第2話 プロローグ 後編

 

 

 あれからどれほどの時間が過ぎただろう。空は夕日が差し掛かっていた。

 

 運良く人の足跡を途中で見つけ、人の往来がある山道に来たと分かり下山出来た。


 少し歩いたところで第一村人を発見する。ビバーク(*緊急時の野営)をしなくて済みそうだ。

 

 けれども、当然ながら彼らの言葉が分からない。英語なら多少は分かるが、彼らの言語は英語ではなかった。


 ここは欧州か、それとも違う世界なのか?


 よぎった考えを俺は振り払う。分からないことを考えても埒が明かない。

 

 その村人と身振り手振りでコミュニケーションを取り、何とか意思の疎通を果たしてその村に住まわせてもらった。


 この村は欧州の田舎を思わせた。茅葺かやぶき屋根で白壁の建物が建ち並び、面積の広い畑もある。

 

 俺を奇異な目で見る村人たち。その中にいた、恰幅の良い髭の男に寝る場所を案内された。


 指定された寝所は馬小屋だが、雨風を凌げる。今はスイートルームに等しいほど貴重だ。その夜は住めば都という言葉を噛みしめながら馬小屋で寝た。


 村の一員になってから数日が経つ。余った白鹿の肉は、なぜだか腐る気配がなく虫が集ることもなかった。不可思議だが、そういう種類なのかと今は納得しておくとする。


 日中は村の男たちと共に、新たな働き手として麦のような穀物や作物を育てる。村の人たちは、言葉が分からないよそ者に対して良くしてくれた。食料も提供してくれるし、風呂の代わりに使う小川の場所も教えてくれた。髭が伸びれば、女たちが剃ってくれる。

 

 汗水流して働く俺のことを、いつしか村の皆が仲間と認めてくれた時のことだ。

 

 刺繍入りの服を着た男たちや女たちは、俺を『シュクシュ』と呼ぶようになった。


 どのような意味かは分からないが、オレンジ色のジャケットを指して言葉を発していたので、おそらくは色かそれに類する意味なのだろう。

 

 その日から暖かいベッドを使っても良いと言われ、ありがたく使わせてもらうことにした。


 その日も日中の仕事を終え、恰幅の良い髭の男に『シュクシュ。(意味が理解出来ない言葉)』と家の中に招待された。


 木目が美しい木のテーブルを男たちが囲っている。その上に、湯気を揺らめかせた食事とおそらくは酒があった。


 既にその飲み物を飲んでいる数人の男たちの内の一人が、顔を紅潮させて陽気になっているのだから酒という予測は当たっているだろう。久々の酒だった。


『あー、その。ご一緒してもよろしいんですか?』


 テーブルに並べられた食事と酒を指してから己を指した。交互にその動きを反復させる。


『シュクシュ。酒を一緒に飲もう。君は(意味が理解出来ない言葉)』と恰幅の良い髭の男性が微笑んで手招きした。


『ありがとうございます』席に着く。


 煮られた根菜がごろっと入った肉団子のスープが湯気を揺らめかせ、汁気のない大麦の粥がある。さらにはクラッカーのような黒パンの上に魚の酢漬け、肉塊のようなローストビーフなんてのもあった。実に豪華な宴会だ。


 酔った彼もまた身振り手振りでコミュニケーションを取ってくれている。そのおかげで彼らの言葉の意味が少なからず理解出来た。俺の鹿室志道かむろしどうという名前も覚えてくれた。これほどに嬉しいことはない。


 酒の席でこの村が『クノ』といい、この国は『フェンニライヒ』ということも分かった。ヒアリングが完璧ではないかも知れないが、おそらくは合っているはずだ。


 聞いたことのない国名と地名で、やっと俺は異世界にいるのだと認識した。

 

 しかもどうやら、亜人族や精霊族やら魔族なんてのもいるらしく俄かに信じがたかった。


 事実に驚きが隠せない。


 本当に異世界だとはな。


 六日が過ぎた。白鹿の肉は、こっそり調理して食べ尽くしており今はもうない。村で出される料理よりも、この肉のほうが美味しかったのだ。この肉が止められなかった。止まらなかった。

 

 最近になって何故だか彼らの言葉が分かり始めたのを不思議に思ったが、きっと白鹿の贈り物なのだろうと無理やり納得する。


 なにせ俺は白鹿の脳みそも焼いて食べていた。同物同治という奴だ。と理屈を自分なりに考えたが、そう思わなければ気が変になりそうだったのが本音だった。


 次の日の晩。


 村の男たちの怒った声と、遠くから聞こえる獣の遠吠えで飛び起きた。


 階段を降りて、恰幅の良い髭のマグヌスに事の次第を尋ねる。


『マグヌスさん。どうしたんです?』


『ああ、シドー君か。どうやら病を患った狼が山からやって来たようなんだ』


『さっきの怒声は、家畜が喰われていたんですね』


『ああ、たぶんね』


 家の扉を叩く者が現れた。


 マグヌスが扉を開けると、意地の悪そうな茶髪の青年がクロスボウを背負って松明を掲げていた。

 

『今から狼を狩る。シドーは居るか?』


『そこにいるよ』マグヌスが俺を指す。


『俺ですか?』


『シドー。お前の"音の出る黒い杖"はまだ使えるのか?』


 彼の言う"音の出る黒い杖"とはレミントンM700のことだ。村の者たちがそう呼んでいた。


『ああ、使える。手入れも欠かしてないし、弾もまだまだある』


『良し、それならお前がデカい奴だけでないことを証明してくれ』


『ああ、分かった』俺の身長は一七六センチほど。そこまで大きいつもりはないが、この村の男たちは一七〇センチを少し超えるぐらいであった。


 自室に戻り、狩猟の準備をする。

 

