第4話 先遣隊④
自らが何をすべきか。
ディックもまたキースと同様、想いに揺れていた。
ディックは冒険者時代、難度Bモンスターとも対峙してきた。
それは無茶に無茶を重ねたようなものであり、元Bランク冒険者という肩書も、奇跡の賜物とでも言うべきものだった。
それでも、ディックが苦難を乗り越えいまもまだ生きているという事実には変わりがない。
ディックが騎士になってから相対してきたモンスターは、難度Cまでである。
故に、自身の勘が鈍っている可能性もある。あるいは、年をとって力が衰えてきているのかもしれない。
しかしながら、経験に裏打ちされたディックの勘は今をもって過去最大の警鐘を鳴らしていた。
――逃走する以外に生き延びる道はない。
「ぎゃああぁぁぁ!!」
なのに、そいつはやって来た。
後方から届く仲間の絶叫。もう先ほどまでの荒々しさは感じられない。が、代わりに刺すような殺気が背に向けられているのを感じる。
こちらは全力で駆けているというのに、恐ろしいことに怪物の足音は聞こえなかった。淡々と、断続的に仲間の断末魔が響く。
(逃げることすらままならないのかよ)
「ちっ、このままじゃ追いつかれるぞ!」
ディックの声に反応できるほど余裕のある者はいなかった。
ちらと顔を振り向けると、皆歯を食いしばりながら、前に進むことに専念している。恐怖を押し込め塗り固められたような表情からは絶望が色濃く浮かんでいた。が、それでもまだ生還を諦めている者はいなかった。
(これなら大丈夫。何とかなるはずだ)
今にも切れてしまいそうなほどに細い希望の糸を確認したディックは、前に向き直ろうとした。しかしその時、遠目に一人、落馬した者を見た。あっ、と思うと同時、そのすぐ傍に黒い怪物が現れる。凶悪な爪が降ろされ、鮮血が散る。怪物が僅か、朱に染まる。
怪物は音もなく、するりするりと駆けてきていた。
そこまでを嫌に冷静な頭で見て、ディックは総毛立った。
知らない方が幸せであったことに気がついてしまった。
今見た怪物は、真っ黒だった。
血の一滴すら付いていないようだった。
それが意味することはなにか…………。
――アイツは、最後の一体じゃない。まだいる。怪物は複数体、いる。冷徹な審判の目からは、逃れられない。
ディックが思考して直後、後方から次々に断末魔が上がった。
「どういうことだ!」
速度を維持するため必死に前だけを見続けながらキースが誰にともなく声を上げた。振り返りたい衝動を抑えているように見えた。
ディックは、今こそ冷静な対応が必要だと感じた。
(まず、生き延びるには逃げるしかない。これはもう、明確な事実だ。なら、このままの速度で逃げ切れるか? 当然、無理だろう。死の気配は近づいてきている。最後に、俺は、仲間を見殺しにできるか?)
ディックは自身に問いかけた。
(さっきは、できた。第五班の連中を、俺が殺した。そうだ……。なら、大丈夫だ)
結論を導き出し、少し前を駆けるキースを眺める。そして、彼は軽く手綱を操り、自身の馬の脚を止めた。
「ディック曹長!?」
自らを追い抜いていく仲間の声を無視して、馬から降りる。
その仲間の数が少なすぎる。後続はほとんどやられてしまったのか…………。
胸中にやるせなさが溢れかえる。
しかし、すべてを諦めるには早いはずだ。ディックは自身に言い聞かせた。
ディックが背を軽く叩くと、賢い愛馬は皆に遅れないよう駆け出して行った。その背中を見送ると、またすぐに弱気の虫がディックを襲う。
強さに満ち溢れた雄々しい姿。
自らの理想の姿を想像して、その通りに立ってみる。
大きな深呼吸を一つする。
(皆を見殺しにした。ああ、十分だ。俺が命を懸ける理由には、十分すぎる)
麻痺しているのか、境地に至ってしまったのか、それだけで不思議と心は落ち着いた。静かな湖面のように、冴え冴えとしている。
(なんだ、絶好調じゃないか)
矢を
(最初より増えてんじゃねぇか)
ディックは悪態を吐きながらも、
怪物を敵とみなせていた。
そうして、矢筒が空になるまで、淡々と矢を放った。次々と木に突き刺さる矢は、ぼうっと火の粉を散らし、炎はちりちりと徐々に大きくなっていく。向かい風はない。
ごうごうと木々が燃える様子を確認して、ディックは手ごろな木によじ登った。
これで足止めできる時間など、たかが知れている。だがこれは、敵を討つためには必要な一手であった。
ディックの狙いは、敵を分散させること。
