第13話 日本拳法体験記 in USA
アメリカで殴り合いをしたというのではない。
「日本拳法的な感覚で体験したアメリカ」という話です。
「神を見た話」その一
樹齢二〇〇〇年の杉の木を見に行った時のことです。それはサンフランシスコからロサンゼルスの方角へ数百キロ南下した辺り、キングス・キャニオンという場所にあります。
私たち夫婦の行った三月は雨期にあたり、雨の日ばかり。巨木がたくさんある山の上周辺は、日本の山のように樹木が鬱蒼と生い茂り、しかし日本と違うのは、雷に打たれて倒れているとてつもない巨木が、あちこちにゴロゴロ転がっているという光景である。厳しい風雪に耐え、二〇〇〇年もの間、雷に打たれず、虫にもやられずに生き残ってきた木というのは、やはり神がかり的な雰囲気をもっている。そんな巨木に手を触れ、耳を当てると、遠い昔の木の記憶が人の心に伝わってくるようだ。 私たちが山を訪れていた数時間、コンドルが飛ぶ空は晴れ渡り、軟らかな日差しが木々のあいだへ差し込んでいた。
「神を見た」のはその後である。
サンフランシスコへ帰るため、帰りは海沿いの道を北上することにした。断崖絶壁にへばりつくようにして、片側一車線の曲がりくねった、街路灯もない細い道が延々と続く。山を降りるころから降り始めた激しい雷雨に濡れて、ところどころ崖が崩れ、道が半分くらい埋まっている。 そのため、右車線を走っているのだが、なるべく左によりながら、ときおり来る対向車を用心して走る。そんな道を夜九時から深夜二時まで、雨の中ぶっとうしで運転した。その時の体験が「日本拳法」だったのである。
夜九時頃には、まだ妻も起きていて、窓ガラスが湯気でくもり暖かそうな雰囲気のホテルのレストランや、車でごった返すドライブインがあるたびに、「ここで少し休憩していこうよ」などと言っていた。ところがこの時、すでに意識はぼんやりし始めていたのだが、心の底から「まだまだ。休む場所はここじゃない。立ち止まる時ではない」という声が聞こえてくる。
とにかく、朝食のドーナッツとコーヒー以来、ずっと飲まず食わずだから、空腹と疲れで意識が朦朧としている。体は休息と食事を求めているのだが、心の中からは「まだだ、ここじゃない」という声が、からだを休ませてくれないのである。
しばらくすると、時差ぼけもあり、妻は小さないびきをかいて眠ってしまった。豪雨が霧雨に変ったなか、真っ暗で曲がりくねった道を、いつしか私は心と体が分離したような、あるいは逆に一体化したような状態で運転している。意識はあるのだが、ワイパーの音と、時折ころころと崖を落ちてくる石の音しか聞こえない。
視界が悪いため、ハンドルにしがみつくようにして運転していたのだが、目で見ているというよりも、心だけで運転しているようなぼんやりとした感じである。
しかし、何も見ていないようで、見るべきものは見ていた。ときおり対向車が来れば避け、後ろから追い越しをかける車があれば、減速していたのはよく覚えている。路肩で停車している何台もの車もはっきりと見て、ああ、休んでる奴がいるなと思ったくらいだから、決して居眠り運転ではない。暑い夏の合宿で、体が勝手に動いて相手を殴っているような感覚なのである。気分はぼんやりしていても、端から見たら、きっと、目を血眼にし歯を剥きだして、鬼のような形相でハンドルをにぎっていたにちがいない。
崖道から山の中をしばらく走ると、いつのまにか片側二車線の明るくて広い道に出た。真っ暗闇の中から、いきなりタイムスリップしたような感じである。
街路灯の明かりで、妻も目を覚ましたらしい。
ある交差点に差しかかると、私はゆっくりと右へハンドルを切った。妻は驚いて言う。
「なんで曲がるの ? 」
すると、私の口からは「ここだ、ここだ」という声が、なぜか確信をもって出てくる。
「こんな住宅街に入り込んでどうするのよ」という妻に「いいんだよ」と言いながら、ネオンサインも消えた真っ暗なショッピングモールの中へどんどん入って行く。
「どうしたの? いま夜中の二時よ。どこも真っ暗じゃない。お店なんてやってないわよ」。彼女がそう語気を強めているうち、車は百メートルくらい進んだモールの一番奥にあるスーパーマーケットの前に着いた。
なんと24時間営業。
「・・・あんた、これ知ってたの?」
「いや。」
本当にわからない。地図も持たずに全く初めて来た町で、まるで何かに導かれるようにして、車を止めて休むべき場所にたどり着いたのである。私たちはパンやバナナ、そして熱いコーヒーを買って車に戻った。
「信じられないわね」妻がそういった途端、大きな雷の音と共に、再び激しい雨が降りだした。もう言葉もなかった。腹が一杯になり体が温まった私たちは、車の中で熟睡した。