 本来ならば夜の猟銃使用は日本で禁止されている。日の出から日没までの昼間だけが猟銃を使っても良いと、日本の法令によって定められているのだ。

 

 日本という法治国家で今まで暮らして来た身としては、夜に猟銃を使うのは気が引ける。たとえ外国で異世界だとしても、出来れば使うことにならないよう立ち回りたい。それだけ、猟銃は神聖な物なのだ。


 狩猟の手伝いで猟銃を使ったが、ベルトの弾差しにある実包もまだまだあった。とはいえ、残りの二三発を大事に使わねばならない。


 なぜなら彼らは銃を知らなかった。この世界に銃はないということだ。それ即ち、弾薬の補充は期待出来ないということである。


 弾薬ボックスから取り出した実包をベルトの弾差しに差し込んだ。

 

 元の世界で着ていた服もまだ使えた。白い長靴だけは、不注意で破れて使い物にならなくなっていた。今はマグヌスさんから譲ってもらった滑りにくい革のブーツを履いている。


『お、秋の格好だな』


『あの言葉、そういう意味だったのか』シュクシュという言葉を思い出して小さく笑った。


 突然と悲鳴が遠くから上がる。


『おい、シドー。急ぐぞ』


『分かった』


 満月に照らされた村の中を歩き、悲鳴の元へとたどり着く。


『うげ……』


 首を噛み千切られた男性が亡くなっていた。


 意地の悪そうな茶髪の青年が、遺体を松明で照らし出し傷口を見る。


『こりゃあ、内臓も喰われてるな。狼は人を滅多に襲わない。きっと病気の狼だ』


『病気?』俺が聞くと『ガーラ病』だと返って来た。


 四十歳ぐらいの女性が『姪が狼に攫われた!』と声を上げながら、俺たちの元へ駆け寄って来た。

 

 女性が『このままでは喰われてしまう。助けて欲しい』と焦った顔で嘆願する。


『ええ、任せてください』俺は悲しそうな顔の女性を見て、安心させようとこう言った。何の確証もないのに口から出たのである。幼い子どもが食い殺されそうになっているのに、悠長にはしていられなかった。彼らに恩義を感じていたし、何よりも救える人命は助けたい。


 バックパックから懐中電灯を取り出して、山へ向かって歩き始めた。


『一人で行くのか!?』


『俺の後ろをついて来てください』


 制止する男たちを他所に、懐中電灯で狼の足跡を探す。


 痕跡はすぐに見つかった。犬のより爪の長い狼らしき足跡が地面に、何より子どもを引きずった跡が倒れた草によって現れていたからだ。倒れた草の方向を見れば、進行方向が分かる。


 歩むスピードを速めて、倒れた草道を行く。


 懐中電灯を照らした先に、狂犬病のように涎を垂らした狼が子どもを抱えていた。


 その狼がこちらを向く。子どもは傷を負っているようで、肩から血を流していた。気絶しているのか、既に亡くなっているのか動きがない。


 その狼の他にも二頭がいる。ここは猟場ではないから油断した。


 一刻の猶予もないと判断した俺は銃袋からレミントンM700を取り出すと弾を一発だけ込めて、満月の夜空に向けた。


 バァンと空気を割く音が鳴る。


 音に驚いた狼が子どもを放し、尻尾を巻いて退散した。


 意識のない子どもの脈を測り、生きていると確認した俺は米俵を抱えるように肩で担いだ。


 早く戻って子どもは無事だと知らせよう。


 そう思って、来た道を通った矢先である。


 吠える声がすぐ横でしたかと思うと、左脇腹を噛みつかれた。


 痛ってぇ!!


 鈍痛に顔を歪ませた俺は、山刀を抜き放つと狼に振り下ろす。


 狼の首半分を山刀が切り裂き、狼の牙から逃れた。


 だが、狼に噛まれたことで俺は呪いの意味を知る。


 左脇腹を抑えるとぬるっとした感触に冷や汗が流れ、恐る恐る怪我の箇所を見る。抉り取られてモツが見えた。


 村の男たちの松明で照らされる。ぼこぼこと筋線維のようなものが浮き出て、俺の重症があっという間に治癒していた。


 メン・イン・ブラックの記憶を消すクソ長ったらしい道具を今すぐ俺に使ってくれ。ちきしょうめ。


『おい、シドー。……何で傷が治ってんだ?』


 ……こっちが聞きてぇ。

 

 意地の悪そうな茶髪の青年が青ざめていた。俺も青ざめた。傷が治る様が正気度を削り取っていくんじゃないかと思えるほどグロかったのだ。詳しく述べれば、それがネクロノミコンになりかねない。


『……まさか魔族か?』と恐れる者もいる。


 魔族ってのは街中を歩けばグロ陳列罪で罪に問われるほどグロいのか。


『あの……。女の子を頼みます』


 担いでいた女の子を引き渡し、引きつり笑いを浮かべた。摩訶不思議な出来事に、凡人である俺の理解が追い付かないのである。


 誰か俺に起こったことを教えてくれ。


 それから三日後、意地の悪そうな茶髪の青年によって通報された。

 

 そうして、この国の憲兵隊が村に訪れ、魔族の疑いで憲兵にしょっぴかれたのだ。

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