第13話 3章 復興編

(1)父の死

  東の国にも桜が咲く季節になった。原発の行き帰りに車の中から見る今年の桜ほど、綺麗に見えて切ないものはなかった。桜を見て涙ぐんでしまったのは、俊介には初めてだった。初めて桜が綺麗と意識したのは、やはり、母と行った入学式だった。いつにない母の着物姿が照れくさく、目をそらせば校庭の桜があった。


 久振りの休日で綾子の避難所を尋ねようと思っていたが、携帯に「お前の親父が事故で病院に行った」と、五郎から連絡が入った。俊介は急いで病院に駆け付けた。原発の職員や病院の医師や看護師たちで、康之の周りは慌ただしかった。

「何事?」と思ったが康之は元気だった。「目眩を起こして倒れただけだが、時が時だけに大騒ぎだ。先般、一人が死亡している。仕事中に心筋梗塞を起こして汚染水処理施設で倒れたのだ。多分、過酷な中での作業の連続で過労が原因だろうと仕事仲間で話し合ったばかりだった」と語った。

 病室で二人きりになったとき、康之は「五郎が何か言うかも知れんが、あいつの言う事は信用するな。何しろ借金から逃げているような奴だからな」と言った。何があったのか。原発の人たちは言葉を濁して喋らなかった。


 その日の夜、仕事が終わった五郎が見舞にやって来た。康之は疲れたのか寝入っていた。「おやっさん、大丈夫か?」と尋ねてきたので、俊介は五郎を廊下に連れ出して、「原発で何があった?」と、問いただした。

 汚染水処理施設への配管の点検作業を父と五郎は組んでやっていた。「俺がミスってしまったのだよ。防御服を二重に来てマスクをつけての作業は、途中で水を飲む事も出来ず、きつい作業なんだ。俺は頭がボートして一瞬頭が真白になってたんだろう、今までこんなミスはした事はない。ボルト穴から汚染水が漏れ出した。それを見て、一息入れていた親父さんが俺を突き飛ばして、手で漏れを塞ぎながらボルトを締め直してくれた。そのとき、顔を親父さんは濡らし、被爆したんだ。お陰で汚染水が漏れる事はなかったが、俺が大声を出したので、近くにいた作業員が駆けつけてくれて、待機していた救急車で運んだのだ」と事の次第を語った。

「俺が悪いんだ。こんなことになってしまって。親父さんは皆に被爆したことは喋るなと言ったんだが、駆けつけてくれた年長の浜さんが〈そうも、いくまい。東電には報告しておくが、皆他には喋るなよ〉といって、上につないでくれたのだ」と、申し訳なさそうに頭を下げた。


 康之は食欲もあり、何にもなかったようであった。しかし、医師が俊介に告げた内容は、ショックな内容だった。

「あらゆるとこを検査したが、いまのところ被爆による格別の異常は出ておりません。しかし、放射能とは別に肺に癌が見つかりました」と云うものであった。末期という事で、持って3ヶ月程だという事であった。

「本人に言いますか?」と医師に聞かれ、俊介は康之の性格からして、隠しても仕方のないことなので、「はい」と返事を返した。

毎日とはいかなったが、2日に一回の割で康之を見舞った。綾子と一緒に見舞ったときはことのほか喜んだ。やはり共通の会話は原発の事だった。「今日はどうだった。何があった」と、聞いてきた康之であったが、1ヶ月が過ぎた頃から急に食欲が落ち、痛みに顔をしかめるようになった。そして俊介に語った。


《癌でよかったよ。原発で仕事をしてた奴が、被爆して死んじゃ話になんねぇーからな。お前がお母さんの話をしてくれたが、お母さんがそう思っていてくれたのなら、俺は嬉しいよ。でも、俺はそんな格好いい男ではなかったよ。社長からの話はいい話だと思った。これから先どんなに生きたって、こんないい条件の話はきっこないと思ったよ。お母さんとは結婚を約束したわけでもない。心は殆ど決まっていた。でも、お母さんの顔を見てたら、どうしても言い出せなかった。そのうち俺は苦しくなって、社長に「どうだ」と聞かれて、心とは反対の「有難い話ですが、俺には荷が重い話です」と、断わっちまたのだ。でも言ってしまったら不思議と後悔はなかったよ。さっぱりした気分だった。言った通り、元々「荷が重い」話だったんだ。

それから、お前が市ノ瀬の選挙を手伝った事で叱ったことがあったよな。市ノ瀬と俺は面識があったんだ。あいつが「原発の事で話が聞きたい」とやってきた。原発事故のことだった。「配管トラブルやそれを東電は隠していないか」と聞いてきたが、そこで、「下請けでも、そこの仕事をしている者が内輪の事は喋れない」と断ったよ。住民の安全の為だと言ってあいつは粘った。聞き出せないと思ったんだろう、外国で起きた事故の事を聞いてきた。外国の事だったら別にかまわないので、それを記したノートを取り出して説明してやった。それと同じ事が福島でも起こり得るかと聞いてきたので、構造が同じである限り起こり得ると答えてトイレに立ったんだ。