あの時、レストランで夕食をとっていたら、この大雨でもしかすると通行止め、悪ければ土砂崩れにあったかもしれない。満腹になって本当に居眠り運転をしていたかもしれない。「まだだ、まだだ。」と、私の背中を押してくれたあの声は、樹齢二〇〇〇年の木の精霊なのか、内なる神の声だったのか。その時はそんなふうに思っていた。
しかし、今にして思えば、「まだまだ」という声は、あの時の精神的状況と日本拳法をしていた時の状態が似かよっていた為に生じた幻聴だったのだろう。
日本拳法とは孤独に耐えるスポーツである。分厚くて重い面を着用することで、視界は極度に狭くなり、耳と口はふさがれたようになる。そんな閉塞的な環境の中、相手の面を通して見る敵の顔もまた、無表情で能面のようだ。音も景色も匂いまでも消し去ったような、そういう無機質な世界で、とにかく前へ出て、コンマ一秒でも早く敵の心を見、敵より先に動こうとする。
二十年前のこの感覚が、深夜の運転という状況でよみがえったのである。相棒はすっかり寝入ってしまい、私一人が霧雨の降る闇の中を、ヘッドライトに照らし出された白い部分を追って車を走らせる。音などほとんど聞こえない状態で、とにかく一マイルでも百メーターでも前へ、少しでも先へ進もうとする。死んで魂だけになったら、きっとああいう感じで目的地へ向かおうとするのだろうか。
防具練習でヘトヘトになり、どう攻撃したらいいのかという考えもないまま、とにかく前へ出ようとしていたあの頃が甦る。「まだだ、まだだ」という声は、まだ攻撃すべき時ではない、まだ攻撃をやめる時ではない。あるいは、もっと踏み込め、もっと敵を追い詰めろ、もっと敵を引きつけろ。そういう「まだ」であり、「もっと」であったのだろう。
難所を越え、食い物もガソリンスタンドも警察署もある町。そこの駐車場でようやく眠りにつけた時の気分は、グローブを取って面を外し整理体操に入る時の、あの爽快感、やれやれという安堵感であった。
「神を見た話」その二
サンフランシスコに住む、人間のようで神のような日本人とお会いした話です。
私が「神木」を見に行ったときにお会いしたこの人は、人間離れした強靱な精神を持つという意味で「神人」と呼ぶべき人でした。ファイティング・スピリッツの固まりのような男でありながら、詩人のような美しい心を持っているのです
。
ファイティング・スピリッツとはこういうことです。
我々は、用心するというのをソフトウエアで行う。たとえば、私がイタリアのナポリや南米という、日本に比べて危険なところに行き、スリや置き引き、ひったくり、あるいは強盗に用心するといっても、それは気持ちで用心し、心で気をつけるということ。だから、気をつかう分、疲れるし、ちょっと気を抜くと危ない。
しかしこのおっさんは、用心するという機能が肉体に組み込まれている。危険を察知するという感覚が肉体化されているのである。考えて用心するのではなく、体自体がそういう体になっている。飯を食うという平和な行動のなかでさえ、ある種の殺気を漂わしている。すべての行動の中に、戦争と平和の心が自然に同居しているのである。しかし、当人は意識して用心しているのではないから、疲れないし反応も早く的確だ。
日本拳法で昔の三段クラスになると、防具をつけていなくても、何げない動きにメリハリがある、びしっと決まっている、というのと同じなのです。
人の良い好々爺のような顔をしているが、ゴルゴ13のように、後ろに来る人間には敏感である。ほんの一瞬ではあるが、老練な職人のような、疑り深くねちっこい目つきになる。人の動きを宮本武蔵の言う「観見」の目で注意深く追う。
一方で、東京農大出身だけあって、畑の作物を見るような観察眼と、子牛を慈しむような暖かい目をもっている。
南米で、片手にライフルやナイフを持ち、片手にハンドルをにぎって嵐の中を一〇トントラックを駆って、数百キロの 道のりをブエノスアイレスまで、時には毒蛇や強盗相手に発砲しながら往復する。インディオは良き友人でもあり、時には裏切り者ともなる。彼の地では、自分自身の感性と知恵、そしてそれと連動した機敏な肉体しか、真に頼りになるものはない。
危険と平和が瞬時に入れ代わるような、そんな生活を五〇年も経験してきた男には、私のように、せいぜい数年間、一日二時間程度の「殺し合い」を経験した人間にはとても及ばない凄味がある。ソフトウェアではなくハードウェアとして染みついた、野生の本能としてのファイティング・スピリッツがある。いくら私が会社で、三六五日、二四時間営業で気違いのように働いた、といっても、命の取り合いではない。商売というルールの中での戦いなのだから。
神が指定した、その人間として行き着くべき精神的境地に行き着いた者。まるで神から、魂の印可状をもらったかのごとく、どんなものにも驚かない、どんな危険にも対処できる絶対の自信を持っている人間。
