第7話 第三章 二天一流とはその二 原理から見た二天一流
「兵法の利( 理) にまかせて諸芸諸能の道となせば、万事におゐて我に師匠なし」
「我が兵法至極して勝つにはあらず。自ずから道の器用有りて、天理をはなれざる故か。又は他流の兵法、不足なるところにや。その後、なをもふかき道理を得んと、朝鍛夕錬してみれば、をのづから兵法の道にあふ事、我五十の比也」
原理から見た二天一流
「天理」が意味するのは、たとえば太陽とその運行のこと。もの( ハードウェア) とその動作原理( ソフトウェア)両方を天理という。太刀を上から振りおろせば絶対に下にいくというのも天理のなせるわざである。世の中どこにでも存在するが、当たりまえすぎて気がつかない、変化・進化・移動・成長の陰にある絶対的な理由のこと。何をするにも命がけの武蔵であったが故に、太陽を見ても、ハードウェア(太陽そのもの)とソフトウェア(その運行)という観見の目で見ることができたのである。
理に忠実であれば、敵の姿形や小手先の技術といった表面的な事象に惑わされず、戦いの本質を見て目的を見失うことがない。それが武蔵の追求した確実な勝利というものであった。
だが、理に忠実といって、二面ある真理の一面ばかりを追いかけていては危うい。それまで勝っていても、最後の最後でトランプの札がクルリと裏返るようにして負けることがある。芝居でも、あまりに悲劇を追求しすぎるとかえって喜劇になってしまう。適当なところで悲劇をそのまま維持できるような歯止めが要る。勝利を勝利に終わらせるためには、(勝つ)理をそのまま維持できるようにする必要がある。
武蔵はこれを知っていた。「天理のおかげで勝てた」と言いながらも、その二面性をよく知り、天理に裏切られないような仕組みを考えていたのである。
理に徹することは大切だが、何らかの人間的なやりかたで切れすぎる太刀( 理) を制御する。武蔵はそれを「法」とよび、「五輪書」火の巻に記した。
天理
「ものごとに勝つといふ事、道理なくしては勝つことあたはず」
天理
武蔵は自分の感性を研ぎ澄まし、理に敏感となり利に聡くなることをめざして、自分を鍛練した。
他流派では、数十もある構えや多くの技を覚えることを要求されるが、二天一流はそうではない。人から教わったことを暗記しても、真剣勝負では役に立たない。それを思いだしているうちに斬られてしまう。「奥義・秘伝」に行きつく前に、敵と戦うことになったらどうするのか。
奥義を会得するまで待ってくれと言うのであろうか。
武蔵の戦い方とは、自分にそなわる天理、道に落ちている真理、身のまわりにある自然を利用し、その場、その瞬間に最も効果的な戦い方で勝つというもの。暗記した戦い方を思い出すのではなく、身の回りに存在するもの( 天理) の中に勝てる理を見つける。武蔵が十三歳で初めて武士と真剣で戦い勝利した時、武蔵の天理とは「体当たり」と、倒した相手を殴るためにその場で拾った太い「薪」であり、太陽の運行のように「絶対に前へ移動する精神」であった。
一見バラバラでなんの脈絡もないように見える「理」。しかし、明確な思想を持つ人間には、それらの間に存在する「見えない絆」が見える。絶対に勝つという強烈な問題意識によって、役に立たないように見える理を、利にすることができるのである。
「理論を知らずして実地練習にのみ汲々たる者は、舵機も羅針盤も失える船に乗る水先案内人の如し。その行く手定かならず。実地練習は、常に正当なる理論の上にこそ立つべけれ」( レオナルド・ダヴィンチ)
"He that is taken with pract ice without science, is but a pilot in a bark without
helm or com pass, never being certain whither he is going. Practice ought always to be built upon good theory. ( LEONARDO DA VINCI ) "