一度に十を相手取ることはできないが、五までなら何とかなる。敵が炎を避ければ、半々ぐらいにはなるはずだ。そうしたらあとは、五体ずつ殺るだけ。
冷静に、彼はそう判断していた。
(問題ない。勝機はある)
――ボンッ。
突如、ディックの周囲に五つの火球が現れる。
ふよふよと浮かぶ火球の大きさはおよそ直径三十センチ。
ディックは、元Bランク冒険者。キースも信頼する凄腕の弓使い。
しかし、キースすら知らないことがあった。それは、ディックも実戦に足る魔法を扱えるということ。
別に、隠していたわけではない。ただ、騎士になってから使う機会がなかっただけのこと。
幼い頃から冒険者として日々を過ごしてきた彼は、魔法学校に通ったことは一度としてなかったが、魔法の才があった。彼は豪胆さを気に入られ、とある先輩冒険者の教えを受けた。
結果として、正式に魔法使いと名乗ることの許されない『
――火の
右からか、左からか。
息を殺しながら、どちらから来てもいいように油断なく身構える。
だが――
「……おいおい、そりゃあねえぜ…………」
ディックと水平に目の合う、高さ五メートル地点。怪物が、巨大化している。
呆けてしまっていたディックは慌てて我を取り戻し、火球が霧散してしまっていることに気がついた。
激しい焦燥を覚えながらもありったけの
そうして、新たに一つの巨大な火球が生み出された。メラメラと燃える火色の球は、小さき太陽。
――火の
「そんなもん、ただの的なんだよぉぉぉおおおおぉぉっ!」
しかし、火球は容易く払われる。あらぬ方向へ弾かれた火球は、轟音を響かせながら木をなぎ倒した。
ディックは、怪物の影が自身と重なるのを見て、日が昇り始めたことを知った。
それは諦観のものか。フッと短い笑みが零れる。
怪物の巨大な前足が振り下ろされ、太い枝は抵抗を感じさせることもなく折れた。
ベチャ。
彼は、果実のように潰れて死んだ。
*****
キースは、前を向いてひたすらに馬を走らせていた。
決して振り返ってはならない。先頭にいる自分が止まってしまえば、皆が止まる。そうなれば、結末は見えている。
何となく、ディックの気配が消えていることも理解していた。彼の足止めを無駄にするわけにはいかなかった。
そうしてしばらく、キースは遂に麓まで辿り着いた。馬もろとも、疲弊しきっていた。そこで初めて後ろを向き――。
「…………たった、三人か……」
今にも倒れそうな隊員三人を見回し、キースは呟いた。
「帰ろう」
どうにも現実感が湧かなかった。日常と何ら変わりない暖かな日の匂いが嘘のように感じられた。いつの間にか照っていた光が目に入り、キースは顔を
全身を包む空気が、枝葉で負った小さな傷に強く染みるようであった。
*****
キースたち、ユニオン連邦国オーリン駐屯兵団騎兵隊第二小隊が怪物からの逃走を試みている時。
連邦国のものとは異なる甲冑を身に
つい先ほど起きたと思われる惨状を見て、馬上の兵士の多くは顔を痛ましげに歪めた。
帆馬車の御者台に乗る男が、一番に地に降りた。
「閣下! 危険です! いの一番に動かないでください!」
その男にかけられたのであろう痛切な想いの込められた声は、あっさりと無視された。男はかくしゃくとした足取りで意気揚々と、息絶えた死体の元へ歩んでいく。
そんな男の様子を見る兵士たちの顔には、皆一様に諦観の色が浮かんでいた。
男は歩きながら手袋をはめ、三人分の肉塊が転がる場所で止まった。膝を折り、ひしゃげた鎧にべったりと着いた血を拭う。
「連邦国の奴らだな」
鎧の紋章を見て、男は断じた。
「にしても、
言葉の割に、彼は特に顔を顰めるでもなく、寧ろ、好奇に相好を崩した。
男はまるで観光地を巡るかのように、さらにずんずんと歩みを進めた。
もはやその歩みを止める者はいない。
「ん? 何だなんだ?」
一層声を弾ませて男が寄ったのは、全身がぺしゃんこに押しつぶされた連邦国兵士の死体。それを、
「こりゃあ面白い。こいつは、相当デカいのにやられてるな。さっきのとは違う」
「……あの、どういたしますか…………?」
男の接待役を仰せつかった不幸な者がおずおずと尋ねる。
「とりあえず、持ち帰れるだけ持ち帰るさ」
男の名は、ミライル・クリッゾ。
スアニージ王国の伯爵位に就く、大貴族。そして、魔法・モンスター研究の第一人者である。
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