第16話「四酔人経綸問答 東洋大学体育会OB 覆面座談会」

 東洋大学白山校舎の中心、かつての五号館の入り口に掲げられた四聖人(釈迦・キリスト・孔子・ソクラテス)の像には、「真理の探究」という東洋大学の精神が込められていた(真理とはたったひとつであるが、ここには四つの真理がある。大学四年間でこの意味を体得せよ)。


 釈迦は世渡り上手。決して権力者に楯突くようなことは言わなかった。民衆の望まない真実を語ろうとはしなかった。

 キリストは真実を追求する頑固者。相手が王様でも民衆でも、真理・真実をずばずば言ったため、権力者からも、そして最後には民衆や弟子からも嫌われた。

 孔子は釈迦に近い。やんわりと権力者へ痛言しながらも、権力者と大衆の支持を得て寿命を全うした。

 ソクラテスはキリストに近い。自分の信念・真理の言葉を引っ込めることなく、国家反逆罪として死刑を宣告され、毒杯を仰いだ。キリストと違い、彼の弟子たちは最後までソクラテスを支持した。


 四人ともこの世の真実を追求する人間であったが、「人の生きざま・死にざま」としてはそれぞれ異なる。

 いずれにしても、いくら天に誓って正しいことを主張しても、その場その時そこで生活する人々に気に入られなければ、人も言葉も抹殺されてしまうというのが、最大の真理であるようだ。

 ここで四人の東洋大学体育会出身者が語る真実も、それだけでは真実にはなれない。彼らの言葉を受け止める人が、どこまでそれを現実にできるのか、にすべてはかかっているのだから。


 座談会でのConclusion(結論)

 1.東洋大学日本拳法部OB会への期待

 ①東洋大学本体とのコミュニケーションを円滑にする

 大学の宣伝という点からいえば、日本拳法部は他の運動部に比べて遜色ない活動をしている。それを大学当局に理解してもらうべきだ。


 ②東洋大学スポーツ新聞への記事掲載

 2005年以来、東洋大学体育会の活動が新聞形式で、ネットで発信されている。

 少林寺拳法部やボディビル部といった日本拳法部よりも後発のクラブまでが、様々な機会あるごとに、その結果を新聞に掲載している。単なる入賞とかでも記事になっている。

 ところが、日本拳法の記事はこれまでゼロである。

 無料の宣伝媒体を使わないのはもったいない、というだけではなく、学生のモチベーションという観点からも、もっと積極的にこういうツールを使用すべきだろう。


 ③OB会を学生の学びの場に

「OB会という組織なくして大学日本拳法は成り立たない」のは事実だ。

 しかし、OBの智恵と学生のエネルギーがうまく合体し干渉し合うことで、大きな成果を上げている大学が多いことも、また事実。東洋大学日本拳法部は、この「兼ね合い」をもっとうまく調整すべきだろう。

 OB会員の管理・金の管理・様々な情報発信を学生にやらせてみる。人を殴る場だけでなく、そういう学びの場も提供してあげるべきです。OBは社会人としての見識で、彼らの相談相手になってあげればよい。

 OB会としての責任は私たちOBが取るので、あなたたち学生の好きなように運営してみてください。大学当局との交渉も、パソコンで情報発信することも、 OBが魅力を感じてくれるような日本拳法部にすることも、すべてあなたたちの工夫、パソコンで情報発信することも、 OBが魅力を感じてくれるような日本拳法部にすることも、すべてあなたたちの工夫でやってみてください、と言えるような仕組みを作ってはどうか。

 偏差値で他の大学に負けても、クラブ活動やOB会の運営という面で自主的に勉強することでなにかを身につければ、それは卒業後に大きな武器となる。そして、そういうOBがどんどん増えれば、もっと面白い東洋大学日本拳法部になるだろう。


「今までのあなたの映画で、最高の映画はどれですか?」という問いに対し、チャップリンは答えました。「Next One (次を見てくれ)」と。あの天才にして、最高のものなどないと言っている。彼はプロでしたが、アマチュア・スポーツマンとして大切な精神を教えてくれています。