二の原理( 二の利得)
「両手にて( 一本の) 太刀をかまゆる事、実の道にあらず」
「二天一流の道、一命を捨つる時は、道具を残さず役にたてたきもの。道具を役にたてず、腰に
納めて死する事、本意に有べからず」
二の原理( 二の利得)
誰でも飯を食う時には、右手で箸・左手で椀と両手をそれぞれ別々に使う。ところが武士の家では、幼少時から一本の太刀を両手でにぎって戦うことを教えられる。
だが同じ武士でも、武蔵は子供の頃から「がき大将」的やんちゃ坊主であったために、両手で戦うという「二の利得」をよく知っていた。人を蹴ったり殴ったり投げたりしてケンカに勝つには、押す力と引く力という、全く逆の力をうまく使って戦わねばならない。肉体の各部分を独立して機能させながらも、それらを強い意志でコントロールする。このことに精通していた武蔵は、自然と二本の腕で二本の太刀を使用することができた。
戦いにおける「二の力」の意識と、絶対に勝つという真剣勝負に対する強い意志との一致。それが武蔵二天一流の原点なのである。
当時主流であった「二本の腕で一本の太刀を握る」とは、武蔵にとって、むしろ理に反した不自然な行為と見えた。武蔵のこの考えは、一刀流が主流であった当時の常識からすれば「異端」であったが、それは実力において二刀流( 二天一流) が劣っていたということではない。武蔵の二刀流とは一刀流に比べてソフトウェアに依存する比重が高いため、教義として型にはめるのが難しい、競技として規格化しづらい。そのため、一刀流のように早く広く普及することがなく、結果として少数派であったというにすぎない。
「ソフトウェアに依存する」戦い方とは、太刀の流れに素直で無理のない太刀の使い方ということ。一本の太刀を両手で握ると、どうしても力任せに太刀を振ってしまうが、二本の太刀の場合、片手で太刀を操るため、太刀の重さや運動の慣性を利用して合理的に使用しようとする。
物理的な面からいえば、一刀が敵を攻撃する間、もう一刀がその虚を守る。タイミングという観点から見れば、二刀が協調する独自のリズムによって相手を翻弄する。一刀に比べ確かに威力はないが、互いに欠点を補い、長所を増幅させる効果を得ることができるのである。
「ある所をしりて、なき所を知る。是則空也」
「心意二つの心をみがき、観見二つの眼を研ぐ」
二の原理(二律背反)
「そむく拍子わきまえ得ずしては、兵法確かならざりし」
二の原理(二律背反)
理にかなった戦いをすれば当然勝てる。だが、理に徹すれば必ず矛盾が生まれる。それが二律背反。真理の裏表はその背中がピタリと張りついているから、徹底的に正しいことを行うと、逆に正しくなくなってしまう、ということが起こるのである。
真剣勝負という命がけの戦いで確実に敵に勝つには、理にかなった行動を取ること。人間の妄想が間に介在しない、理即行動でなければならない。
しかし理に徹すれば、絶対に勝つと同時に絶対に負ける可能性も同じくらい高くなる。
攻撃の機会を自分から作って斬りこめば、相手は必ずそれに便乗してカウンター攻撃してくる。自分にとっての勝機とは相手にとってもまた、絶大なるチャンス。裏は表であり、表は裏、「きれいは汚い、汚いはきれい」(マクベス)なのである。
これをそのまま受け入れていたら、自分と敵とは本当に相打ちになってしまう。中国の故事「矛盾」である。最強の矛と最強の盾とがぶつかり合えば、共に倒れる。
それはそれで正しいことなのかもしれない。戦う者同士が共に死ぬというのは、すべてに公平で平等である天理から見れば、きわめて当然な結果であるといえる。
だが真理は真理としても、現実に生きている人間としてそれでは困る。天を欺いてでも、何とか自分が勝たねばならない。二律背反をおさえ込み、自分に都合のいい真理を一方的にもってくるような仕掛けが要る。それによって、相打ちをコンマ一秒早く自分が先取りし、最後の瞬間で相打ちでなくすようにするのである。
