっているために、視野が狭くなる。
さらに、押し込む側は相手の動きがスローモーションのように見えるのに対し、押し込まれた側は目の前の出来事が早送りのように見える。圧迫感をうけるために時間の感覚が鋭敏になりすぎ、実時間以上に時間を早く感じる。攻める側も守る側も同じ絶対時間のなかにいるのに、その感じ方が、立場によって異なるという現象が発生するのである。
精神的に前へ出る
いくら打つパンチの数が多くても前へ出ていても、心で負けている者は最後の段階で逆に殺される。一方で強者とは、形は後ろへ下がっても心では前へ出ている。
心が強いというのは、敵との精神的な間合いを知る力と、自分自身のリズムを持っているということ。自分の強力なリズムを持っているから、敵の精神的な攻撃に揺るがない。逆に敵のリズムを自分のリズムで飲み込んでしまうのである。
「鉄砲にても、敵のはなつ内に、はやかゝる心。はやくかゝれば、矢もつがひがたし、鉄胞もうち得ざる心也」
「我が兵法におゐては、身なりも心も直にして、敵をひずませ、ゆがませて、敵の心のねぢひねる所を勝つ事、肝心也」
踏み込み
「我が兵法において、足に替わる事なし」
踏み込み
強く踏み込むことによって先の先を取る。
強力な踏み込みによってパンチの速度は倍加し、有効射程距離はぐんと伸びる。たとえ敵に対して不利なリーチ( 腕の長さ) であったとしても、踏み込みの力でこれを凌駕できる。
下半身(足)による間合いの調整
ボクシングでいう「スウェーバック」とは、殴るという攻撃だけに対して有効な行為であって、蹴りや投げもある日本拳法でこの姿勢になるのは危険である。上体を反らしたり前かがみになって間合いを取ろうとすると、体の重心が不安定になる。
敵との距離の微妙な調整も、あるいは、ここ一番というところで一気に敵の懐へ飛び込み、敵のカウンターパンチを蹴散らすほどの鋭い踏み込みも、共に足腰で行う。足による間合いの使い分けができれば、相打ちは相打ちでなくなる。
「先づ、気に兵法を絶えさず、直なる道を勤ては、手にて打ち勝ち、目に見る事も人に勝ち」自分が作る場と拍子から、一気に敵の(心の)懐へ進入する。
「我が兵法の智力を得て、直なる所をおこなふにおゐては、勝つ事うたがひ有るべからざる」理に適った完全な心身の一致による、敵に対する強力な侵入。
「敵を打つ身に、太刀も身も、一度には打たざるもの也。敵の打つ縁により、身をば先へ打つ身になり、太刀は身にかまはず打つ」足腰と肩を入れて打ちこむ。
「打つと云ふ心は、思ひうけて確かに打つ也。当たるは、行き当たる程の心」当たるというのは上半身だけでパンチを振り回すこと。それに対して「打つ」というのは、踏み込んで打つ決定的なパンチのこと。
たとえ一センチであっても、踏み込みながら前へ打つパンチと、腕だけ・上体だけのパンチとでは、中身が全く異なる。「当たる」パンチでは相打ちに勝てない。踏み込んで打つ破壊力のあるパンチだけが、相打ちという均衡を打ちやぶることができる。前へ出て敵の心に踏み込むのである。
心と体の一致(無念無相)
「敵も打ださんとし、我も打ださんと思ふ時、身も打つ身になり、心も打つ心になつて、手はいつとなく、空より後ばやにつよく打つ事、是、無念無相」
心と体の一致(無念無相)
相打ちに勝つためには、心と体が完全に一致している必要がある。心が打つと思った瞬間、コンマ一秒の遅れもなく肉体が正確に目標を攻撃する。
この完全一致を追求する過程が「鍛練」である。ただ筋肉を鍛えることを鍛練とはいわない。鍛えた筋肉が自分の心と寸分の誤差なく作動する。肉体を鍛え、心を鍛え、そして一致させる。
これが智徳であり、そこへ至るための過程を、武蔵は「千日の鍛、万日の練」とよんだ。
日本拳法では、肉体ばかり強くても勝利には結びつかない。
破壊力のある右のパンチとは、左の拳の強力な引きがなければ生まれない。徹底した「押し」には、徹底した「引き」という裏付けが要求される。逆にいえば、たとえ非力な者であっても、パンチを打つ時に引きの力をうまく一致させれば、その威力は倍増する。二つの矛盾した要素を相殺したり増幅することによって勝利につなげるのである。
コンマ一秒のあいだに敵の意図を見抜き、その瞬間に最適な行動の選択が要求される真剣勝負の世界では、後悔などしていられない。誤った判断でさえ善なる攻撃に転用する智恵と、前へ出る勇気がなければ、相打ちという五〇:五〇の均衡を破ることはできない。
自衛隊で採用されているだけに、実用的、すなわち最もケンカに近い格闘技という印象があるが、日本拳法の真価とはそれだけではない。戦いを科学する心を養い、内なる心と体の一致が外の世界と一致するという、ケンカでは得られない喜びを味わうことができる。
二天一流の「無念無相」とは、心と体の一致という状態のことである。
「無念」とは、理知的な追求はするが人間的な思索はしないということ。人間の思惑や感情を排除し、理詰めで物事を追求する心のことである。