あいつが帰って、そのノートを元のところに返そうとしたら、福島のトラブルを書いたノートが無くなっていたんだ。直ぐに市ノ瀬の自宅に飛んで行ったよ。奥さんが出てきて、綺麗な奥さんだったので少し驚いたよ。野郎の風采からしたら何となく想像と違ったので驚いた次第だ。もう直ぐ帰ってくるだろうからと言って、座敷に上げてくれたんだが、中々帰ってこない。日が暮れかかって部屋の中は薄暗くなりかかっていた。「待たせてすみませんね。それにしても遅いですね」といって、奥さんはロウソクを持って現れたので、「停電ですか?」と、俺は聞いたよ。「笑ったらいけませんよ。うちは、電気を引いていないのです」天井を見上げたら、電灯らしきものもなかったよ。俺はびっくりして訳を聞いたよ。「原発の反対運動している者が、原発で作った電気を使うわけにはいかないと言うのが市ノ瀬の意見です」と奥さんは答えて、「ですから、家にはTVも洗濯機もないんですよ」と苦笑されたよ。俺は絶句したよ。それはそうだろうが、何もそこまでやる必要があるのかと思ったよ。綺麗な奥さんを可哀想に思ったぐらいだ。それを察したのか「慣れたら別に不便を感じませんよ。電気がなくても、夫婦は仲良くできます」と奥さんはいたずらっぽく笑った。俺は、早々に市ノ瀬の自宅を退散したよ。ノートなんてもうどうでもいいと思えたんだ。あいつは間違いなく、本物だ。少し変わってるがね。その市ノ瀬の応援をお前がすると知って、俺は焼きもちを焼いたんだ。お前が俺のことを好いていないのは分かってたからな。

それから、俺の勉強の事だけど、幼いお前を遊んでやりもせずに、そこまでする必要があったのか。俺は今悔いているよ。子供の一番可愛い盛りに触りも、抱いてやる事もしなかったんだからな。俺の生まれたのは会津だということはお前も知ってるだろうが、会津の事はあまり話したことはなかったな。先祖は会津藩士でそれなりの名門だったらしい。明治以降もそれなりの田畑を持ち、豊かだったらしい。しかし、俺が生まれたときには家は貧しく、中学を卒業したら働きに出る事になっていたが、幾らなんでもそれは惜しいという事で、俺の先生が高校に行かせるように頼んでくれたのだ。親父は「昔は俺の家は名門だった」とか言って、ろくに仕事もしない飲んだくれだった。「中学校で十分」という親父に「頭のいい子を中学校だけで終えさすのは、国家の損でもある」といって、先生は自費で俺を工業高校にやってくれたのだ。俺はこの先生の恩に報いる為にも、大学に行った奴らには負けたくなかったのだ。大学を卒業した奴だって取れない電気の資格を取ったのもそんな思いだった。そのうち、机に向かって勉強している事が俺には一番落ち着く事になった。家のことや親戚、近所の付き合いは全部お母さんに任せて、俺は勉強に打ち込んだといえばカッコがいいが、俺はわずらわしい事から逃げていただけなんだ。あんなに勉強しても仕事に役立ったことはごく僅かだったよ。自己満足でしかなかった。でも、最後にお前と一緒に仕事を出来て嬉しかったよ。お母さんにいい報告が出来るよ》

康之はそう苦しむ事もなく、2ヶ月後に亡くなった。


***

(2)結婚

 原発の方は一進一退の膠着状態を続けていた。原発内の瓦礫の撤去も一段落したので、俊介は南相馬の被災地の瓦礫撤去の作業についていた。重機のフォークの先にランドセルがひっかかる。洗濯竿に吊るされたままの衣服がひっかかる。つい先日まで生活していたままを思い出させる品々が架かって来る。いちいち感傷には浸っていられない。重機が足りなくて撤去作業は遅々として進んでいない。何時になったら完了するのか予想だに出来ない。撤去出来たにしても、本当に人々が帰ってきて、元のように住める町がはたして出来るのだろうか、出来るとしても何年先だろう、俊介は無力感に捉われてしまうのだった。


撤去出来るのはまだいい。20キロ圏内では撤去作業すら出来ないでいる。原発の町は今やゴーストタウンで、放たれた牛や、犬だけが走り回っている異様な景色をなしている。瓦礫の惨状にも胸が痛むが、無人になった町の光景にはもっと胸が痛む。

パトロールに同乗させて貰ったが、ライトに照らされた無人の街を走って、俊介は激しい怒りが込み上げてきた。取り上げられた故郷、山や川、平穏だった暮らし、お金で償えばいいというものではない。これは〈国家による犯罪ではないか〉という思いだった。


 俊介は埼玉の須賀市に避難している大熊町の市ノ瀬を訪ねた。久しぶりの訪問を喜んでくれたが、康之の訃報にはどう言ったらいいのかわからないという顔をして、「実は、一度親父さんに会っているんだ。残念やなぁ」と、ぼそりと言った。 