 いま目の前にいる学生の中から、東洋大学の売り物である「質実剛健」という精神を体現した「明日の最高」を生み出してほしいと願っています。



 <覆面座談会>からの抜粋

 A「どこでもある問題は、指導者たちが指導するふりをしたがることだ。監督だのコーチだのという肩書に縛られて、なんか言わなきゃいけないような気持ちになって余計なアドバイスをする。アドバイス自体は間違っていない。しかし、大切なことは学生たちが自分の頭で考えて行動することなんだ。昭和五十五年のリーグ戦で、我々現役にとって幸いだったのは、立教と並び優勝候補筆頭であった前年に比べ、我々に対する周囲の期待がきわめて希薄だった、ということだ。期待が無い反面、2部落ちの恐怖があった。その意味で、我々は狼のいる原野に放っぽり出された羊の群れみたいだった。ところが、そのおかげで一人一人が自分で自分の戦いを演出することができた。もちろん、結果が良かったからそう言えるのかもしれない。しかし、とにかくあの時、全員が自分の頭で考え行動したのは事実なんだ。」


 A「私たち四年生はオフィサー(将官)であり試合経験があるから、自分の能力を行使できるのは当然だ。しかし、一兵卒で試合経験のない二年・三年生が、練習の時以上の能力を試合場で発揮したというのは、こと東洋においては画期的な出来事だった。彼ら下級生はキャプテン中村のように、審判をにらみつけるような図々しいタイプの人間じゃない。皆、シャイでおとなしいやつらだ。その彼らが、あの決勝リーグという試合会場の興奮の中で、クールに自己主張したんだ。」

 A「日本海海戦における日本の勝因は、昼間の旗艦三笠を中心とする、巨大戦艦同士の戦いではなく、夜間に行われた小型船舶(魚雷艇)の常識破りの肉薄攻撃による掃討戦であった、というのが現在の評価らしいのだが、まさにそれだ。

 通常、魚雷というものは二千メートルくらいの距離から発射する。そうでないと、魚雷艇などという防御のない船は敵艦の艦砲射撃で簡単に沈められてしまうからだ。ところが、日本の魚雷艇は八百メートルくらいまで近づいて発射した。

 これは「特攻」と同じで自殺行為ともいえる。しかし、そのためにほとんどの魚雷が敵艦に命中した。だから、一夜にしてほぼすべてのロシアの船が撃沈されてしまったということだ。」

 A「四年生四人は、攻撃の仕方も防御の仕方も攻め方も逃げ方も知っている。しかし、兵隊である三人は、ただ前に出るという一枚板しかない魚雷艇だ。その彼らが、自分たちができるギリギリのところまで踏み込んで戦った。四年でさえ、公式戦になれば、普段の半分くらいしか能力を発揮できないことがあるのに、彼らは百パーセントを超えるところまで、自分の持ち味を発揮した。注目しなければならないのは、そんなことを誰も教えていない、ということだ。拳法の技術は教えた。だが、敵に肉薄する勇気と、ギリギリのところで粘る根性は彼ら独自の、自発的なものだ。」

 D「優勝だとか勝ち星ばかりでなく、そういう精神的な部分も評価しないとな。」

 A「私は、四年生冥利に尽きる。試合に出た下級生も立派だったし、練習や試合を陰で支えた後輩たちも、みな自分の持ち場を懸命に機能させた。一年から四年まで、全員がやる気になって伸び伸びとやれた。そして、あの一体感こそが、私にとって優勝以上の最高の思い出だ。」

 C「でも、そういうやる気というか根性みたいなものは、教科書として書いて残せないから、伝統にしづらいです

 よね。」

 A「強い大学はそれをやってるんだよ。ソフトウェアの蓄積ができるから伝統校になれるんだ。」



 2.これからの日本拳法

 ① 東洋大学日本拳法部

 とにかく、現在のクラブの明るい雰囲気を維持すること。

 リベラルな雰囲気を伝統にできるよう、さらに発展・追求していくことが大切だ。部が若々しい明るいムードであれば、部員も毎年入ってくる。部員の数さえ揃えば、「イケイケムード」で何とかなる。当面は、プロみたいな大学に勝とうと思わず、試合を楽しむ気持ちでやれば、結果もそれなりについてくる。

 関東の日本拳法の雄C大学が強いのは、彼らが数学的な手法で戦いをとらえているからだ。単にスポーツ選抜云々が理由ではない。しかし、東洋は東洋のやり方で戦えばいいのだ。

「強制的な指導・しごき」なるものを、全面的に否定しない。成長の過程で、非論理的で非民主的なるもの(竹の節)が必要なときはある。苦しい練習を甘い言葉だけで引っ張っていくことはできないからだ。そして、強圧的と自主性、この二つの矛盾する力をどうコントロールするかが、各大学のOB・現役(幹部)のマネジメント力の違いとなる。