理には理をもって対処する。それが武蔵の戦いの思想。武蔵は一刀で発生する矛盾を、ハードウェアを二刀にすることで解消し、場とリズムという無形の武器(ソフトウェア)によって一致させた。理の追求によって生まれた矛盾という問題を、理によって解き、且つ結んだのである。
二の原理(一致)
「道理を得んと、朝鍛夕練してみれば、自ずから兵法の道に会う」
二の原理(一致)
解き、また結ぶ
真理とは矛盾するものだが、必ず一致する。互いに反発しながらも、強い求心力で一体化しようとする性質がある。武蔵はこれを求めた。問題を解決する際、その場しのぎの方便に頼らず、肉体的な力や太刀を振る速度でねじ伏せようとしない。「矛盾は必ず一致する」という理念によって、同じ真理による自然な解をねばり強く求めたのである。
一本の太刀による攻撃では、徹底した勝利の追求は、それがそのまま敵の勝利となる危険をはらんでいる。そこで物理的に太刀を二本にし、さらに「場と拍子」というソフトウェア( 無形の武器) を加えて、勝利を確実にする。二律背反という、避けて通れぬ問題を誤魔化して切り抜けるのではなく、理にかなった正しいアプローチによって一致させる。これが武蔵の問題解決法。
そして、このハードウェアとソフトウェアの組み合わせをコントロールするOS(Operating System )に相当するのが、実の空( =智力) なのである。
二者の戦いという、動的で双方向な世界においては、「物事は反発するが、必ずどこかで一致し、均衡になろうとする力が働く」という、空間的な力の作用を意識しなければ、相手に勝つ道は見いだせない。「原因と結果」という平面的・一方通行的な見方では、諦めるか後悔するしかないのである。
メビウスの輪
「二律背反と一致」という天理を象徴するのが、「メビウスの輪」。
日本の禅宗では、床の間にかざる掛軸などに悟りの象徴として円を描き、これを「一円相」とよんで珍重するが、西洋世界における円とは、この平面的な円とは違い、ねじれた空間を持つ輪である。一つの輪が二つの世界を含有し、二つの世界は運動することによって一つに収まる。これを表現したのがメビウスの輪である。
紙テープを二〇センチほどの長さに切り、両端をそのままつなぎ合わせる。これがただの円。
この時、一方の端を裏返しにねじってつなぎ合わせる。そうすると、表はいつのまにか裏になり裏面は表になる輪ができる。
「真理は裏表であり、反発しながらも再び一致する」という、西洋人が見いだした真理である。
二の原理(心と体)
「その時の理を先とし、敵の心を見、我兵法の智恵を以て勝つ」
「我が兵法におゐては、身なりも心も直にして、敵をひずませ、ゆがませて、敵の心のねぢひねる所を勝事、肝心也」
二の原理(心と体)
一枚板のはずである心と体を、敵に対してはバラバラにし、自分においてはピタリと一致させる。自分は裏と表がピタリと一致した真理そのままに、敵はそれがちぐはぐな状態となる。この格差が勝利につながる。敵に「差をつける」のが兵法の智恵。
試合の時刻におくれて敵を怒らせたり不安にさせる。そこで武蔵がねらったのは、敵の心と体の不一致であった。心と体の連携プレーがスムーズにいくからこそ、すばらしい攻撃ができる。
だから、敵のその連携を断ち切り、ちぐはぐにしてしまうのである。
宮本武蔵と同じく百戦錬磨、命をかけた戦いに勝ちぬいたエースパイロット故坂井三郎氏は、「心と体の一致」についてこう語った。
零戦パイロットとして活躍していた頃は、零戦の頭( プロペラの軸) と自分の眉間、両翼の先端と手の中指の先の感覚がピタリと一致していた。地上で自分の体を動かすよりも、零戦に乗って空中を飛んでいるときの方がずっと速く確実に移動できた。そう感じるほど、自分の心と体( 零戦) とが一ミリのずれもなく、コンマ一秒の遅れもなく同期していた、と。
自分のからだ全体が心の動きに合わせて緊密に反応する。たとえば、思ったことがストレートに正しい表現で口にでる。これさえも、心と口とが正しく連携していなければできない。いくら正しい考えであったとしても、拙い表現でうまく相手に意図したことが伝えられないとか、かえって誤解を生む言い方で相手の心をそこなうことがある。それは心と肉体の一致ができていないからなのである。
