第15話 心に残る名勝負(敬称略)

「四酔人経綸問答 東洋大学体育会OB 覆面座談会」から抜粋。


 日本拳法版 川中島の戦い

 司会者「AさんやDさんが実際に見た、日本拳法が強い人とは?」

 D「日大の主将だったS。この人のパンチの早いこと。審判がついてけないんだよね。」

 A「私はなんといっても、昭和五十三年、文京区の富坂警察署で行われた昇段級審査、三段の部。立教のY対日大のM。この試合における二人。これを以て嚆矢(こうし)とす、だね。」

 A「あの手この手とガンガン攻める、宮本武蔵スタイルのYに対し、Mの絶妙な前拳とアメンボウのようにツツツーと畳の上を滑るように前後する足さばき。今風に言えば、マイケル・ジャクソンのムーン・ウォークという感じ。正攻法のYに対して、妖術使いのようなMの左手は、眠狂四郎の円月殺法のように相手の目を幻惑させ、間合いとタイミングを見誤らせる。全く異なるスタイルによる名人同士の戦いという意味では、宮本武蔵と佐々木小次郎の対決か、あるいは上杉謙信と武田信玄の激突を思わせる戦いだった。」


 Yは、足と腰と腕、体全体を使って相手をがんがん攻め込む、典型的な関東のスタイルであり、立教らしい正統派の拳法だった。総合的な圧力・圧迫感によって敵の拍子の誤動作・判断のつまずきを誘発し、ほんの一瞬を衝く。攻めて揺さぶって、流れを作って無理なく落とすという、宮本武蔵の二天一流そのものだ。

 一方、「蟻地獄男」の異名をとるMの拳法とは、敵を引き込んで勝つ。コンマ一センチ単位と思われるほど微妙で正確な間合いと、その絶妙のタイミングによって、敵の攻撃の陰の部分を巧みに衝いて自分の攻撃に反転させる。(昔の)関西ではよく見るが関東では珍しい、そして日大でも珍しいタイプだった。学年でMの上にいたSが、積極的にガンガン攻めるタイプであったために、その反動として生まれたスタイルなのかもしれない。Yの動とは対照的な、静の攻撃スタイルであった。

  

 富坂警察署での試合では、両者互いに譲らず無得点のまま二分が経過し、ラスト一分の時点で、Yは猛然とラッシュをかけた。まさにこの時、それまで耐えに耐えたMにとって、勝負の時が来たのである。敵の攻撃が激しければ激しいほど、Mにとっては最高の勝機となる。まるで鏡のように、敵の攻撃を自分の攻撃として反射させる天才であるMには、どんどん前進してくるYの拳法は、絶好の餌食となるはずであった。


 A「Yはよく分かっていた。自分が攻撃すればMはそれを待っているということを。しかし、それでもこの男は前へ出ることに躊躇しなかった。」

 「この時のYの背中には男気があった。まさに、殺されるとわかっていながら水野十郎左衛門邸へ乗り込んだ幡随院長兵衛だ。」

 「勝負にこだわるために、時に、消極的な試合運びとなる公式戦と違い、昇段級審

 査というのは自分の技術を曝け出す場であるから、その点ではずっと面白い。それがわかっていてもなお、私の学生時代、最も見応えのある三分間だった。」


 ラスト一分におけるYの攻撃には、自分自身を危うくするほど、かなり際どい無理な踏み込みがあった。

 それでも、Yが決して返り討ちにあわなかった、Mの切り返しを食らわなかったのはさすがというしかない。それはひとえに、Yの攻撃がガンガン攻めるスタイルでありながら、ボクシングのように連打するのではなく、渾身の決めの一撃があらゆる方向から、リズミカルに、流れるように、なおかつ注意深く繰り出されていたからだ。武蔵が二刀によって陰と陽の補完関係を生み出したように、Yは全身を使ってMの(鏡の)マジックを封じながら前へ出たのである。


 一方向ではなく多方面から様々な攻撃を仕掛けてくるYに対して、Mはその得意とする絶妙の反転・切り返しが、その都度コンマ一秒及ばず、ポイントに結びつけるに至らなかった。

 さしもの間合いとタイミングの巧者Mも、「悪魔の左手」と恐れられたその前拳を生かせず、一方、 攻めに攻め、 最後は強引に組み打ちに持ち込もうとしたYも、遂にMをつかみきれないまま、両者無得点で試合は終わった。

 どちらが勝ってもおかしくない、死力を尽くしたギリギリのところでの攻防戦という意味では、1998年夏の甲子園、横浜VSPL学園の延長十七回、三時間三十七分の戦い、それを三分間に凝縮したようであった。


 三分間の真実

 日本拳法の三分間というのは、野球やサッカーのような一時間から二時間という試合時間にくらべれば、ほんの一瞬、といえるほど短い。しかしその間、両者は全神経を相手に向け、いわば、集中しっぱなしともいえるほど、すべての意識・魂は時間の中に埋没し、その結果、リングの中で両者は一体化する。