 ② 大学日本拳法

「博奕の道は厳謹を貴ぶ。高き者は腹に在り、下( ひく) き者は辺に在り、中なる者は角に在り。此れ棋家の常法なり。寧ろ一子を輸( ま) くるも、一先を失わざれ。」


「左を撃たんとすれば則ち右を視、後ろを攻めんとすれば則ち前を瞻( み) る。先んじて後るる有り、後れて先んずる有り。両つながら活けるは断つなかれ。皆活けるは連なるなかれ。闊( ひろ)きも太だ疎なるべからず。密なるも太だ促( せま) るべからず。其の子を恋( した) いて以て生を求めんよりは、之を棄てて勝ちを取るに若かず。其の事無くして独り行かんよりは、之を固めて自ら補わんに若かず。彼衆( おお) くして我寡( すくな) くば、先ずその生を謀り、我衆くして彼寡くば、勤めてその勢いを張る。」


「善く勝つ者は争わず、善く陣する者は戦わず、善く戦う者は敗れず、善く敗るる者は乱れず。夫れ棋は、始めは正を以て合し、終わりは奇を以て勝つ。凡そ敵、事無くして自ら補う者は侵絶の意有り。小を棄てて救わざる者は大を謀るの心有り。手に随って下す者は無謀の人なり。思わずして応ずる者は敗けを取るの道なり。詩経に云う『惴惴たる小心( 小心とは中国語で、用心すること) 、谷に臨むが如し』とは此の謂なり」

「爛柯経」小野忍訳「西遊記」( 岩波文庫) より


「爛柯経」

「経」と言うも、仏教のお経のことではありません。昔は、あるまとまった文章・本のことを「経」と呼んだのです。

 中国人とは、その長い歴史による経験則により哲学が不要な民族ですが、この書はその彼らの歴史が最高潮に達した明代に書かれました。文学における「西遊記」と同じく、兵法における最も中国人らしい書ですが、中國4 千年の歴史の成果が、西洋哲学や日本の哲学とは異なる戦いの哲学(経験則) として、囲碁という抽象世界( ゲーム) に擬して、きわめて簡潔に述べられています。



 大学日本拳法

 一方、「大学日本拳法」とは、子供の発育を助けるためのスポーツや女性の護身術とは違います。殺し合いの道具・武器のひとつとしての自衛隊の格闘術でもない。

「爛柯経」に述べられた、中国人が4 千年かけてたどり着いた、或いは、宮本武蔵が60年の生涯をかけて追求した戦いの思想を4 年間で習得しようとするための道です。日本拳法という、この最も実践的・実戦的な武道と、哲学という「思考の武道」の助けを借りて、短期間でこれを体得しようとする、大学生ならではの教養課程ともなりうるものです。

 そして、武道・スポーツ・格闘技としてだけではなく、思想としてこれに親しんでおけば、大学を卒業してからでも、或いは日本拳法を見るだけであっても、その精神は心のなかに生き続ける。死ぬまで「日本拳法をやる」ことができるのです。

( 小野忍訳「西遊記」は第3巻までしかありませんが、この人の訳こそ、「西遊記」を単なる娯楽文学・怪奇談ではなく、偉大な文学として正確に日本語訳にしたものといえます。)



 ③ 世界の日本拳法

 外国人は、本気になると強い。外国人にとって日本拳法の歴史が浅いということは、その反面、日本に蔓延する「老害」というものがないということだ。組織が若々しいから、練習方法もどんどん革新的なやり方をしてくる。

 だから、「2010年5月に行われた第1回世界弓道大会で、優勝したのはフランス。日本は予選落ち」なんてことも日本拳法において、将来的に起こってくるかもしれない。

 いずれ、メキシコや南米各国が面白くなってくる。日本の柔術がブラジルで開化したように、日本拳法もブラジリアン柔術やメキシコのルチャドールとの出会いによって、武道としての日本拳法とは異なる「格闘技としての日本拳法」として、別の新しい発展をするだろう。

 日本拳法が世界に広まるのは嬉しいことだが、半導体・コンピューター産業のように、いつの間にか外国と立場が逆転している、ということにならないことを祈る。



 3.<付録 1 >

 江田島海軍兵学校 五省(The Five Reflections)

(英文は、米国アナポリス海軍兵学校に掲げられているもの)

 一、至誠に悖(もと)る勿(な)かりしか ( ピュアでストレートな心で、ものごとに取り組めたか)

(Hast thou not gone against sincer i t y?)