武蔵はこの一致を、小手先の技術ではなく理で達成した。右の例でいえば、使う言葉や話し方に工夫をこらすということをせず、その場その瞬間に的確な言葉が本能的に口から出る。そういう、理に素直な体質を自分の内に作り上げたのである。
武器に対する武蔵の考え方
「一命を捨つる時は、道具を残さず役にたてたきもの也。道具を役にたてず、腰に納めて死する事、本意に有べからず」
武器
武蔵の武器に対する考え方
初めて決闘した時、武蔵は武士にとって最も大切な武器である太刀をなげすて、敵に組みつき投げ飛ばし、目の前にある棒切れで敵を殴りつけた。ここにこそ、ハードウェア(武器)よりもソフトウェアが先行する武蔵の兵法(戦い方)を見ることができる。
道場での戦いでは、武器をえらぶ自由はない。竹刀なら竹刀だけである。だが、真剣勝負では状況に応じて、最も利にかなった武器を選択することができる。ハードウェアはなんでも良い。
勝つために今、この場でどんな攻撃をしなければならないのか。そのためにはどのような武器を選択する必要があるのか。斬るばかりでなく、殴る、蹴る、投げるという攻撃のために、自分の肉体の最も的確な部分を、どうやって武器にするかを考えるのである。
武器の選択は、攻撃する側だけの特権である。攻撃側は、行動よりも意志が先行しているために、どこを攻撃し何を武器にするかという選択は、攻撃を受ける側よりも先に行うことができる。また攻撃のタイミングも、前向きな精神によって保証される。自分でストーリーを組み立てることのできる側が、自分のリズムで戦いを進めていくことができるのである。
「鉄砲の弾は目に見えざること不足なり」
遠くから敵を殺傷できるという理由で鉄砲を多用するのは間違いである。戦いとは、鉄砲という一方的な道具によって機械的に勝敗がきまるのではない。そんな場面は全体のほんの一部であり、戦いの本質はあくまで双方向なやりとり、すなわち、その場その瞬間にもっとも適した武器を選択する智力(ソフトウェアの切れ)にかかっている。
鉄砲の弾の速度という物理的な速さに頼らず、二者が互いに干渉しあう関係のなかで自分が積極的に戦いをリードし、コンマ一秒早い武器の選択と攻撃を行う。戦いのゆくえを先に見た方が勝つ。そちらの速度を重視する方が、より重要だというのが武蔵の武器に対する考えなのである。
法
「兵法の智徳をもって、万人に勝つところを極め、・・・おのずから奇特を得、( 神) 通力不思議有るところ、これ兵として法を行なう息なり」
法
「五輪書」火の巻にまとめられた法とは、「理を以て非に落ちる」( 道理のうえで正しい者が、かえって不利な立場になる) ことがないようにするための「理の運用法」のこと。
武蔵はこれら法の効能をして「神通力」「不思議」と表現した。
「枕を抑える」
「けんを踏む」
「敵になる」
「かげを動かす、押さえる」
「むかつかせる」
「おびやかす」
「まぶるる」
「かどにさわる」
「うろめかす」
「まぎるる」
「ひしぐ」
「さんかいのかわり」
「そこを抜く」
「あらたになる」
「つかを放す」
「いわおの身」
( 火の巻)
戦いの哲学
「死する道におゐては、武士ばかりにかぎらず、女・百姓に至るまで、差別なきもの也」
「道理を得ては道理を離れ、兵法(戦い)の道に、おのれと自由あり」
「戦いのうちに、同じ事を度々する事、悪しき所也」
戦いの哲学
武士とは戦い全般のプロである。戦場での戦い方ばかりでなく、あらゆる「戦い・争い・もめごと」の専門家のこと。宗教に頼り、問題をうやむやにして自分の心をごまかし、諦めたりしない。あるいは、商人が金や物を問題と交換する、という対処療法でもない。あくまで正面からとり組み、戦い、問題点を殺して確実に解決する。これが武士の問題解決法なのである。
