第12話 2章 帰郷編

(1) 康之に「帰るよ」と電話を入れた。東北新幹線は栃木の那須までしか開通していず、康之は車で那須まで迎えに来てくれていた。その夜、「原発で仕事をしたい」と言った。康之は「中途半端な気持ちでは出来ないぞ」と言ったきり、何も言わなかった。1階で一緒に寝た。襖を隔てて父の寝息を聞きながら、俊介は、6年ぶりの我が家の空気を一杯に吸って眠りについた。地震から未だ2週間しか経っていないが、俊介には1ヶ月にも、2ヶ月にも感じられた。その晩、久しぶりに母の夢を見たが、起きるとどんな夢か思い出せなかった。

「今日、会社から手帳を貰ってきてやる。瓦礫の片付けで重機の運転できる奴を募集しているから、大丈夫だろう。ここにメモしておいたから、これらのものを用意して、明日から入れるようにしておけ」と、康之は出掛けに、俊介に紙片を手渡した。手帳とは原発で働いた事がある証明書みたいなもので、此れに、作業内容や線量などが記録される。父の口添えがあれば何とでもなる。


 3月26日、俊介が初めて原発に入った日だ。その前々日に作業員3人が3号機タービン建屋に溜まっていた高濃度の汚染水で被爆した。緊急作業時の限度である250ミリ・シーベルトに近い放射線に被曝したばかりであった。人間の健康に害を与えると証明されている線量は100ミリ・シーベルト。原発の通常作業での年間被爆量は50ミリ・シーベルト。緊急作業時は100ミリ・シーベルトとされていたが、今回の福島原発に対しては、緊急作業時の限度は年250ミリ・シーベルトに上限が上げられた。3号機建屋で記録された400ミリシーベルトは単位が毎時である。聞くのもいやな数字だと保安院の人が言ったのはこれで判るだろう。3号機は問題のプルサーマルのMOX燃料を使っている機だ。2号機汚染水の表面や周囲の空気からは毎時1000ミリ・シーベルトの線量を計測したと発表された。これだと、緊急作業時の年間限度量250ミリ・シーベルトを15分で浴びることになる。


***

(2)

 康之は外部電源から電気ケーブルを敷設する作業に携わっている。線量計は20ミリ・シーベルトを超すと9分間にわたり断続的に鳴り続ける。通常作業のときは一番歳のいった作業員に一括預けて作業することもあるらしい。そうしないと仕事にならないのだ。今は線量計が頼りで、建屋内では、2分で交代の人海戦術でやっているが仕事にならず、「1年したって終わらないよ」これらは康之の下で働く、俊介と同い年の橋本五郎から聞いた話である。

 建屋内に入るのは命がけで、この高濃度の汚染水は原子炉の配管から漏れており、格納容器の破損の可能性が大になった。燃料棒がある圧力容器は格納容器に守られているから安全といわれていたが、その格納容器の破損が事実だとしたら、万が一も考えておかねばならない。そんな中で働く作業員だが、宿舎は第二原発の体育館で、雑魚寝で眠れず、風呂は4日に一度程度で、食事はインスタントやカップ麺が多く、皆、疲れ果てている。7百名程度の作業員がいるが、常駐の医師は一人だけで、放射線医学の医師ではないと、宿舎の様子をここで寝泊りしている五郎は語った。

「お前達、家があって通いの人間が羨ましいよ」

「どうして、ここの仕事に来たのか」と聞くと、

「借金!日当がいいのと、それから…」と言って、いたずらぽく、「ここまでは、借金取りも絶対きっこないからな」と笑った。


 俊介が原発に初めて入った日、敷地内に自衛隊の戦車があるのにびっくりした。「何事!」と思った。普通の重機より、戦車は放射線を防げるので、重機だけでなく戦車も瓦礫の撤去に一役買っているのだと康之が教えてくれた。建屋内の作業の様子を帰って家で聞こうとすると、「よその仕事に関心は払うな。そんな暇があったら、自分のとこの仕事の事を考えていろ。それと、中で働いていると言うと色々聞かれるが、口外は厳禁だ。どの様に取られ、伝わるか分からない。中で働いているとめったな人以外言うな」と教えられた。もっともな事だと思った。


***

(3)