 拳と拳が交錯するコンマ一秒のうちに、人の心の真理、人間の行動における真実を互いに見ようと格闘する。それゆえに、日本拳法における勝負とは、相手の心と行動を神の目線(一歩高い視線)で見た側が勝つことになる。人間同士がどっぷりと互いの心の中に入り込み浸りながら、ほんの一瞬、あるいはコンマ一ミリ相手の心より抜きんでた方が、神として人間を制すのである。YもMも、ともに「神業」を駆使して戦った。かつて、人々はパルテノン神殿で神同士の戦いを見たというが、まさにそれを思わせる。どちらも人間業を超えて神になりきっているのだから、勝負がつくはずもない。(二人とも三段を取得)


 一方、戦いをリングの外で見る者たちは、両者の間に現れたリアリティ(現実)を見ようとする。サッカーや野球の試合が、その長い試合時間と集団での戦いゆえに、見る側にとって意識の集中が困難となり、コンマ一秒の現実を見逃すことがある。

 だから、これらのスポーツでは「ビデオでもう一度」が必要となる。しかし、リプレイで現実は見えない。戦う両者とそれを見る自分との時間軸が、実時間の中で同期した現実でなければ、現実は現実とはなり得ないのだから。日本拳法における三分間、選手と観客は実時間の中で一体化する。三者が共通の現実を共有できるところに、このスポーツ最大の楽しみがある。

 殴ろうとすれば、それはすなわち自分が殴られるということであり、逆も同じ。そのギリギリのところにあえて身を置くことで、時間は動き出し、戦機は勝機となる。タイミングを計るもヘったくそもない。とりあえず前へ出て、自分の身を危険の中に置くことからすべては始まる。考えて打つのではなく、打たれる間合いに入ってから考えるのだ。


 私はこのときの「三分間の真実」から、実に多くのことを学んだ。説明を聞いて頭で理解することも大切だが、じかに目で見て心で感じること。これもまた貴重な学びというものではないだろうか。


 A「今はこんな戦い見れないかな。」

 D「三本勝負と本数勝負には、デジタルとアナログの違いがあるからな。ポイントを取ることに集中するか、3分間という時間の流れを意識して戦うか。」

 A「まあ、どちらが良い悪いということもない。法とは人の心の変化と時代に歩調を合せて変化すべきものともいうし。

 日本拳法も真理の部分は永久に変わらなくても、法や制度の部分は「今」に合わせることも必要なのだろう。日本拳法は進化していると考えれば、むしろ、もっと新しい試合方式が生まれてくるべきなのかもしれない。」

 D「思いっきり真剣に殴り合う日本拳法とは、試合の勝ち負け以上に、どこまで自分の本性をむき出しにできたか(掘り下げられたか)、という精神修養的な意味合いもあったんじゃないか。」

 A「だから、例えばある大学など、全員が凶暴な顔つきをしていたのだが、3年生あたりから、けっこう哲学的な顔つきになってくる。同じ恐怖映画でも、単なるおどろおどろしいオカルトやホラー映画ではなく、ヒッチコックのサスペンス映画のような、味わいのある恐怖という感じなんだな、これが。」

「この学校は、型にはめるのが上手い大学だった。全員が一糸乱れぬ振る舞いをし、その行動様式にきっちりはまりながら、各人の拳法は個性的。漫画「嗚呼、花の応援団」のような、単なるしごきとかしばきに終わらせず、それを様式美にまで昇華させてしまう力があった。」

「いずれにしても、真剣に殴り合うという精神は、個人の拳法スタイルだけでなく、拳法部という集団にも個性を与えるし、更には、その大学を応援する人たちのカラー(持ち味)にまで影響を与えているような気がする。」

 D「応援するOBか?」

 A「いや、女性だ。」

 B「なんだ、そりゃ。」

 A「我々が一年生の頃、日大のSとKに率いられた日本拳法部は、他の大学からピラニア軍団と呼ばれていたし、慶応は黒薔薇騎士団、中央は十字軍、バンカラ明治というように、単に言葉の持つイメージだけでそう呼んだだけだが、やはり当時の各大学が持つ独自の精神的ムードがあった。そして、そういう大学を応援に来る女性たちもまた個性的だった。中央や早稲田を応援する女性たちは、トラッドな服装をしたフェリスか白百合かという清楚な感じだったし、そこへいくと日大は妖艶というか大人というか。だから、試合が終わって、一方の女性たちは京王線とか東急で郊外へ帰る。かたや、日大の女性は銀座線で都心へ向かう。そんな感じだったな。」

 D「あはは、日曜はお店休みだろ。」

 C「でも、なんとなくイメージ的にはわかりますね。」

 B「東洋の応援団はどうなんだよ。」

 A「女っ気なし。なにしろ、部員も大学も金が無いから防具の数は少ないし、道着はお古ばかりで汚い。 だから、当時の拳法協会会長から「野武士」と揶揄されていたくらいだ。 彼女だ恋人だのという話が出るようになったのは、昭和五十四年度卒の面々の頃からだ。 ああ、そうだ、昭和五十三年度卒の先輩たちが常連だった、巣鴨のとげ抜き地蔵にある飲み屋の婆さんが来たことがあったな、爺さんつれて。塩大福を差し入れてくれたよ。」

 心に残る名勝負。それはリングで戦う二人だけではない。

 各大学のカラーや応援する人たちの個性も、「心に残る」のです。

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