第18話 あとがき

 大学時代という、精神的に最も大切な時期、体育会で若き精神の最後の仕上げを受けた者にとって、四年間をすごしたクラブの思い出とは、目に見えない魂の聖地とでも呼ぶべき貴重な場所です。かつて自分の過ごした部室や道場が跡形もなく消えてしまったいま、その思い出だけが魂のよりどころとなっています。

 本書は三十年前の東洋大学在学中における、日本拳法部での個人的な思い出を中心に書き綴った私的な文集であり、現在の東洋大学日本拳法部・東洋大学日本拳法部OB会の意志や考えは一切反映されておりません。本書の内容に関するすべての責任は私個人にあります。登場する人物たちの言動は、私の記憶の中での事実であり、テープやビデオ、写真や文章によって記録された事実ではありません。私の記憶違い、一方的な思い込みということもあります。その辺りをご斟酌下さい。


 文明とは技術力のことであり、文化は心の成熟度であるとするならば、私たちは単なる知識として日本の文化を学んだのではなく、殴り合いによって日本文化の根底にあるものを体験したということを、大いに誇りにすべきではないでしょうか。

 茶道というものが、厳格な作法に則った流れ・手順に成りきることで精神的な真理(心)の道を究めるいう日本文化そのものであるように、日本拳法もまた、手加減せずに殴るという、一歩間違えば大怪我をするカミソリ一枚の危うさのなか、絶対にこれしかないという、人(敵と自分)の心の真実を追求するという点で、日本人の「戦いの文化」といえるにちがいない。

 神と人間を別物と考えず、神との一体化、自己同一化を目指す。これこそが日本文化の源泉たる独自の思想であり、この「神」こそ、数万年の昔から日本列島に生まれ、島国という純粋培養器の中で繰り返された日本人だけの、時間と空間の歴史そのものなのです。

 殴り合いの中から生まれる戦いの心。この強烈な原始本能こそが、遥か遠い過去の記憶を呼び起こしてくれる。私たちの「心のDNA」のなかに眠る原始日本人の感性は、愛や慈悲よりも、むしろ殴り合いという(心の)相互作用の中でこそ、思い出すことができるのではないか。

 とはいえ、それはケンカのようなただの殴り合いではない。日本拳法における殴り合いとは、対人関係の中で「場と間合いとタイミング」を追求することにほかならない。しかも、その場その時そのリズム、絶対にこれしかないという究極の選択を頭で行うのではなく、それに「成りきる」ことで、私たちの心は、一瞬とはいえ本当に正しいものと一体化した。


 茶道も日本拳法も、時間と空間のなかで演じる真剣勝負という厳粛な「踊り」でありながら、強烈な闘争心と自由闊達な精神がメビウスの輪のように絡み合い、そこに日本的な「遊び」が生まれる。これこそが、江戸の俳句や浮世絵、明治の文学、そして、現代のアニメに連なる日本人の文学的感性(創造性)というものなのだろう。

 大学生活4年間、私たちは、ポカスカ殴り合うアホな踊りをやっていたわけですが、気がつけば、けっこう貴重な体験をさせてもらっていたわけであり、狂気の中に真実を見ていたのかもしれません。


( かつて、ある大学の日本拳法部の一年生は、幹部やOBに対し「押忍」「押忍ごっつぁんです」「押忍失礼します」の三語しか、話すことが許されなかった。

 この極限の制約、締めつけのなかで自分の心の置き所を見出すというのは、茶道における厳しい作法による精神修養に比べ、決して劣ることのない精神の鍛練であった。傍から見ればバカバカしい、痛々しい愚行のなかで、かれらなりの学びをしていたのではなかったか。)

  

 二〇一〇年(平成二十二年) 八月吉日

 平栗雅人

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思い出は一瞬のうちに V21.05 最終版 2020年 7月15日 (2010年8月23日V1.1) @MasatoHiraguri

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