「無相」とは、内面的な心とその結果として表れる行為とが完璧に連動していること。理に適った心と、理に素直な肉体とが完全に一体化している状態のことである。
心と体が境目なくピタリと一致しているから、行動が考えとなり、考えがそのまま行動となる。これがコンマ一秒という相打ちの世界で勝つために必要とされる、心身の状態なのである。
俗に言う「無念無想( 念じない想わない) 」や「無心」というのは、人間の考え出した別の心的状態のことであり、「無念無相」とは違う。
心と体の一致(確かな心)
「兵法の道、直に礼しき所なれば、正理を以て、人を追い廻し、人をしたがゆる心肝要也。」
心と体の一致(確かな心)
自分は、心と体が完全に一致した無念無相の状態にありながら、敵を無心の状態に追い込む。この確かな心だけが、現実の戦いで真の力となるのである。
「無心」では殺される。
武蔵は坐禅などしない。結跏趺坐( 胡座) という姿勢は、武士にとって非常に危険な座りかたである。こういう状態で敵に襲われると、坂本龍馬のようになる。龍馬ほどの使い手であれば、至近距離で不意を突かれたとしても、正座をしていたならば死を免れたかもしれない。
宮本武蔵という、瞬きをしない、風呂に入らないほど用心して生きていた人間が、のんびり坐禅などするわけがない。
真の武士とは、本能的に不安定な姿勢を嫌い、危ない場所に近づこうとはしない。坐禅そのものの良し悪しというよりも、そういう不自然な姿勢になることを極力避ける。ほんの一瞬の「心の隙」「不用意な姿勢」が命とりになるということを、数十年の殺し合いという経験が警告するのである。
坐禅で求める「無心」とは、瞑想を商売にする人間は別として、実社会で生きる人間にとっては危険な精神状態である。無心になって竹刀を振る、などというが、それは道場の中で止まった目標を相手にしている時だけ許される行為である。移動して、しかもこちらを攻撃する意志を持つ人間相手の場合、無心では勝てない。戦いというダイナミックでインタラクティブな場においては、無相という「意識ある集中」でなければ的確に対応できないのである。
無心・無我というのは一種の覚醒であり、意識があるようで、ない。心と体がバラバラになっている状態である。無心とは気持ちの拡散であって、無相という精神の集中とは似て非なる心の状態なのである。
真の強者は戦いの経過を覚えている。「無我夢中」で戦っていたら勝っていたなどというのは、素人がまぐれ勝ちしたというような場合だけのこと。
故坂井三郎氏は、敵味方の戦闘機数十機が入り乱れて戦う空戦の場で、数十分にも及ぶその様子をしっかり見て、各戦闘機の動きを逐一覚えていた。そして、それらを空戦記録として書き残しているが、その記録は米軍側の資料とも、一致している。
戦いのプロに無心などない。無の境地などというのは人間の考えだした、小説やアニメのような空想の産物なのである。敵はあなたが無心になることを欲しているが、彼ら自身が無心になることはない。
判定の美学
「直なる道を勤ては、手にて打ち勝ち、目に見る事も人に勝ち、又鍛練をもつて惣鉢自由なれば、身にても人に勝ち、 またこの道に馴れたる心なれば、心をもつても人に勝ち。この所に至りては、いかにとして、人に負くる道あらんや」
判定の美学
日本拳法で重要な点は、戦いにおける「判定」にある。
格闘技といっても、ボクシングのようにノックダウンで勝敗が決定するのではない。勝敗を決めるのはリング上で戦う当人たちでなく、二人の戦士を見守る三人の神ならぬ審判員である。彼らが効果的な攻撃に対して与える「一本」というポイントによって、勝負は確定する。
大切なのは、その判定基準が合気道や居合道に見られるような「美しさ」を基準にしている、という点にある。
相手にダメージを与える強烈なパンチであることは重要である。しかし、そこに美しさがなければ、日本拳法では一本として認定されない。なぜならば、強さとは正しさの証明であり、本当に正しいものは美しいのだから。
真の勝者とは、自分と敵との関係において優れているばかりでなく、第三者を含むあらゆる存在に対して普遍的な説得力をもつ者のこと。実の心で現実( の判定) に勝つ意識を持つ。それはまた、英雄たる者の条件でもある。
試合時間は三分間。三分間フルに戦い、勝ちとった本数の数で競う「本数勝負制」と、三分経過せずとも、先に二本先取した方が勝ちとなる「三本勝負制」の二つがある。
日本拳法で着用する防具( 面・胴・グローブ) の総重量は約八キログラム。砂糖や塩のワンパックが、一キロであるからその八個分に相当する。そのうち、面の重さは約四キロとかなり重い。
もっと軽くすることは技術的には可能である。だが、この重さが安全性を高めてくれる。強烈なパンチの衝撃を重さが吸収するのである。軽自動車よりも大型車の方が正面衝突の際、乗っている人間へのダメージが軽くてすむのと同じ原理である。
