第5話 1章(東京編)-4 母

俊介が敏江を病院に見舞ったとき、死期を察したのだろうか、「一度お前は、私に『あんな面白可笑しくもない男と何故結婚したのか?』と訊いたことがあったよね」と前置きをして、めったに喋らない夫婦間の事、一緒になった経緯を話した。


「私は中学校を出て直ぐ、福島の浪江から工場に女工として入ったの。部品を油で洗浄する仕事で、匂いはきついし、身体は汚れるし、中腰はきついし、慣れるまでは大変だった。お父さんは工業高校を出て、その会社で2年目の新米工だった。従業員は全部で50人位の町工場で、敷地内に寮があって、お父さんも寮を共にしていたの。1階が男子寮で2階が女子寮だった。

1年が過ぎ、連休には実家に必ず帰ろうと思っていたのに、寮の当番を先輩から押し付けられて、しょんぼりしていた私に、お父さんが声をかけてくれたのが二人の付き合いの始まりだったわ。寮は日曜日には食事がなく、一緒の外食がデートがわりね。職場の同僚に分からないように、一駅おいたところで待ち合わせたり、苦労したわ」。敏江は昔を思い出してか、表情は楽しそうであった。


手元にあった水で一息入れて、話を続けた。

「入って5年、私は21才になっていた。お父さんは25才、勉強家で、難しい電気の資格も取り、若手の技術者として信頼を得ていたわ。大口の急ぎの仕事が入って残業の連続で、いよいよ明日の生産で完納だというときに、ある工員さんの操作ミスで電源盤が故障して生産ラインが止まったの、その日、お父さんはその工員さんと一緒に徹夜で故障を直し、ラインを復旧したの。社員は勿論、社長の信頼は絶大なものとなったわ。

でも、私はあまり嬉しくなかった。社長には一人娘さんがいて、綺麗な人で、工場の若い男達で憧れないものはいないぐらいだった。心配は当たったの。案の定、婿養子になって将来会社を継いで欲しいという話が社長からされたみたい。お嬢さんも、復旧の件以来、まんざらでもなくなったらしいの。こんなとき、社内の噂は、速く正確のものよ。お父さんとは結婚の約束はなかったけど、身体の関係はもう出来ていたわ。お父さんが何にも話さない以上、私も聞くわけにもいかない。いいえ、聞こうと思えば聞けたけど答えを聞くのが怖かった。口に出せば全てが終わるような気がして。結婚はいよいよダメと諦めようとしたとき、お父さんが社長さんの話を断ったという話を聞いたの。それでも、お父さんは私に、何も言わなかった。社長の態度は急変したわ。いづらくなったお父さんは、「辞めようと思う。暫く職なしになるけど、一緒になってくれるか」と言ってくれたの。お母さんはどんなに嬉しかったか。お父さんは、あんたの言う通りだし、たまに手が出ることもあるけれど、わたしはいっこも辛くはなかった。あんたも、お父さんの良いとこを見てあげてね」


話し終えた敏江の目には、うっすらと滲むものがあった。俊介はいい話だとは思ったが、高校生で、まだ恋愛経験もない俊介には、実感を持って捉えることも、男女の機微を深い所で理解することも難しい事であった。それから、敏江は10日後に亡くなった。

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