嵐に遭おうが、毒蛇がこようが、ショットガンを持つギャングに襲われようが、絶世の美女に誘惑されようが、決して自分の目的を見失わず、道を踏み外すことなく、行き着くべきところまで行くことができる。強い意志と純粋な心と知恵を持ち、しかも、頭で考えて行動するのではなく、精神と肉体が一体化したスタイルで、リアルタイムにものごとを処理していく。
この強さの由来は、宗教でもなく武道や格闘技でもない。ただただ家族を食わせて生き抜くという天命に殉じた「自然児の魂」なのである。
このような人こそ、私たちが日本拳法で追求したものを、現実の生活のなかでごく自然に実行しているといえるだろう。
私は海外へ行く時には、こういう「神から印可状をもらった人間」と、どこかで出会えることを楽しみにしている。名所旧跡などいつでも見れる。しかし、人間はいずれ死んでしまう。技術ではないから、こういう人間の凄味や感性を継承できる人間はいない。一代限り。円生の落語のようにテープやDVDに記録しておくということもできないのだから。
こういう人間に接してみると、自分の中にある野生が目覚める。
私とは知識も経験も何もかもかけ離れた方なのですが、ルーツは同じ縄文人という、なにか根源的な懐かしさをそこに見いだすのは、非常に嬉しいことです。
私たちが日本拳法をやる動機が、たとえ練習時間の間だけとはいえ、遠い昔に体験した野生の感性を少しでも思い出そうとすることであるならば、日本拳法以外のアプローチによって、それを身につけた人と出会うというのは楽しいものです。
最近(2010年)、この方はメーリングリストで、普段のこの方らしくない熱い口調で日本の問題点を種々指摘されておられます。
妻など、「近頃の野口さんどうしちゃったのかしら? 」などと言うくらいです。
しかしそれは、ネズミが沈没を予期して船から逃げ出すような動物的直感が、彼をしてそういう言動に走らせるのです。長く命がけの生活をしてきた真剣勝負師には、迫り来る日本の危機がはっきり感じられるのでしょう。
「日本拳法で勝つ」
サンフランシスコからの帰りの飛行機でした。
当時は米国の狂牛病が日本では大きな問題になっていたので、私たち夫婦は、機内食はチキンと決めていました。
しかし、離陸して一時間後にサービスが開始された食事は、無残にも私たちの希望を打ち砕きました。なんと私たちの三つ前の列でチキンは品切れ、そこから後ろは否応なしにビーフが出されることになったのです。やはり、みな狂牛病のことを恐れ、チキンが人気だったのでしょう。
私の妻は気持ちの切り替えが早いというか、家が禅宗であるために「執着しない」のか、あっさりと諦めてしまいます。「ビーフの方が高いのよね」と、自分に言い聞かせるかのようにして、出されたトレーのビニールパックをいそいそと開けています。こういう点では、仏教徒というのは環境になじみやすいというか、同化しやすいというか、従順な羊のようで、確かにこれならアメリカが日本を仏教国にしておきたがるのも無理はない。
だが私としては、そう簡単に引き下がるわけには行かない。たとえ相打ちになっても、あるいは負けても、せめて顔面に一発くらい後拳を入れてから負けたい。これが日本拳法をやっていた者の精神です。
どうせ飛行機のエコノミークラス。そのまた後ろに座っている顔の黄色い人間なんか超貧乏人さ。そんな態度丸出しの、白人のおばちゃんがトレーを私のテーブルに置こうとした瞬間、私はすかさず「チキンをくれ」と言います。ごめんなさいとも言わずに、「ビーフよ」と、おばちゃんは当たり前のようにトレーをどんと置きます。「これはどこのビーフだ?私はアメリカンビーフは食べたくないんだ。」。一瞬考えてからおばちゃんは「オーストラリアだったかしら」などと言う。
彼女は明日、教会に行って懺悔すれば嘘をついてもいいと思っているのだろうか。さっき、機内放送で、おいしいアメリカンビーフだと言ってたじゃないか。「本当か。神に誓ってか。」という私に、通路の向こう側の日本人のビジネスマンらしき男は「無駄なことをして」という軽蔑的な目でせせら笑いをしている。おばちゃんは怒ったような顔をして早口で何かをまくし立て、そのまま行ってしまいます。
さあみなさん、ここでこの戦いは終わったのでしょうか。相手の不誠実さに、一応言うべきことを言って抵抗した。
まあ、これでいいじゃないか、と考えますか。
いや、そうではありません。日本拳法では、ここからが戦いなのです。私と相手はここで間合いに入ったのですから。
私は、知らんぷりをして行こうとするおばちゃんの後ろから、大きな声で言いました。「アンフェアーじゃないか。」