 俊介は次の地方議会の町会議員に立候補することについて、相談に行ったのだった。考えたことを話した。「俺は考えたんです。福島の責任ってやつを。第一原発の4基だけ廃炉になればいいのか。こんなことでもない限り、「原発をやめよう」なんて声は上がらないと思うんです。今を逃したらいけないと思うんです。安全、安心があっての復興であり、再生なんだと思います。原発をなくす運動の先頭に福島が立つべきだと…。だったら俺も立つべきだとね」


市ノ瀬は「面白いね。それなら、いっそ町長に立て!ひと肌ぬぐよ。これからは君ら若い人たちの時代だ。俺も、議員をやめるとか言ったが撤回だ。原発をなくするために、もうひと働きするよ。親父さんにノートを貰った恩返しをしなくっちゃ」と、ノートの一件を語った。


 被災地域は統一地方選が9月22日に延ばす事が国会で議決されたが、再延長されたが、何時までもという訳にもいかず、震災の年の12月に行われた。ようやく原発も危機的な状況を抜け、安定冷却の見通しが立つような状態になり、避難地から町に帰るスケジュールも語られるようになった。選挙名簿も流され、避難した人は各地に散らばり、住居不明な人もあったが、とりあえず行うという事になった。被災して遠方に避難している人は、自分を証明するものを持って所在地の役所に行って選挙人登録をしてもらうという方法がとられ、その地の役所が投票場所になるという異例の選挙だった。


第一原発の4基の廃炉は決定されたが、第二原発の処遇は決まっていない。俊介は第二原発のある富岡の町長選に立つこと決めた。被災した人々を真剣に面倒を見た現職の町長が絶対有力視されたが、激務の過労がたたって立候補を取りやめた。誰がやっても、激務と復興という難しい課題からは逃げられそうもなかった。

候補は乱立した。そんな中で一番有力視されたのが、以前、原発推進派であった、榎本太一郎議員であった。自民党の後押しもあった。今回の惨状を前にして積極論は言いにくく、停止要請を受けた浜岡原発を例にとって安全確立までの停止続行を言いながら、国策としての原発堅持の立場は崩さなかった。一方俊介は「原発のない町作り」を訴え、「第一原発に引き続き、第二原発の即時廃炉決定」を訴えた。


選挙運動を通じて市ノ瀬議員より公私に渡るアドバイスを受けた。町長が独身では信用されないので、相手がいるなら直ぐ結婚すること、「いないなら、俺が探してやっていい」と云われたが、「おります」と答えて綾子を入籍した。

「結婚式なんかこんな折にいいですよ」という俊介に、「先は長い、お前はいいだろうけど、終戦後でもないんだ、花嫁姿ぐらい先方のご両親に見てもらうものだ」と説得されて、結婚式は市ノ瀬の計らいで、福島市内で簡単に挙げることが出来た。花嫁姿の綾子は「別人」と思うほど美しかった。


市ノ瀬の大熊町の選挙結果は被災民と共に頑張った現職町長が再選され、市ノ瀬は議員のトップ当選を果たした。


***

(3)『被災地連合』の結成

色んな場所で町民達との話し合いが行われたが、市ノ瀬はこういうときの対処の仕方を教えてくれた。俊介は彼から草の根の民主主義を教わった。

《一言で言えば相手にレッテルを貼るなということだ。「あいつは原発推進派だ」「あいつは反対派だ」とどれだけ不毛な時間を費やし、町の人たちに傷を残したか。どっちもこの町をよくしたいという思いには変わりない。それを原発以外には考えられない状態にしちまった。賛成、反対。他に方法はないのか、考えようともしなかった。与えられたものにすがるのではなく、自分たちでデザインしてみるという考えがなかったのだ。自分の言い分は簡潔にいう。そして相手の言うことは最後まで聞く。反論や説得はいらない。お互い「最後は、どうすっぺ」だ》と。


地域や、住民の集まりでは市ノ瀬のこの意見にしたがった。単に原発反対という事でなく「町に帰ってきて、原発で仕事をした」ことが評価されて、榎本議員の対抗馬と目されるようになった。選挙参謀の市ノ瀬は富岡町の原発反対の町議員をよく纏め上げてくれたのと、今まで選挙に無関心だった、若い人たちが俊介の応援隊を作ってくれて、蓋を開ければ、俊介の圧勝であった。町民の「町の復興は原発なしで」という答えははっきりした。

いいことは続くものだ。原八先生の所在が分かったのである。先生は流木で頭を打ち、記憶喪失して相馬郡の病院に収容されていたのだが、その記憶が戻り、避難所の奥さんの所に戻れる事となったと、奥さんから市ノ瀬に連絡が入ったのだった。