 そんな康之だが、晩酌が回ったのか、俊介という話し相手が出来たせいか、仕事の事で東電を愚痴った。

《ふざけんじゃないよ。外部電源が喪失して、冷却ポンプが動かない。おまけに非常用電源のジーデル発電機が水を被って14台全部使えない。炉心溶融を起こすような過酷な事故が起こった時の想定がなってないんだ。普通、原発では自分の所で作っている電気を使う。これを内部電力というんだ。例えば原子炉の1号機が事故を起こし電源を失ったとする。隣の2号機からの内部電源を融通すればよいという対策だ。1基の原子炉の電源が喪失するような地震が起きた時に1基で済むかね。海沿いにあるんだ。地震が起きれば津波を考えねばならない。どうして、4基全てが止まる事もあると想定できないのかね。そんなことだから非常用の電源であるジーデル発電機もいい加減な扱いになる。全てを地下に設計して、水を被って14台全てが動かない。海傍にあるんだぜ。想定外の地震で外部電源を失った。外国ではいざというときの為に、外部電源は2系統から引いているぐらいだ。東北電力からの外部電源を引くのに10日かかっている。その間に何が起きた。そのケーブルを今敷地内に取り込み、制御室や、タービン建屋内に繋ごうとしている。今の俺の作業だ。繋いでもうまくいくかどうか、やってみないと分からない。原発の電源は絶対切れてはいけないんだ。『全部の原子炉が止まるはずがない以上、それ以上の安全対策は必要ない』何かにつけて、東電と、それを容認する国の姿勢だ。谷川に架かった丸太の上を片目瞑って渡る奴があるかね。あいつらは両目で物事を見ようとしない。都合のいいほうしか見ないんだ。皆、立派な大学を出てたり、学者なんだろう。高校出の俺でもわかることが何故出来ない。今回は、長期戦だ。だのにあの作業員の待遇はなんだ。あれでは先に、人がやられてしまうよ。集中してボルトの一本締めることだっておろそかに出来ないという時に。あいつらは、人の代わりは何ぼでもいると思ってやがる。そんな考えだから、こんな事故を起こして、人々をこんな目に巻き込んでしまうんだ。人の命を何とも思ってやしない。こんな酷い事があっても昨日の体質は、今日すぐには直らない。あの9年前の体質のまんまだ。お前の方がよっぽどましだ。中途半端な奴が、やっと心に革命を起こしたというのに、あいつらと来たら…、あいつらだけじゃない、俺だって何年も原発で仕事をしてきたんだから…》


 康之は酔い潰れて寝てしまった。初めて見る父の酔った姿だった。俊介は毛布を取り出して康之の背中にそっと掛けた。


***

(4)

 あくる日、康之は休みだったが、俊介は仕事だった。作業が違うと出勤時間も違うので、軽自動車を一台買い足した。避難区域の無人の街を走るのは何とも悲しい。瓦礫の町を走るときは、あの下に手つかずの遺体があるかと思うと胸が痛んだ。俊介の見慣れた町はもうない。これが原発までの通勤の毎日の風景であった。


 昼食は免震棟内で取る。ここはスタッフの仕事場であり、打ち合わせや会議が行われる。夜には東電社員や作業員の宿舎にもなっている。五郎の分の弁当を今日は作ってきてやった。隣に座った五郎が小声で俊介に話しかけて来た。《お前の親父は元何とかかい?凄い度胸の人だね。俺もあちらこちらの原発を渡り歩いてきたけど、あんな人は始めてだ。仕事も出来る。仕事の出来る人は何処でも人数は少ないがいるもんだ。でも、東電の偉いさんに下請けの身分で食って掛かった人はじめてだ。お前の親父の言い分はこうだ。「作業員の待遇がなってない。これでは、人が先に潰れてしまう。長期戦なのだから、続けられる環境を整えるように。でないと今度は本当に、人が起こす人災になるぞ」。「上の者に伝えておく」とその人が答えると、「あんたは、上のほうの人じゃないんかね。俺は今、あんたの考えを聞きたいんだ」と、お前の親父は言ったよ。あれは「や」のケがある奴の言い方だ。俺は聞いていて気持ちがスーとしたよ。俺が言っても値打ちがないが、お前の親父は仕事も、人間としても一級だ。俺はいい人の下についたもんだと感謝している》