すると、おばちゃんは一瞬ギクッとして立ち止まりましたが、なおも怖い顔を崩さずちらっと私を見ると、やはり立ち去ろうとします。ここで私は前拳に続いて後拳を繰り出し、追い打ちをかけるように叫びます。「これは差別だ。この航空会社はお客を差別している。」
女ゲシュタポのような強面のおばちゃんは、いきなり猫なで声になり「ちょっとチキンを探してくるわね。」といって 足早に立ち去りました。
因みに、この差別という言葉(discrimination)は危険ですから、めったに使ってはいけません。ことと場合によっては、逆にあなたが名誉棄損で訴えられることがありますから、気をつけましょう。
私としては、もはやその時点でチキンなど期待していませんでしたが、言うべきことは言ったという充足感と、空腹に負けてアメリカンビーフは食わないというポリシーを捨てた自分のふがいなさに腹を立てながら、ビニールパックを開けて食べ始めました。
すると、あのおばちゃんが来て、赤ワインがたっぷり入ったでかいデキャンタとグラスをそっとわたしのテーブルに置き、「これはファーストクラスで出す、極上のワインなのよ」と言ってウインクします。私の方もこれが潮時と、黙って乾杯のしぐさで返します。
日本拳法の試合と違い、現実の社会では、勝ち負けのはっきりしないことが多い。どちらが、あるいは誰が勝者だったのか(観客が勝者ということもあり得る)。何をもって勝ちとするのか。結局は自分自身の満足度で判断するしかないのです。
高級ワインの味よりも、あのビジネスマンのちょっと残念そうな顔が、せめてもの私の慰みでした。
神とは何か
「この世のことは何ごとも、神様のなさるやり方をもととし、その通りによく習い行うべきであり、人間のやり方に習うべきではない」(「古事記」)と、私たちの祖先は言いましたが、それはつまり、目に見える人間の姿ではなく、その裏にある精神を見よ、ということです。
「古事記」には、神様が着物を着る、飯を食う、ゲロを吐く、うんこをすると、そこに別の神が現れるということが書かれています。神様はいつでも正しいことをするから、その行為には必ず新しい(別の)神が誕生する。それがつまり、八百万(やおよろず)の神がいるという言われです。
一方で、人間の場合には神と違い、ほとんどの行為が正しくないから、なかなか神が出現しない、自分の行為に神を見ることができない。ともすると、神ではなく妖怪が出現してしまう。
だから、人間も神に倣(なら)い、すべての行為に神が現れるような、そういう正しい行為を目指しなさい、というのです。歯を磨く、服を着る、飯を食う、歩く、話をする、仕事をする等々、生活のあらゆる場面において。そこで重要なのが、目に見える行動ではなく内面的な心の働きだと、「古事記」では言うのです。
武道というのは、この内面的な心の働きを鍛練するためにある。
戦いという緊迫感の中で、絶対にこれしかないという正しい行為を、瞬時に見い出して実行する。神業のごとき、心と行動が一体化した正しい業の実現を目指す。そういう鍛練を毎日一時間、二時間と集中的に行うことで、その神的な行為を習慣化し、普段の生活でも自然とそれが 行えるようにする。これが武道の目的だと、私は思っています。
たとえば日本拳法というのは、ちょっと気を抜いてやれば大怪我をする危険な行為です。でも、そういう緊張感の中で意識的に正しい行動をする習慣を身につければ、道場以外の普段の日常生活で、意識しなくても正しい行動ができるようになる。ごく自然に正しい判断をし、的確な行動ができるようになる。道場で神を見る習慣をつければ、道場以外の場所でも神を見ることが期待できるのです。
「古事記」というのは神道におけるバイブルのような本ですが、これをこうしろという教訓じみた言葉は全くといっていいほどない。すべてが「暗示」であり、唯一の教えが、この「神を真似しろ」という言葉です。精神という目に見えない、けれども確かに存在するものこそ、古代日本人が見た「神」であったのです。
自分の行動の裏にある精神に目覚めなさい。何ごとも精神があって行動が起こされる。言葉は精神から発せられる。
私たち日本拳法体験者は、このことを自分たちの体験からよく知っているはずです。手加減せずに思いっきり殴るというきわめて現実的な目に見える行為とは、じつはその後ろにある精神の結果であるのだと。
拳を繰りだすときの「えいっ」という声は、精神(気)と行動を合一(一致)させるためであり、これがために「気合い」と呼ばれる。
殴られて痛い、殴ればなお痛いという現実世界で、その痛みを精神の痛みとして感じることのできる人間だけが真の強者となれる。本当の人間としての存在を確保することができるのです。
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