これからの、俊介と市ノ瀬の行動は早かった。第一、第二原発のある町が別々であっても仕方がない、原発なきあとの町づくりを目指して4町の合併を訴え実現させた。10キロ圏内は依然警戒区域とされていたし、人口の激減は合併を急がせた。名は双葉郡から取って『双葉市』とされた。市長は大熊町の町長がなり、俊介は市長選には出ず、市議会の議員選挙の方に回った。俊介はトップ当選、市ノ瀬は2位の当選で市議会はがっちりと、二人が押さえた。

これで、双葉市にある原子炉は一基も動かすことは出来なくなった。第一原発の事故を起こした1号機から4号機まではすでに廃炉が決まっていたし、停止中の原発は地元市町村の了解なしでは再開できない取り決めがあるからだ。この合併は単なる市町村の合併ではなく、原発廃止を宣言した合併劇と捉えられ、原発施設のある被災地域は無論、原発のある全国の市町村住民、原発政策の堅持を模索する国に与えた影響は大きかった。


隣県の宮城県の女川原発のある、女川町、石巻市は運転再開を容認する意向を示していたが、地元住民の反対を受けて当面停止続行を決めた。「双葉市」に対する国家の締め付けは陰に、陽に、公に、私的に猛烈なものであった。市の復興の希望意見は聞き流し、すでに決定されている復興事業のわざとの遅延、同じ被災地でありながら、まして「原発被災の真っ只中にある町に」と、市になった役所の人達は何度も悔し涙を流した。市会議員には、地元有力者、親戚縁者、恩師友人だれかれ問わずの説得工作が行われ、中には病気を理由に議員辞退者が出る始末であった。特に、俊介と市ノ瀬の周りには警察が何か問題はないかと嗅ぎまわっているという噂が流れていた。


こんな中、市ノ瀬と俊介は「東日本被災地自治体連合」の結成に向けて動いた。被災状況や地域の特性によって抱える問題に相違はあっても、大元では共通する問題が殆どであった。個々の、小さな自治体の単位では「地元の要求には出来るだけ沿って」という発言とは違って、中央に無視される事も多く、又望んでもいない事に予算がついて押し付けられるという事態もあったりで、県を通すとあまりにも時間がかかりすぎたし、県や、知事は国の施策を代弁する傾向にあった。

最初、俊介や市ノ瀬の政治的な動きを警戒していた首長たちであったが、あまりの国の施策の遅さや、市町村の実態を無視した作業の押し付けに我慢が出来なくなって、翌年の震災のあった3月11日を期して結成された。

市ノ瀬と俊介は事務局に入り込み、市ノ瀬は事務局長の肩書きを得た。


***

(4)民政党・大沢一郎

地方からの動きはこの様なものであったが、老練、市ノ瀬は中央に対しても手を打った。東北のドン、眠れる獅子、民政党の大沢一郎を動かそうというのである。大沢の地元岩手県には原発がない。このことはこの問題に対して大沢を動きやすくしていた。

東日本の太平洋岸で原発がないのが岩手県だけである。1970年代に田老町摂待地区(現在宮古市)「田老原発」の建設計画が浮上したことがあった。地元は漁業関係者を中心にして猛反対をした。その後も知事や、他の自治体の首長からも原発誘致の話が出たが、三陸の漁業者の反対運動は強かった。原発建設の話はいつの間にか立ち消えてしまった。その陰に地元の実力者で元首相の鈴木善幸の存在があったとされる。善幸は中央では原発推進であったが、地元では、原発立地で三陸の漁村が対立し、自身の選挙基盤も分裂するのを好まなかった。それよりも水産族のドンとして着実に漁港を整備していく方がよいという老練な選択をした。もし田老原発が実現していたら、考えただけで恐ろしくなる話である。


一ノ瀬は国のエネルギー政策の根本的見直し『脱原発』を掲げる集団を、民政党の中に作り、大沢一郎をその先頭に立たせようというのである。これは大沢にとっては政界再編の次の一手となるまたとない戦略になり、必ず乗ってくるというのが市ノ瀬の意見だった。

大沢事務所を市ノ瀬と共に訪ねたが、TVではよく見た顔であるが、初めて会うことに俊介は緊張していた。「よくアポが取れましたね」という俊介に、市ノ瀬は「今や、被災地自治体連合事務局と言えば会わない政治家はないよ」と上機嫌で答えた。


二人は大沢の好物だという菓子折りを持って、水沢市の事務所を訪ねた。二人の秘書を従えて現れた大沢の印象は、強面と評されていたが、実際に会うと、その笑顔が腕白坊主の笑顔の様に見えて俊介には好ましく映った。

一通りの挨拶と歓談が終わり、秘書も部屋を出て行った。「お二人の活躍は、被災地の復興に関心寄せる者として注目しておりました。さて、今日はこの大沢に何をしろとおっしゃりに来られましたか」と、ずばりと切り込んできた。

「大沢先生に東日本の復興に一肌、いや、先頭に立って貰いたいのです。被災地や、地方からは私達が頑張ります。中央では先生に頑張ってもらい、地方と中央が本当の意味で手をつながねばなりません。そのお願いに今日は来ました」と、前置きしたうえで、市ノ瀬はかねての持論を述べた。風采の上がらない市ノ瀬であったが、大沢一郎を前にして一歩も引かない気迫を見て、俊介は頼もしく思った。

