彼氏にタピオカしか愛せないと言われたら

森 真尋

彼氏にタピオカしか愛せないと言われたら


「実は、俺、タピオカしか愛せないんだ……」



 婚姻届を役所に提出しに行こうと、身支度を整えているところであった。彼の口から冗談のような言葉が、真面目な声に乗って飛んできたのは。


 タピオカティーの入ったグラスを片手に、彼はそう言ったのだ。


 彼の面持ちは、今朝から深刻そうなものであった。マリッジブルーかと思っていたのだが、どうやらそうではないらしい。

 思い返してみれば、結婚を決めた昨夜もそうであった。彼はやはり深刻そうな表情で、私のプロポーズを受け入れてくれた。私との将来を真剣に考えてくれているのだと思っていたのだが。



「あはは……、私も愛してるよ。あなたのこと」

私はを誤魔化すように、彼に微笑んだ。彼は困ったように眉を吊り下げ、再び告げる。

「違うんだ。俺は、タピオカしか愛せない、そう言ったんだ……」


 タピオカティーの入ったグラスを机の上に置き、彼は言った。


「あはは……、そうだよね。よく飲んでるもんね、それ」

彼は怒ったように眉を吊り上げ、口を開き、何も言わずに閉じた。


 彼は誤魔化されてくれなかった。誤魔化してもくれなかった。



 机の上に婚姻届を置く。もちろん、そこには署名も捺印もされている。

 彼の手元にはタピオカティーの入ったグラスも置かれている。まだ一口も飲まれていないそれを、彼は見つめている。


「俺は、タピオカしか愛せない。これは、滝岡と出逢う前からずっと、きっと、これからもそうだ」

「……うん」

そうだとすれば、そうであるならば、どうして彼は私と交際してくれたのだろう。どうして、私との結婚を考えてくれたのだろう。そもそも、本当に結婚してくれるのだろうか。どうして、今になってそういうことを言うのだろう。

「どうして……」

「俺は」

彼は息を吐き、私は息を吸った。

「俺は、タピオカに名前が似ているから、滝岡と付き合うことにしたんだ」

もしかすると、そうなのではないかと思ったこともあった。

「結婚して、俺が改姓するのも、友達に滝岡、いや、タピオカと呼ばれたいからなんだ」

やはり、もしかするとそうなのではないかと思っていたのだ。

「私をずっと滝岡と呼ぶのも……」

「……」

そういえば、彼に「タピオカ……、いや、滝岡」と呼ばれたこともあった。

「……滝岡」

極まりの悪そうな顔が、私の方を向いた。



 きっと、最終確認なのだ。今になって、あるいは、今だからこそ。

 私が結婚したいと言えば、彼は結婚してくれるだろう。ただし、彼は私を愛してくれないのだ。

 それでも、私の気持ちが変わることはない。だから、こう言う。

「私は、あなたしか愛せない」



「タピオカしか愛せない自分が嫌だった」

私の告白を受け取り、彼は安心したように微笑むと、再び手元のタピオカティーを見つめながら、静かに語り始めた。

「タピオカさえあればいいと思える自分が嫌だった。でも、滝岡に出逢ってから、そうじゃなくなったんだ」

ようやく、タピオカティーを口に含ませる彼。

「タピオカに名前が似ている滝岡なら、俺は愛せるんじゃないかと思ったんだ。滝岡が俺を愛してくれるから、俺もそれに応えられるんじゃないかと思った」

「でも、無理だったんだよね」

「俺は、諦めたわけじゃないんだ。ただ、滝岡が愛してくれたおかげで、俺は幸せだったから。タピオカしか愛せないのに、それまではそうすることでしか幸せになれなかったのに。滝岡が愛してくれるから、俺は幸せだと思えるんだ」

また一口、彼はタピオカティーを飲む。

「愛されることは、幸せなものだな。タピオカも、俺に愛されて幸せなんじゃないか。そう思うと、タピオカがより美味しくなるんだ。だから、俺はタピオカを愛していいんだと思うようになった。タピオカを愛せるおかげで、本当に幸せだと思うようになった。」

また、一口。

「滝岡と出逢わなければ、俺はこんなに幸せにはなれなかった」


「俺と、結婚してくれるか」



 きっと、確認したかったのだろう。愛されなくても、愛することで幸せになれるのかを。愛さなくても、愛されることで幸せになれることを。

 愛することと愛されることが、同じくらい幸せだというのならば。

「もちろん」

 私は、告白しよう。

「あなたがタピオカを愛する以上に、私はあなたを愛します」



 一口、彼はタピオカティーを飲む。

「滝岡も飲むか」

「うん……、それより、そろそろその呼び方はやめようよ。結婚するんだから」

「あ、ああ」

「でも、タピオカと呼ぶのは駄目だからね。あ、それはあなたが呼ばれたいんだっけ」

私も、タピオカティーを口に含んだ。

「そうじゃないんだ。その、照れ臭かったから……」

私をずっと滝岡と呼んでいた言い訳だろうか。彼は頬を染め、小さく呟く。

「……ユカ」

私はタピオカを噴き出した。


 机の上に散った。それを見て、私と彼は同時に叫んだ。

「ああっ、婚姻届けがっ」

「ああっ、タピオカがぁ……」

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