弁当の礼を言って、五郎は作業に戻って行った。


 敷地内の瓦礫の片付けもようやく目処がつきだした頃、次の作業を康之に聞くと、「先は長い、ひとまず休め。気になる人もあるだろう。会える人とは会っておくんだな。いつ死んでもいいようにな!」と笑った。康之が笑った顔を見るのは本当に久しぶりだった。何か起こらねばいいがとさえ思われた。

 

 俊介は休みを利用して浪江の避難所回りをした。福島まで出かけ安い老眼鏡を沢山買った。これをお年寄りに配ったら喜ばれたと、神戸の震災の本か何かに書いてあるのをまねたのだ。これなら、俊介の財布でもなんとかなる。30キロ圏にほぼ入ている浪江町の役場は二本松市庁舎内に仮役場を作って移り、住民は、福島県や近県に分散避難を余儀なくされていた。富岡町は、郡山市に役場を移し、住民は同市や埼玉県杉戸市に、大熊町は、田村市から会津若松市に住民とともに、双葉町は川俣町、そしてさいたま市そして又埼玉の加須市に住民1万4千人と共に移っていくという、まさに漂流する自治体と避難民であった。役場移転の8町村では住民の4割が所在をつかめない状態で、浪江町では6割の1万2千人と連絡がつかない有様であった。復興の声さえ空しく響く住民の離散ぶりである。仮に、原発が落ち着きを取り戻しても、人々は帰って来るのか。人の帰らない町がどうして復興できるのか。町や地域が音も立てず崩壊していくのではないかと俊介は案じた。


***

(5) 

 国は4月22日、30キロ圏以外に、あらたに計画的避難地域と、緊急時避難準備地域を設定し、20キロ圏内を立ち入り禁止の警戒区域とし、違反するものに罰則規定を設けた。計画的避難区域とは年間の積算量が20ミリ・シーベルトに達する恐れのある地域で、飯館村、浪江町、葛尾村の全域、川俣町、南相馬市の一部が指定され、1ヶ月以内の避難が言われた。他のところは30キロ圏内にかかる所であり、自主的避難も進んでいたが、飯館村は全く新たな避難指定で人口6千人は新たな課題に当惑した。今までも、米の作付け制限、野菜や牛乳の出荷制限と、当惑する事の連続であったが、まだ村には住めた。2千頭の牛はどうするのか、村の主力産業である、畜産と農業は壊滅的打撃を受けるのは避けられない。集団で避難していく先すら今はあてもないのだ。


 浪江町の30キロ圏外にあった俊介の家も、今回の指定で避難しなければならなくなった。説明にやってきた、地区長と康之の間でこんな面白いやり取りが交わされた。放射能の年間積算量が20ミリ・シーベルトを越す恐れのあるところが指定されたからと説明する地区長に対して康之はこう答えた。

「俺が働いている職場原発では、年間250ミリ・シーベルトまで許されている。20ミリで避難していたら、職場で働けなくなるんじゃないか。ここが250ミリを越すようなら避難するよ。それとも職場の基準を20ミリに下げてもらおうか。それまでは、この家から原発に通うよ。もし文句があるなら、政府の官房長官でも来てもらってこの矛盾を解るように説明してもらおうじゃないか」

「わかった!今、ここでの農作業も乳搾りも、緊急作業ということにして貰えれば避難しなくってもいいってわけだ。町長にそう言ってやんべぇ」と地区長は応じた。そして康之は居座った。


 二本松市にある浪江町役場に行って、集団で避難している主だった避難所を教えてもらい、真田真知子の名前を求めて、分散した避難所を俊介は巡った。群馬県の避難所に漁と民宿をやっていた人がいると聞いて、俊介は、群馬県の避難所に駆けつけた。そこには真知子の両親が避難していた。両親は、訪ねた俊介の顔を見るなり、俊介の手を取って「よく来てくれた」と言ったなり、泣き臥せってしまった。