 

 暫く目を瞑って考えていた大沢が俊介に向かって、「若いあなた達にこれからを引き受けてもらわねばなりません。原発なきあとに、どんな町作り考えられていますか」と尋ねてきた。


「国の復興プランを押し付けないで欲しいのです。国はこれからのエネルギー政策の基本、国のあり方を示し、復興予算の財源をドーンと積むだけでいいと思います。今回の大震災は、地方の力が試されるときであり、地方からの民主主義の構築を始めるまたとない機会です。地域で徹底して話し合い、地域住民がどんな町を作り、子孫にどんな町を残すべきかを考えてもらいます。札束で張られて卑屈な思いだけの町づくりはしません」と俊介は持論を語った。

「東日本の沿岸部から原発をなくし、『脱原発』の先頭に立ちます。新エネルギーの開発のフロンティアになります。そして、農林漁業に若い人たちを導入し、一次産業の再生モデルとなります。東北の復興は日本の再生モデルにならなければなりません」と語った。

俊介の財源の裏づけに、国債に頼るばかりでなく、農林中金の資金と、年金の運用益の活用に触れたとき、大沢は大声で笑い、「市議会の議員にしておくのはもったいないですなぁ。政治はアバウトの方がいいらしい。判りました。大沢が中央で出来る事はやります」といって、手を出してきた。色々と言われる政治家だが、民政党を政権党にしたのも彼だ。言ったことは信頼できる政治家だと俊介には思えた。


 こうして、被災地自治体連合と小沢集団は連携し、エネルギー政策の根本的変更を政府にせまり、『脱原発』は実現するかと思われた。事故以後、原発に関して人々の関心は高まり、世論調査では「脱原発」に賛成するが6割をしめるようになった。安全を求める国民の声は、原発50基すべてが一時ストップする事態になった。これに対して、財界や経産省、自民党は電力の安定供給の経済的側面から原発堅持の意見であった。安全面からの原子力行政の在り方、今までのエネルギー政策の見直し、再生エネルギーの可能性、電力の自由化等が検討課題として国民の前に出された。


***

(5)記憶が戻った原八先生

 記憶が戻った先生は、原発やこれからのエネルギーのあり方について、講演に呼ばれることが多くなった。以前のようにゆっくり、自分のペースで喋るのではなく、何かに取り付かれたような喋り方に変わっていた。

《今回の地震と津波が教えてくれています。私達にそれを教えるために、地は震え、海は巨大に波立ったのです。思い上がるな人間、制御不能な原発を「止めろ」と言いに来たのです。地震は火山列島日本の宿命です。大きな地震が起これば津波も起こります。東北の地図を見てください。青森の八甲田山から会津磐梯山にかけて中央に山脈、火山が走っています。東北の有名な温泉はこれに添ってあります。そして盆地から仙台平野にかけて北上川が流れ海に注いでいます。そして、青森から三陸、仙台、福島から茨城県の鹿島灘にかけての長い変化に富んだ海岸線があります。沖合には潮が流れ、海には波があります。海からは風が吹きます。自然再生エネルギーといいますね。自然を生かすことです。太陽はいつも全てのエネルギーの元としてあります。火山列島には地熱発電、森林の廃材を使ってのバイオマス発電、川筋には水力発電を、そして海岸には風力発電を、津波で分かったと思いますが、海の持つエネルギーは凄いものです。この力をまだ人間は使っていません。波動発電、潮力発電、潮流発電も可能性を秘めています。風力では洋上風力発電もあります。何も原子力に頼らなくても電力のエネルギーの調達方法はいくらでもあるのです。技術的には確立されたものもありますし、これからの可能性を秘めた豊かなものもあります。只、現時点の問題のほとんどはコストの問題です。原発はその発電コストの有利さが言われていましたが、廃炉や安全を入れたトタールコストは高くつくことが福島で分かりました。自然を生かす。自然を知る。それに寄り添い、電力という恵みを得るという謙虚さがあれば、原発に変わる電力はすぐ得られるでしょう。謙虚になったときの人間は中々賢いものです。10年もあれば出来るでしょう。いやしなきゃいけません。強い決意というものは10年です。それ以上に設定するということはやらないと言っているのと同じ事です。電気を作る原理はタービンを回せばいいだけです。原発のよう大仕掛けがいる難しいものではありません。原発に注ぎ込んだ情熱と費用があれば、今頃、日本は再生エネルギーの最先端の国になって、世界に貢献出来ていたのにと、残念でなりません》


俊介は思った。たいていこういう話は数字から入るのだが、原八先生は山、川、海の自然を語るところから始まる。これなら皆が耳を傾けられる。聞く人は「地熱発電とは何ですか」「バイオマスとはどんな発電ですか」「海でどうして発電をするのですか」と自然を身近に感じながら質問できる。