 一、言行に恥づる勿かりしか (言葉と行動で恥じることはなかったか)

(Hast thou not felt ashamed of thy words and deeds?)


 一、気力に缺(か)くる勿かりしか (ファイティング・スピリッツは十分だったか→よく敢闘したか)

(Hast t hou not l acked vi gour?)


 一、努力に憾(うら)み勿かりしか (努力・工夫にやり残したことはなかったか)

(Hast thou exerted all possible effort s?)


 一、不精に亘(わた)る勿かりしか (ものぐさをしなかったか)

(Hast thou not become slothful?)


 *** 良いことを言っているのですが、日本帝国海軍末期(昭和十年代)の教条主義であって、「リベラリズムと柔軟性を重んじた、草創期の帝国海軍の伝統になじまない」という、明治期に生きた海軍軍人の 批判もあったそうです。

 確かに、偉い人の言うことだからといってそれをそのまま鵜呑みにするのは、軍人のみならず私たち一般人にとっても、危険なことかもしれません。良いことをストレートに受け入れる素直な心は必要ですが、どんな真理でも一旦は疑ってかかるべきなのでしょう。

 素直さと疑り深さという矛盾を自己のなかで克服する。その内なる戦い(葛藤)こそが、日本拳法で体験できる貴重な学びとなるのです。***



 <付録 2 >

 題名を考えてみよう。

「三月二十四日の東都学生自馬競技会で、大障害飛び越しに優勝した農工大尾崎選手の乗馬「幸早号」は、芝浦ト殺場で馬肉にされる寸前を買い取られた馬齢もさだかでない農耕馬だった。という、楽しく心温まる話がある。

 かわいがる、無理をさせない、ケガをさせない、毎日乗るという、調教の四つのモットーと、学生たちの行きとどいた愛情と調教にこたえ、農耕馬から大障害飛び越しの優勝馬へと、みごとな成長を見せた幸早号に心から祝福を贈りたい。

 由緒正しいサラブレッドには、もちろん魅力がある、実力もある。芝浦ト殺場から百頭の馬を買いとって調教しても、第二の幸早号は出ないかもしれない。おそらく出ないだろう。

 にもかかわらず、無名の農耕馬から大障害飛び越しの能力を引き出したこの話は、一流大学とか、一流企業とか、はては一流幼稚園などという言葉に振り回されがちな昨今の風潮の中で、やはり、なかなかいい話だと思うのである。」

 昭和41年(1966年) 新聞の投書欄


 詳しくは、雑誌 “文藝春秋”昭和41年 7月号 「駄馬“幸早号”の栄冠」師岡輝夫(東京農工大馬術部)を参照。



 <付録 3>

 武士の教育 「今昔物語・第25巻・12話」

 京都に住む源頼信(みなもとのよりのぶ)という武士が、東国から名馬を手に入れた。

 その噂を聞きつけた息子の頼義(よりよし)は父の屋敷を訪問した。ふだん滅多に寄りつくことのない息子の来訪に、父は息子の意図をすぐに合点した。が、その日はすでに日が暮れていたし、大雨が降り始めたこともあり、あす馬を見て、もし気に入れば持って帰るようにと息子に言った。


 ところがその夜遅く、馬泥棒がこの馬を奪って逃走した。「泥棒 !」という家臣の声に、真っ先に飛び起きた頼信は裸同然で馬に飛び乗り、逢坂の関(京都と東国を結ぶ交通の要衝)へ向かって一目散に馬を走らせた。馬泥棒は東国からあの馬を追いかけてきたのだろう。だから必ずここへ向かうはずだと、即座に判断したのである。

 父に遅れて庭に飛び出した息子の頼義は、誰に聞くともなく、父と同じ方角へ向かって馬を走らせた。

 大雨のなか真っ暗な道を独り走りながら、父は息子が自分を追ってくることを信じていた。そして、息子もまた父が必ず自分の前を走っていることを信じて馬を走らせた。馬泥棒は一人ではないかもしれない。自分だけで追いかけて返り討ちにあうかもしれない。しかし、誰かが馬泥棒と追手との間にいなければ泥棒を見失ってしまう、と父は考え、隣に寝ていた息子を起こす暇さえ惜しんで泥棒を追った。そして息子も瞬時にそれを理解して父の後を追ったのであった。)