 暫くして、親父さんの方が涙を手で拭いながら、

《あんたと一緒になるとばかり思っていたよ。あんたが東京に行ってしまってからの真知子の落ち込みようは、辛かったね。明るいテキパキしたあの子が別人みたいになってしまって、「真知子さんはどうかしたかね」と、馴染のお客さんにも聞かれる始末で。こればっかりは親の俺達でもどうもしてやれねぇ。そんな時、漁師仲間の若い奴で、真知子の亭主になった男だが、俺の家によくやってくるようになって、こいつが又、賑やかな奴で、真知子をよく笑わせやがった。いつしか真知子にも笑顔が戻り、あんたがいなくなって2年もした頃に、祝言を挙げて、二人仲良く頑張ってくれて、次は孫の顔が見れたらと、こいつともそんな話をしていたのが、この津波だ。あそこは、手近かな所に高台なんてありゃしない。地震の大きな揺れで、これはてっきり津波が来ると思ったよ。その日はあいにくなのか、幸運なのか客もなく皆のんびりしていたのさ。車で4人、避難指定の場所まで逃げて助かったと思ったさ。真知子が『お客の名簿を』忘れたと言って、「いいじゃないか」と俺は言ったのだが、家が流されても、あの名簿さえあれば民宿は再建できると、亭主が一人で行くというのを一緒に行くといってな、未だ時間があるから大丈夫と、それっきりだよ。俺がもっと強く止めればよかったんだ。若い者が死んで、年寄りが生き残って、なんてこったぁ…》と一気に喋って、又、はらはらと涙を落とした。俊介は2回ほど真知子の家に呼ばれ、楽しい酒を酌み交わした。漁師の親父さんは客が来たのを喜ぶ人で、飲めば楽しい酒で、自慢の大漁節が出るのであったが、そんな面影は、今はなく、老いが目立った姿は痛々しかった。


***

 (6)

 もう一人、市ノ瀬真一を探した。こちらは町会議員をやっていたので直ぐに分かった。大熊町の避難先、会津若松の避難所を訪ねた。市ノ瀬はそこで避難者の世話活動を元気にしていた。俊介を覚えていてくれて、皆に「俺を、議員にしてくれた恩人だ」とオーバーに紹介されたので、俊介は困ってしまった。相変わらずだと思った。

「家は流されたが、妻は流されなかったよ。あいつは家より重いらしい」と冗談を言って、家族の無事を伝えた。父のように、東電や原発の悪口が出るものと思っていたが、二人になったとき、市ノ瀬は、突然泣き出してこう言った。

「こんな事になってしまって、自分が情けない。糾弾し、摘発をし、批判しても何にもならなかった。この町の町会議員になったけど、町も、町の人も守れなかった。俺は避難が解かれたら議員を辞めるつもりだ」


 俊介が原発で今、父と一緒に働いていると言ったら、俊介の手を取って「頑張ってくれよ。頼むよ」と言って、喜んでくれた。感激屋なところは相変わらずだった。

知らないだろうと思ったが、原八先生の消息を聞いてみた。「ああ、あの先生な。原子力工学の先生だろう。何回か、地元民の集会に来て貰って講演をお願いしたよ。高校の先生が悪いとは言わないが、あんな人を原子力の世界から排除するんだね。やっぱり、この国は間違っているよ。あの先生は消息不明だ。奥さんは今回の津波では無事だったらしいが、どこにいられるのか…」と、市ノ瀬議員はしょんぼりと語った。

 あと2、3の陸上部の友人は、家は流された者もいたが、いずれも無事で、復旧に向けての活動を開始していた。それと何よりだったのは、二本松の避難所で、思わぬ人に出会ったのだ。俊介を見て、二人が向こうから手を振った。看護服を着ていたのは、源三と、綾子であった。源三は病院からの派遣隊。「滞在期間は3ヶ月」と言ったので、「最初の派遣が得意の英語が使えないで残念だね」と俊介は云ってやった。

「俺は3ヶ月だけど、綾子は辞めてきたんだ。今は、二本松市の保健婦だ。隣町の住民だから、よろしくね」

「それって、私の挨拶じゃないの。来たわよ!私も旅立ちしちゃった。ここで住む」と、綾子は俊介の目を見つめて言った。


 避難所を回っていて、悲しい話も聞くけれど、人々のくじけない顔、特に、被災の中でも明るい子供達を見ていると、何としても町をもう一度作らなくては、その為にはあの暴れ馬、原発を静めなければと改めて俊介は思い、そしてこの浜通りの町から原発を1基もなくすことだと思った。10基、よくも並んだものだ。津波で亡くなった人達の魂の鎮魂のためにも・・頑張らねば、でないと何のための原発災害だったのかと、後世の人達に笑われるだろう。その先頭に福島は立つべきではないか!ならば「俺はどうする?」。

「先は長い」と言った父の言葉の意味が、今、俊介には良く理解出来るのであった。



第2章  了

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