地熱発電についての質問には

《火山の下には高温のマグマがあるのは知っているでしょう。その上には熱水の貯留層があります。井戸(1千~3千メートル)を掘って蒸気をくみ上げタービンを回すのです。熱して蒸気を作る必要はないのです。蒸気を取り出した後の水は還元井戸で戻します。貯留層の管理は大切なのです。世界では、1番はアメリカ(殆どがカリホルニア州)で250万kW。火山国フイリッピンは200万kW。インドネシアは450万kWの計画を持っています。日本は53万kWで、これは福島原発1号機分相当に値します。日本での最初の発電所は1996年岩手県の松川地熱発電所です。日本で一番大きい地熱発電所は九州大分県九重町にある八丁原発電所(2基)で11万kWです。福島には1基では最大の出力6万5千kWの柳津西山地熱発電所があり、火山が多い九州と東北に多くあります。八丁原も福島も無人運転です。近くにある発電所で遠隔操作をしています。それぐらい安全性は高いという事です。日本は原発一辺倒でしたから、ここ20年間地熱発電所を作っていません。皮肉にも、日本企業の地熱発電の技術は高く、世界の地熱発電容量の70%のプラントの供給を担っているのです。ですから、今すぐにも世界のトップレベルになれるのです。地熱発電は設備利用率でも原発並みの70%で太陽発電や風力発電の利用率(20%程度)より安定しています。地熱発電では5万kWで20万人程度の都市電力をまかなえ、ローカル電力としては優れているのです。ニュージーランドでは一基では最大の14万kWの地熱発電所の計画がありますが、日本の富士電機が受注しました。優れた所が多い地熱発電ですが、阻害要因は適地の多くが国立公園内にあり規制がかかっていることです。温泉業者が湯線源の枯渇を恐れて反対する事が挙げられますが、この様な事例は今の所報告されていません。今回の原発事故で外国からの観光客が激減したのです。観光業者の考えも変わるでしょう。水力発電所のダムも国立公園内にありますし、規制の緩和が望まれます。地熱発電は自然再生エネルギーの対象になっていなくて、太陽光や風力発電のような補助もありません。規制を緩和し、補助がつけばもっと作れるのです。東北には適した発電方式だと思います》


「不勉強だった。福島県にあることすら知らなかった。早速、見学に行きます。なー俊介!」と市ノ瀬はいっぺんに地熱フアンになったようである。


「太陽光発電はどうなんです」と云う質問には、

《全てのエネルギーの源は太陽です。太陽エネルギーが枯渇する事はありません。人類の究極のエネルギー、夢のエネルギーといえます。太陽電池パネルがあればいいのですから、発電所もいりません。あなたの家の屋根が発電所なのです。全ての家にパネルが取り付けられたら、電力会社はいらなくなります。これが一番の欠点です。これはジョークです。今の時点での欠点は夜間や雨天には発電できないという安定供給に問題があります。コスト的にも他の自然再生エネルギーの中では一番高いのです。補助金制度を拡充し、普及を計れば、パネルは工業製品ですから格段にコストは下がるという可能性が魅力なのです。

 ついでに、風力発電について述べてみます。世界では飛躍的に風力発電が増加しています。最近の原発1基は100万kw標準です。これに換算すると、中国は原発42基分、アメリカ40基、ドイツ27基、スペイン20基、インド13基、イタリア、フランス、イギリスで5基、ちなみに日本は2基程度なのです。日本の電力会社が自然再生エネルギーにいかに不熱心だったかがこれで分かるでしょう。デンマークはすでに電源の20%を占めています。ヨーロッパ諸国で風力発電が盛んなのは偏西風という一定方向に吹く立地に恵まれている事が挙げられます。日本は風力発電の後進国ですね。風車もヨーロッパからの輸入が多いのです。日本で発展しない理由に台風が上げられています。又、適地が少ないとか言われています。風力原動機をつけることによって強風対策は出来ます。海岸では昼は海から陸に、夜は陸から海に海陸風が吹きます。海岸線の長い日本で適地が少ないというのは合点がいきません。福島では郡山の布引高原に日本最大の6.5万kwの33機の風車が回っています。長所は工期が短い事、これはコスト的に有利です。短所は太陽光と同じく安定供給に難があること等が挙げられます


 発電は何も原子力のような高い技術力や、大規模な設備がいるとは限らないのです。発電の原理は簡単で、発電機も極小のものまであります。僅かな水流があれば、例えばトイレの水の流れでも発電が出来るのです。小川に水車の風景を想像してください。農業用水も工業用水も発電に利用できます。小規模水力発電といいますが、安全という名目で大規模水力並みの法規制が適用されているのが阻害しています。法規制を変えるだけで発電可能資源は多いのです。福島原発も新潟の原発も東京電力のものです。立地は東北電力内にあります。皆、東京に送る電気です。東京の一極集中の犠牲になっているのです。東北だけでは原発はこんなにいらないのです。遠くからの送電はロスを生みますし、高圧で送るために変電の設備もいります。大規模集中型から中規模ローカル発電、小規模分散型の発想転換をすればいいのです。電力の地方分権です。自然再生エネルギーで地域再生を計ればいいのです。自分たちの町の電気は自分たちで作ればいいのです。東京の電気は?東京の人に考えて貰いましょう(笑い)》

今までになく、先生はジョークを交えて話すようになっていた。


原八先生のこの話は被災地自治体連合の議員を納得させ、自治体連合の「脱原発」の理論支柱になった。そして被災地の自治体の講演会で地域住民に分かりやすく語り、人々は自然再生エネルギーについて関心を深めていった。


***

(6)東電を潰せ!