武士だから何ごとも武力で、というわけではない。武蔵の場合、その人生の半分は確かに「敵を斬る」ことで問題を解決してきた。だが残りの三十年間は、殺すよりも「勝つ利」に比重をおき、インド人ガンジー(一八六九〜一九四八)とまではいかないが「非暴力による戦い」に努めた。日ごろ身のまわりに発生する問題に対し、武士らしく真正面から対応しながらも、自分の生涯の目標・永遠の目的を見すえて生き抜いた。( 暴) 力ではなく、理を見ていたからである。
武蔵は、戦いを哲学することを「すき( 好き) 」と呼んだ。
「弓法者、其外諸芸諸能までも、思ひ思ひに稽古し、心心にすく( 好く) もの也。兵法の道にはすく人まれ也」
こまごました技術にこだわり、目先の勝ち負けに目を奪われ、真の武士として戦いを哲学する人間がいない、と武蔵は指摘する。どうすれば、より速くより確実に勝つことができるのか、最良の問題解決への道はどこにあるのか。自分の専門である戦いについて徹底的に考えるのが武士(兵法家) であるはずなのに、と。戦いに対するこの徹底した武蔵の姿勢は、彼の人格と人生にオリジナル性、多様性を生みだしたばかりでなく、最終的には、戦いは創造であるという境地へ武蔵をみちびいた。
「兵法の道、大きなるたくみによつて、大工に云ひなぞらへて( 「五輪書」を) 書き顕す也」
戦いの道である兵法とは、大工の仕事と同じだと武蔵はいう。戦いとは創造のためにある。破壊と創造を真理の両面と考える二天一流の精神がここにある。実際、武蔵はもの作りを好んだ。
絵や彫刻はもとより、城下町の区画整理まで行ったほどである。
だが、なんといっても武蔵最大の創造は、理に忠実になることによって、自分自身を独創的な人間として作り上げたことにある。
武士の道
「いづれの道におゐても人に負けざる所をしりて、身をたすけ、名をたすくる所、是れ兵法の道也」
「武士は文武二道といひて、二つの道を嗜む事、是れ道也」
武士の道
武士たるものは、人に負けない心、何ごとにも勝つ心をもつべきである。そのためには太刀の
鍛練に励むことがもっとも確実な道だ、と武蔵はいう。自分の専門とする道におけるプロになる。自分の存在の原点を突きつめる(哲学する)ことで、逆にそこから豊富な考えが展開してくる。太刀の道を追求して武の専門家になれば、文の道もおのずと見えてくる。一方に深く傾注すると、自然の道理として必ずバランスをとろうとする力がはたらく。徹底的にどちらかに偏ることで得られる自然の揺りもどしによる、最適な「真ん中」を武蔵は指向したのである。
江戸初期、武よりも文、栄光よりも出世へと、人々の価値感が変化しはじめた頃、武蔵はあいかわらず昔ながらの武士を指向し、太刀の利得を説いた。道場だけの武ではなく、ダイナミックな戦いの感性で毎日を生きてこそ武士ではないか、と。武蔵は今の時代でいえば、真の体育会人間であった。
本来、「スポーツ馬鹿」というのはあり得ない。スポーツに強い人間はそれと同じくらい人間的な深みを持っている。その深みを発揮する場が見つからない、時期がやってこないというだけの話である。
「場と拍子」さえ合えば、すぐれたスポーツマンはまた深遠な哲学者となり得る。肉体で哲学する習慣を生かせば、どんな場でも勝つ道は見えてくる。真剣勝負の場数をふみ、勝つプロセスと負ける意味を知る者は、「常識」という武器を手にすることができるのである。
武蔵は、文に関する教育など受けたことはない。武を究めたところに、自動的に文(知性)がくっついていた、ということ。武蔵の「五輪書」がその事実を証明している。これを読めば、いかに武蔵という人間の心が磨かれていたかは一目瞭然である。論理がしっかりとした、内容が充実した簡潔な文章であり、表現も的確である。あいまいな言葉や宗教的表現によって問題の本質を把握していない作者の未熟をごまかすということが全く見られない。
真剣勝負という、論理的・科学的でなければ生き残れなかった人間ならではの「切れば血がでる」具体的な文章であり、目に見えない精神が生きた言葉で書かれている。武蔵の武の心(太刀の利得)を的確に反映した文の体なのである。
太刀の利得(兵法による生活)