もともと、ボクシングのリングで日本拳法の( 公式) 試合は行われていた。一本という戦いの決着がつくまで戦いの流れは止まることはない。アナログ的な流れの中で、二者の生死が決定した時にデジタルとなる、というのが現実の戦いの姿であるのだから。だが、リングの設営・解体にはコストがかかるため、現在はウレタン製のマットの上で行われている。
勝利とは
「人を持つ事に勝ち、人数をつかふ事に勝ち、身をたゞしくおこなふ道に勝ち、国を治る事に勝ち、民をやしなふ事に勝ち、世の例法をおこなひ勝ち、いづれの道におゐても、人にまけざる所をしりて、身をたすけ、名をたすくる所、是れ兵法の道也」
勝利とは
自己満足では、日本拳法における勝利とはならない。
自分の攻撃が三人の審判員を納得させるだけの説得力をもたなければ、一本というポイントにならず、観客が同意する勝利とはならない。自分にとって理( 利) があるというだけでなく、自分の行為が第三者にも理解してもらえるだけの完璧な道理でなければ、真の勝利・確かな歴史にはならないのである。
日露戦争時、海軍の東郷提督は、国際法の法規を念頭におきながら日本海海戦を戦った。目の前の勝ち負け以上に、自分と敵以外の存在を意識し、誰もが認める確実で普遍的な勝利を念頭におきながら、今を戦ったのである。
宮本武蔵は常に大衆( 天) を意識して戦った。地位も身分もない一介の素浪人が幕府公認の指南役と戦う場合、ただ強いだけでは勝てない。剣の戦いに勝てても、幕府によってその事実がゆがめられてしまっては、勝利は勝利でなくなってしまう。
敵と自分だけでなく、自分たちを見守る「天」の存在を、武蔵は常に意識していた。大衆という第三者、世論という審判員を自分の味方につけることで、勝利は勝利として初めて確定する。
勝つまでは自分の戦いであるが、勝った瞬間から、その評価は他人のものになる。客観的な努力をしなければ、人のみならず天でさえ正しく見てくれない。「仏神を頼らず」とはそういうことである。天を納得させるほど説得力のある勝利にまでもっていく。それが「確かに勝つ」ということなのである。
この努力によって、真のアウトローとして時の権力者により歴史から抹殺されてしまったはずの武蔵の事跡は、人々の心の記憶として今に生き残っている。我々は宮本武蔵という人物像を、学校の歴史の教科書で知り得たのではない。四百年にわたる口伝・口承の歴史として、その名は日本人の記憶に生き続けているのである。
日本拳法で、審判員の手を同時に自分に上げさせるためには、自分自身が公明正大なジェントルマンでなければならない。マナーに気をつけるというのではない。正しさを見せつけるという、歌舞伎でいう「決め」のスタイル。この客観的感性だけが、次なる勝利を約束してくれるのである。
徒手格闘術と日本拳法
「大きなる太刀を好む流派とは、兵法の利なくして、長きをもって遠く勝たんとする。それは心の弱き故なるによつて、弱き兵法と見たつる也」
徒手格闘術と日本拳法
ボタン一つで戦いが決定するという、このハイテクの時代にもかかわらず、日本拳法という原始的なスポーツが自衛隊で盛んに行われているのには、理由がある。
格闘技としての強さ以上に、日本拳法のもつ精神性が着目されているのである。
弱い心の克服日本拳法( 徒手格闘術) の最も重要な点は、大きな体や強い力に依存せず武器に頼らず、知性で戦いをコントロールする、というその精神にある。ナイフや鉄砲、大砲や爆弾というハードウェア( 武器) に頼らず、場の創出とタイミングの操作というソフトウェアによって敵を圧倒する。敵を肉体的に破壊せずに、出し抜く。公平な審判の判定を自分に呼び込むことで、利を勝ち取る。
戦いとは「理にかなった考え方と行動によって、公明正大な利益を得ることである」という、戦いの真の意味を身をもって知る。それこそが、二天一流と日本拳法( 徒手格闘術) に共通する最大の動機( モチベーション) であり、そこで養われる精神的強さこそが、戦いの専門家に求められる重要な資質となる。
実際、日本拳法を行なう者は、その成果を試すため、街に出てストリートファイト( ケンカ) をするということがない。道場の中で実戦ができるため、試し斬りの必要がない。「場とリズムによって相手を圧倒する」という日本拳法の神髄を知れば、むしろ道場の外でのケンカの方がつまらない行為に見えてくるのである。
「正理をもって、人を追い回し、人を従わせる( 勝つ) 」という、理に忠実で真に強い心こそが、二天一流、日本拳法、そして徒手格闘術に共通する最大の武器である。コンピュータゲーム化する戦争を止めるのは、戦いの原理を知る、強者の心だけなのである。
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