「聴いていると、日本は自然再生エネルギーの後進国みたいですが、阻害してきたものは何ですか?」との質問に、市ノ瀬議員はわが意を得たとばかりに先生に代わり、次のように語った。

《国のエネルギー政策が原発一辺倒だった事と、9の地域独占電力会社が国の手厚い保護と助成のある原発に熱心で、出来ない理由ばかり並べ、コスト高の自然再生エネルギーの電源に不熱心だった事です。国策の変更と地域独占の電力会社のシステムを変えなければいけません。自然再生エネルギー発電を加速するためには電力の自由化が必須条件です。今の9社地域独占体制では、新エネルギーに不熱心の挙句「電力が足りない、やっぱり原発だ」と、事故のほとぼりが冷めた頃言い出してくるでしょう。今回の東京の計画停電は何だったのでしょう。柏崎刈羽原発は7基あり、出力は821万kwです。中越地震のとき全てが止められましたが電力不足の停電は起きませんでした。福島は第一、二を合わせ910万kwです。この差は100万kwです。東電は3月末までにバックアップの休止中の火力発電所を動かし、250万kWを調達出来ると発表しました。計算上は電車を止めたり、工場の生産を止めたりする必要はなかったのです。わざとやった停電と僕は考えています。「まさか、それはないでしょう?」。いいえ東京電力はそんな会社なんです。余りにも影響が大きく不人気だったので、節電を呼びかけて止めましたが、独占電力会社は何でもやれるのです》


今までの東電を知っている俊介でも「信じられない」思いだったが、市ノ瀬の数字は合っている。そう言えば2003年福島原発騒動のとき、東電の原発17基全てが止まったことがあったのを思い出した。たしかその夏停電はなかったはずであった。


市ノ瀬は東電の解体が持論である。東電を語るときの市ノ瀬は親の敵に会ったようになる。市ノ瀬が俊介に語った持論とは、

《こんな不祥事を起こした民間会社が許されていい筈がない。東電は超優良企業だった。東電の資産を持ってすれば賠償は十分出来るはずだ。解体して一時国営にして後、発電、送電、配電を分離し、東電地区を電力の完全自由化のモデル地区にすればいい。民営化すれば、電力事業への参入希望企業は目白押しだ。東京の電力は困らんよ。電力会社が民間企業であることが忘れられている。原発の廃炉費用を見積もれば、全ての電力会社は債務超過になる。債務超過とは倒産企業だ。倒産企業に支えられて日本の電気事業はある。電力事業への参入希望はいくらでもあるから、倒産しても引き受け手はあるが、ただし、原発を除けてが条件になるだろうよ。真っ当に電力事業をやるならすでに原発は無用の長物なんだ。電力を完全民営化すればいいのだよ。ほっといても『脱原発』は実現することになる。原発の寿命は40年とされている。なんだかんだと延長するんだろうが、一応20年後にはすべてが廃炉対象になる。今の現状では多分、新増設はむつかしいだろう。その先は一体どうするんだね。とりあえず今が良ければそれでいい、それが今の電力会社や政府や財界なのだ》と云うものであった。


***

(7)廃炉の費用

「廃炉にするにはどれぐらいの費用がいるのですか?」という俊介の質問に、先生は「東海村実験炉(11万kw規模)で1基1千万円を見込んでいます。今は100万kwが標準ですからもっとかかるでしょうね。イギリスでは29基の原発の廃炉が決まっている。その廃炉費用も含めた政府負担が8兆8千億円だということです。ところが日本の経産省試算では54基全て廃炉でも3兆円ほどとしています。差があるのは廃炉をどの段階までとするか、廃炉の期間をどのように見るかで違ってきます。イギリスやドイツでは使用済み核燃料の再生処理や保管管理まで見て70年としているようです。一応、1基3千億としておきましょう。これは正常に運転停止をした原子炉です。福島のような事故を起こした原子炉の場合どうなんでしょう。メルトダウンした核燃料がどうなっているのかわかっていません。技術的に相当困難が予想されます。廃炉までの期間を23年と見ていますが、どこからこんな数字がでてくるのかわかりません。やってみないとわからない。補償は別としても、除染費用や使用済み核燃料の再処理、保管管理を考えれば青天井なのかもわかりません。東電に政府保証を5兆円積みました。除染は半ば、補償はほとんど手づかずで、残りは1兆円しかありません」