「此道におゐて、太刀を振り得たるものを、兵法者と世に云い伝へたり」
太刀の利得( 兵法による生活)
太刀の道を追求した武蔵には、具体的にどんな利得があったのか。
武蔵が生きた戦国時代と同じように、日本の国家が混乱した幕末の時代。そこで活躍した坂本竜馬( 一八三六〜一八六七) は、剣でも強かったし頭も良かった。しかし彼は、その志の途中三十一歳にして暗殺された。竜馬は、これからの時代は太刀でもピストルでもなく書物であり、頭で勝つのだと言っていたが、結局は太刀で殺された。武士として確かに知識や教養は必要であろうが、なんといっても武士は武士。目的を達成するまでは、なんとしても生き抜かねばならない。
柳生三厳( 十兵衛) は、剣豪として名をあげ、兵法家として優れた著作を残したことでも有名だが、四十四歳で死んだ( 暗殺されたといわれている) 。
解いた者は自ら結ばねばならない。料理研究家が食中毒で死んでは説得力がないではないか。
宮本武蔵は、あれだけ敵を殺しながら、その肉親や門弟たちの仇討ち(報復)から逃げ果せた。また、藩の剣術指南役佐々木小次郎を殺したからには、幕府の隠密からも狙われていたであろう。武蔵はそれら仇討ち、暗殺から逃げきった。そして、自分の創始した剣法のバイブルとして「五輪書」を書き残したのち、畳の上で死んだのである。
武蔵という男は、太刀の利得によって長命したといっても過言ではない。真に太刀の道を究めた人間として培ったソフトウェア( 考え方・感性) が、殺した人の数だけ敵の多い武蔵の人生のあらゆる場面で生き、危機から救った。戦いの哲学が生活の理念として活用されたのである。
武蔵が生涯風呂に入らなかったというのは有名な話である。歌舞伎の播随院長兵衛ではないが、戦う武士にとって入浴とは、敵に殺してくれといっているようなもの。武蔵にしてみれば入浴の爽快さをじっと我慢し、手拭いで体をふく程度のことは、武士として生き残るうえで当然の「たしなみ」であった。
武蔵は人を遠ざけるために、わざと臭くしていたのかもしれない。人とのつき合いや、他人の評判を気にしたり肉親の情にふりまわされて殺された勇者というのはいくらでもいる。武蔵は、世間の目や風評に動じない、負けない心を平素から涵養するのが武士、という信念を持っていたからこそ、生涯を貫徹し、解いた紐を再び結ぶことができたのである。
「岩尾の身と云ふ事、兵法を得道して、忽ち岩尾のごとくに成りて、万事あたらざる所、うごかざる所」
真の武士道とは
「太刀の徳よりして、世を治め、身をおさむる事なれば、太刀は兵法のおこる所也」
「世の中に、兵法の道をならひても、実の時の役にはたつまじきと思ふ心あるべし。其儀におゐては、何時にても役にたつやうに稽古し、万事に至り役にたつやうにおしゆる事、是、兵法の実の道也」
太刀の利得( 真の武士道)
太刀の道を深く究めただけに、武蔵の人間としての深みはそれと同じくらい大きかった。
技術を覚えるよりも、太刀の重さや運動の慣性という「理」を効果的に利用する。外に向かって知識を増やすよりも、「理の探究」によって自分を掘り下げる。人間的な思索に耽るよりも、天道を鏡とする」ことで、敵に勝つための正しい自分のあり方を追求する。
そういう理に徹した人間の感性は、日頃のなにげない生活、殺し合いという緊張が解かれた場面で芸術を生む。武蔵の絵とは、技巧ではなく精神の切れ味で描かれている。真剣勝負の感性をそのままに、あるいは逆に鈍らせて、その時々の精神を絵にしたのである。
武蔵という人間は、無意味に人を斬って殺しを重ねた殺人鬼ではない。その行為のうちに人間の感情や感性をこえた「天理・道理」を見ていた。だからこそ、彼の精神は優れた絵や彫刻、文章に姿を変えて表現されたのである。
戦国時代からの真の武士気質をもつ肥後藩主・細川忠利は、武蔵と同じくものごとを、太刀の利得という観点から見ていた。だから、金地院崇伝という高僧や、天下の旗本( 高級官僚) 柳生宗矩まで辛辣に批判した。
