第4話 1章(東京編)-3 父
俊介の父、康之は会津の農家の次男として生まれ、工業高校を出て東京の蒲田にある電気製作の工場で働いていた。そこで、同じく働く敏江と知り合って結婚した。敏江の母が亡くなり、父の面倒を見なければいけなくなり、地元の人の口利きで、康之は原発関連の下請け会社で仕事を得る事が出来、二人は浪江の町に帰って来た。そして、俊介を産んだ。
康之は東京の町工場に勤めながら、夜は勉強にいそしみ、独学で電険3種、2種と難しい電気の資格を取った。「お父さんは頑張り屋じゃ、俊介もその血を受け継いでいるから頑張らにゃ」が母のよくする言葉だった。俊介が生まれて3年もしたころ、祖父が脳溢血で亡くなり、母はあまり多くない田畑だが、その仕事を引き継いだ。
康之が休日に母を手伝おうとすると、「あんたは、ちゃんとお勤めの仕事があるから、休んでいて」と云って、手伝わさなかった。康之は仕事から帰ってきては原子力関係の本を勉強するようになり、その関係で必要な資格もとり、会社では技術屋として必要な人材となっていた。
だから、幼い頃、俊介は父に遊んで貰った覚えがあまりない。父親とキャッチボールをしたりする他所の子が羨ましかった。中学校の時だったか、下請けなのに、何でそんなに勉強しなければならないか聞いたことがある。
「下請けでも、職場は原子力発電所で、触るのは原子炉や。一つ間違ったら、自分の命だけではすまん」というのが康之の意見だった。
中学校の時だか、母に「何で、あんな面白くも可笑しくもない男と結婚したのか?」と俊介が聞いた事がある。机に向かっている父か、台所でタバコをくわえ、苦虫を噛み潰した顔をしている父の姿しか、俊介には記憶がなかったからである。
「なんでやろぅね。あれでも、お父さんは結構面白いとこがあるのよ。何より勉強家じゃし、私は勉強でけんかったから、勉強する人が好き」と母は笑った。 夫婦には夫婦にしか分からない事があるらしいと俊介は思った。
それでも、春には弁当を持って花見をし、秋には近場の温泉に一泊で行った。こんなとき、母はこれ以上嬉しいことはないという顔をしていたが、康之は相変わらず家にいるときと同じ顔をしていた。
はるか向こうの家角を曲がって、芥子粒ほどの人影が二つ現れた。やがて、近づいて、その姿をはっきり見せた。その一人が康之であった。母はあらん限りの大声で
康之が晴れやかに笑った顔をした事が一度ある。それは、町内のマラソン大会のことだった。ゴールのテープの付近でトップランナーは誰かと、人々が今か今かと待っている。母に手を繋がれた幼い俊介もその中にいた。「あんた、頑張って!」と声援を送った。俊介も母の手を離し、両手を握り締め声援を送った。康之がテープを切ったとき、母は人目もはばからず、父に抱きついた。康之は、そのとき、これ以上はない晴れやかな笑顔を見せ、その笑顔で俊介を見た。
俊介が高校1年のとき母、敏江が亡くなった。めったに病気をしない敏江が腹痛を訴え入院した、盲腸かと思ったが、胃癌で、すでに手遅れで1ヵ月後に亡くなったのである。
「あまり苦しまなかったのが救いだった」と康之は言ったが、涙は見せなかった。苦虫を噛み潰した顔がさらに気難しくなり、怒りっぽくなった。一緒に暮らしているのに、必要最低限度の言葉しか発しない。お互いこんな雰囲気では冗談も言えなかった。母のいるときは、学校のことや、父の悪口も含めて冗談を言えた。女がいない男だけの家というのは、殺風景で寒々しいもので、家には女がいる、妹でもいたら良かったのにと俊介は思った。
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