「50基として15兆円か?事故が起きれば補償に10兆円、さらに青天井、これらは電気料金に上乗せか、税金か・・・」と市ノ瀬がぽつりと云った。

原八先生は東北大学の教授になった。大沢議員の口利きだった。


次に市ノ瀬議員が俊介に語った事は、俊介を驚かした。「東電の計画停電は、不必要な計画的な作為事項であった」と、裁判闘争に訴え出るというのである。事前に打ち明けられた俊介は「そんな事をしたら、被災地自治体連合の事務局の地位を失いますよ」と言ったら、「覚悟の上だ。次はお前がやればいい。俺は東電を潰す。これが俺に課せられた仕事だ」と語った。市ノ瀬の執念はしぶとい。東電も嫌な奴に睨まれたものだ。一人の男の執念があの日本の半分の電力を供給する東電を潰すのかと思うと、俊介は個人の力がいかに大きいものかを知り、市ノ瀬が本物だと言った康之の言葉が思い出された。市ノ瀬、原八先生、そして父。皆、本気の人達だ。本気で怒っている。本気の意味を俊介は知った。いつから、この国の人たちは変に物わかりが良く、怒らなくなったのだろう。

 

***

(8)コンクリートから人へ

 東北大学の教授になった原八先生に、「参議院行政監視委員会」から参考人として意見を聞きたいという依頼があった。先生はそこで、核燃料サイクルの破綻を語った。


《ウランは石油や石炭より希少な枯渇資源だといったら、燃やしたウランはプルトニウムになり、これを高速増殖炉で使えば又、使える。だから、枯渇資源ではなくなると反論されるが、高速増殖炉は技術的に破綻している事を端的に語りましょう。1970年に実験炉が着工しました。1980年に原型炉「もんじゅ」が着工し10年後の商用炉を目指しました。1995年に「もんじゅ」がナトリウム漏れの事故を起こしました。2010年運転が再開されるも又事故を起こしました。2025年に商用の計画されたものは2035年に延期され、さらにこれが2050年に延期されました。40年かけて未だ実現されていないものがあと40年かけて実現を目指すとされています。永久に出来ないことは誰にだってわかることです。事実、世界の国々も高速増殖炉の計画を中止しています。出来ないことに、莫大な費用をついやし、これからもかけようというのです。だれも何もいいません。これが原子力行政の実態です。

最終処分地すら決定されていず、原発のプールの中に使用済み核燃料は貯まっていくばかりです。プールに貯留されている事がどんなに危険かは今回の福島の事故でお解かりになった事でしょう。余りにも無責任な原子力行政に因があったと言って過言ではないでしょう》

 

これは、参議院の議員にはショックを与えた。メジャーのマスコミには報道されなかったが、インターネットで映像が流され、人々は核燃料サイクルの破綻を知ることになった。


「ふくしま」を経て、世界ではドイツが10年以内に原発を全て廃炉にする事を宣言し、スイスも脱原発を表明した。イタリアはすでに原発は1基もなくしていた。福島以降、原発の新増設は手控えられるだろう。世界の潮流は確実に『脱原発』、『再生エネルギー』にシフトしていくと俊介には思えた。

「日本の首相を女にすっぺぇー。それが一番だ。ドイツを見てみろよ。日本の男たちはドイツもコイツなってねぇー」一ノ瀬ワールドが始まった。

 マスコミは、例によって、震災からの復興物語の美談に明け暮れていた。

阪神、淡路大震災と決定的に違うことは、地震、津波で原発事故が起きた災害ということだ。一地方の復興ではなく、地方と中央の問題であり、この国のあり方、オーバーに云えば「国家の品格」を世界は見ているのだ。

 本質は論じられず、電力や、電気料金の問題にすり替えられる。何時でもこの国はこうだ。電力不足の不安は企業の海外流出を呼ぶ…?国難と言い、愛国と云うが、個人には要って、企業には愛国はいらないのか。どこをして国難と言う。俊介は苛立った。


菅野首相は辞める寸前になって、「原発のない日本」を語ったが、屁のつっぱりにもなりはしない。この宰相が喋るとどんな言葉も軽くなる。「東電の解体」と一部言った政治家はいたが、結局、東電に政府が肩入れして補償をする。現状維持にかわりはない。「未曾有の国難」を国は口にするが、何か変わったか?根本的に変えられたものはあったか?

 こんな最中に、新しい宰相は官僚の尻馬にのり、「消費税に政治生命を賭ける」と云だし、反対する大沢グループとは党の分裂を辞さないと述べた。


〈人からコンクリート〉はどこに行った。俊介の歩く町は、コンクリートの瓦礫が一杯で、人はいない。

〈子育て支援〉福島では親子が別れて住み、若い人たちは「子供は作らない」という。

〈国民の生活が第一〉は平和に、安全に暮らせることが第一ではないか。俊介は改めて、この国の来し方を考え、行く末を案 じた。

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