貴族的・人間的な感性から作り出された肩書・権威を否定し、実理という価値観に基づく武士の心・太刀の精神を重視した真の武士である忠利には、武蔵と相通じるものがあったのである。
徹底して理にかなった道を追求した武蔵ばかりでなく、中央の権力者を名指しで批判した忠利も孤独であった。だが、理に徹したが故に孤独であったからこそ、彼らの心は逆に豊かになり、美しい文の心が生まれたのである。
「0への限りなき努力によって敵に勝つ」ことを教えた、もう一人の孤独な武士ガンジーの魂は、太刀の利( 理) に徹した武蔵の精神と全く同じ道を、逆方向から歩んでいたといえるだろう。
空 心意観見
「空と云い出すよりしては、何をか奥と云い、何をか口といはん。道理を得ては道理をはなれ、兵法の道に、おのれと自由ありて、おのれと奇特を得、時に遭いては拍子を知り、おのづから打ち、おのづからあたる、是れみな空の道( 心意観見) 也。おのれと実の道に入る事を、空の巻にして書き留むるもの也」
「心意二つの心を磨き、観見二つの眼を研ぎ」
空 心意観見
地の巻から始まる二天一流の「二の原理」は、空の巻において初めに戻る。
空とは、人生は虚しいとか空虚だとかいう無常観のことではない。武蔵が使う「空」とは、毎日を戦うことによって生きる人間、現実の生活を生き抜こうという強い意志をもつ人間が活動する空間のこと。人間がつくった「無」という概念を飲み込む、実の存在としての空間である。
武蔵のような兵法家にかかれば、無は有に空は実へと思考は転換する。何ごとも前向きにとらえ積極的に働きかける世界にしてしまう。これが戦う男( 兵法家) の心なのである。
「あるところを知りて、なきところを知るべし」
戦いにおける究極の一点は「心意観見」にある。この認識に到達した武蔵が後をふり返れば、実はそれが原点であったことに気づく。十三歳での初めての決闘と巌流島での最後の決闘とが、
武蔵の心の中でメビウスの輪の如くつながったのである。
人の精神の歴史とは、くるくると平面的な円をまわっている。
だが理を知る人間は、立体的に上へ向かって円を描く( 蚊とり線香の中心をつまんで引っ張りあげたような形) 。方向性のある動的でスパイラル(らせん状)な軌跡を描きながら、上にある一点へ向けて収束していく。それはまた、コップの水に落された一滴のインクが、一旦は拡散して薄まっていき、やがて再びもとのインクに凝縮していくように。
「空は善有り、悪無し
智は有也
利は有也
道は有也
心は空也」
「空の空。空の空なるかな、すべて空なり」( 旧約聖書)
独行道
武蔵が、死の七日前に書き残した「武蔵の詩」
一、世々の道にそむくことなし
一、身にたのしみをたくまず
一、よろずに人を頼む心なし
一、身をあさく思ひ、世をふかく思ふ
一、一生の間欲心思はず
一、我、事におゐて後悔をせず
一、善悪に他をねたむ心なし
一、いづれの道にもわかれをかなしまず
一、自他共に恨みを愚痴る心なし
一、恋慕の道思ひよるこゝろなし
一、物毎にすきこのむ事なし
一、私宅におゐてのぞむ心なし
一、身ひとつに美食をこのまず
一、末々代物なる古き道具所持せず
一、わが身にいたり物忌みする事なし
一、兵具は格別、世の道具たしなまず
一、道におゐては死をいとはず思ふ
一、老身に財宝所領もちゆる心なし
一、仏神は貴し、仏神をたのまず
一、身を捨ても名利はすてず
一、常に兵法の道をはなれず
楽しき哉、我が孤高の人生。
金も物もいらない。人間の考えた神も仏も不要。自分のうちにある魂( ソフトウェア) こそが、現在と過去を一致させ、未来へつないでくれる。
二刀による変幻自在の場とリズム。このソフトウェアによってあらゆる戦いに勝ち抜いた武蔵であったからこそ、「ファイティング・スピリッツ( 魂) 」の存在を信じた。この肉体は滅んでも、我が魂は後の世まで永遠に残る。空にこそ実理( 利) がある。すべてを知る強者だけがもつことのできる心。それが空なのである。
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