 やがて雨も上がり、東の空が晴れてきた。

 逃げ果せたと安心した馬泥棒は速度を落とし、馬にまたがったまま、川の近くの水たまりをチャプチャプ音をさせながら歩いていた。

 頼信はその音を聞きつけると、まるで以前から息子と、そう申し合わせていたかのように、また息子が近くにいることを知るはずもないのに、「射よ、あれだ」と叫んだ。

 その言葉が終わらない内に、暗闇の中から矢が飛び、馬泥棒の首を射抜いた(息子は有名な弓の名手であった)。あとには、鐙(あぶみ)の音をからからさせながら、乗り手のいない馬が歩いているばかりであった。

 頼信は「馬泥棒は射落としたぞ。直ちに馬を取り返してこい。」と、ただそれだけ言うとその場を引き上げ、屋敷に帰ってそのまま誰に何を言うこともなく寝てしまった。

 息子は馬を捕まえて屋敷に帰る途中、後から追ってきた家来たちに馬を渡し、屋敷に戻るや、やはり布団に入って寝てしまった。

 その日の昼過ぎに起きた父子は、互いに何ごともなかったように挨拶を交わすだけであった。そして、息子は馬をもらって家に帰った。父は何も言わなかったが、まるで息子の労をねぎらうかのように、馬の上には新品の鞍が置いてあった、ということである。


「なんとまあ、一般人の理解を超えた者たちの心であることよ(兵(つわもの)の心ばえは、かくありける)」

 と周囲の人々は語り伝えたという。


 父も息子も互いの心を推し量り、その上で行動したのではない。人の心を読むのでは遅すぎる。敵の心を考えていては、真剣勝負の場で間に合わない。そうではなく、自分の心の鏡に相手の心を映し出す。その瞬間、自分の心は相手の心に同期し両者の行動は一致し、ここに「One for all, All for one.」の精神は完成する。


 この話ではないが、芥川龍之介の作品には「今昔物語」に題材を取ったものが多い。それは彼が、人の手に染まらない真の人間の心をあの時代に見たからだ。新しい物に目を奪われて日本人の心が急激に変化していく文明開化の時代、この話に見るような、原日本人のストレートな心をテーマにした小説を数多く残した。キリスト教(聖書)を題材にした小説にしても、「日本人的な心・美的感性」を表現するための陰画でした。彼はその鋭利な感性によって、当時もっとも日本的と考えられた「武士道」精神の中にさえ、偶像を見抜いていたのです(「手巾(ハンカチ)」)。


 人が人に教えるのが教育であり、自分で学ぶのが学習であるとすれば、源頼信の話は後者であるに違いない。

 しかし、平安時代の武士社会では「自分で学ぶ機会を逃さない」のが、彼らの「教育」であった。武士の家に泥棒が入るくらい物騒な時代ということもあるが、中世の武士たちは、人が人に教えるのではなく人の言動を真似するのでもない。こうしたspontaneous(自発的)な心で、既製品ではない「自分の武士道」を作り上げたので

 す。

 宮本武蔵は敵の心を見て戦え、と言いましたが、源平の武士たちは、まさに仲間の心・敵の心を見て戦った。「平家物語」や「太平記」には、中世の武士たちの野生の魂が描かれています。彼らは「武士は食わねど高楊枝」などと取り澄ましているのではなく、機転と行動、そして強固な信心を持つ人びとであった。


 大学日本拳法で、私たちは仲間を信じ、また自分自身が信じられていることを自覚して戦うのですが、神や仏ではなく「自分たちの心を信じる」ための鍛練に、宗教ではない武道の意味があるのです。


 源頼信の話は、日本における武道の役割を考えさせてくれる。教室の授業ではむずかしい日本人の魂を育てる教育。それをおこない得る場として、武道はその存在を今一度、見直されるべきではないだろうか。

(日本で最初の武士の政権である鎌倉幕府を開いた源頼朝は、この頼信父子の直系の子孫にあたる。更に、軍神と呼ばれた八幡太郎義家や、源為朝、木曾義仲のほか、新田氏や武田氏、小笠原氏といった源氏の代表的な武将は、皆この源頼信を源流としている。角川文庫)

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