第12話 日本拳法の面白さ 番外編
宗教とはなにか その 1
ボストンに住んでいた頃、ハーバード大学の学生から面白い話を聞いた。
アメリカは日本がキリスト教国になるのを望まない。仏教のままでよい。そのために第二次世界大戦(大東亜戦争・太平洋戦争)の時、京都や奈良を爆撃しなかった。わざと日本の仏教文化を残した。なぜならば、仏教(的な人間)の方がコントロールしやすいからだ、と。
その娘は一九八六年の時点で、二〇〇〇年のオリンピックはオーストラリアだと断言していました。
私たちとは全く違う視点で宗教というものを考えている人たちがいる。
先の大戦というのは、そういう人を相手に戦ったのです。彼らは戦闘機や戦艦の数ではなく人間の精神を見て、しかも十年・百年先を見越して戦う国です。頭が悪かったから負けた(精神性で負けた)と素直に認めず、いまだに「物量で負けた」などと負け惜しみを言う日本が勝てなかったのは当たり前でした。
単なる殴り合いなら日本人の方が強かったかもしれない。しかし戦争とは「ケンカ」であり、ケンカとは突き詰めればソフトウェア(頭と精神力)、すなわち人間性の戦いです。
司馬遼太郎は「明治時代の指導者と昭和のそれとでは人種が違う」と嘆きましたが、確かに昭和の戦争指導者たちのケンカの仕方は、明治期のそれに比べたら子供のレベルといってもいいくらいであった。戦いの進め方は感情的で不安定であり、切羽詰まるとすぐにパニクって、特攻だ一億玉砕だといいだし、結局は自滅した。
一方で、アメリカ人は戦争が始まるずっと前からクールに計算していた。真珠湾攻撃を受けた時、アメリカではすでに終戦後の日本占領計画が出来上がっていたという。ミッドウェー海戦の時、米国政府は有名な映画監督ジョン・フォードを中心に編成された映画製作チームを派遣し、自分たちの戦いぶりを第三者の視点で記録に残すべく、カメラを構えて日本軍が攻撃してくるのを待っていた。そういう意味での精神力(タフさ)の違いです。
アメリカ人にとっては日本人が精神的に強い人間であっては困る。「この世は無常」といって儚(はかな)んでいる、情緒的で不安定な人間でなければ、精神的にプレッシャーをかけてコントロールすることができない。
一般のアメリカ人は、もちろんそんなことを考えていない。陽気でお気楽でお節介すぎるくらい親切な人たちだ。ただ、扇子の要に位置する人たちは、全く別な視点で人の心や宗教というものを見ている。
宗教とはなにか その二
高校時代、ある同級生は差別的なあだ名をつけられていじめにあい続け、しまいには足まで骨折させられた。「芋虫」と称して、数人が後ろに数珠つなぎになり、壁に押しつけるという遊びであったのだが、たまたまこの男が非力であり、また結果が惨めだったため、「酷(ひど)いいじめにあった」ということになってしまったのである。
「ポキッじゃなくて、ぐにゃっていう感じだったぞ。」「おしっこ漏らしてるよ。」 泣き叫ぶこの男を囲んで、みんなで大笑いしている。映画「汚れなき悪戯」のように、子供の純真さと明るさは、反面恐ろしい残酷さでもある。
陰湿でないだけに終わりがないこのいじめを止めさせたのは、ある教師の(冗談口調の)一言だった。「おまえら、あいつの親父は坊主だぞ。あんまりいじめると地獄に落とされるぞ。」
子供心に、幽霊や祟りというものは教師や警察より怖いのか、それとも泣きわめく姿に「しらけて」しまったのか。長いいじめは止んだ。
宗教という擬似的な安心感にひたる生活をしてきた人間が、厳しい現実の競争社会で落ちこぼれる。そして再び、宗教によって救われる、という話である。これが彼にとって本当の救いだったのかどうかは疑問だが。
体が華奢で、精神がひ弱。土方のアルバイトをやらせると、重さに耐えきれず、マンションの屋上から担いでいた鉄パイプをばら蒔き、監督に怒鳴られると涙ぐむ。親父が死んで住職になっても相変わらず臆病で、草刈りをしていると、落ちている古い紐を見て「蛇だー」と叫び、エンジンがかかったままの草刈り機を放り出して逃げてしまう。毒蛇か、ただの蛇なのか確認しないで「蛇=危険」という思い込みで行動する。
浪人・大学・僧堂での雲水時代と、年上の女性に面倒を見てもらい、まさにヒモのようだったが、この男にとって 「彼女」とは、金や肉体の要求を満たしてくれるという以上に、自分の弱い心をフォローしてくれる「殻(から)」として必要だったのである。だから住職となり、少し自信がついてくると、あれほど世話になった女性をゴミのようにポイと棄ててしまう。
ツルツル頭にして黒い袈裟を着れば、それだけで人は道をあけてくれる。気が弱い反動で、夜になれば田舎ヤクザのような格好をして車で繁華街を飲み歩く。学生時代まで「ボク」だったのが、二年間いた僧堂を出ると、老師の口ぶりを真似して「ワシはな、○○じゃ」になる。それでもやはり、自分の弱さを宗教という殻でカバーしているだけだから、同業者(ほかの寺の住職)にいじめられると、泣いてしまう。
しかし、これが多くの日本人の姿ではないだろうか。宗教(権威・肩書)という衣を着ることで、世間という雨風から身を守る。自分よりも弱い者を側(そば)に置くことで、相対的に自分を強く見せようとする。精神を鍛えないで、知識や話し方や格好ばかりに気を配る。だから、現実の世界で生きた問題にぶつかると、子供と同じで投げ出してしまう、泣きだしてしまう。この坊主を笑うことはできないだろう。
実際、アメリカのエリートのような、頭もいいが精神的にもタフな人間からすれば、日本が誇るあの東大出の官僚でさえ「Todai Ki ds」と呼ばれる。いい子にしていればいじめないよ、というのである。
1951(昭和26)年、GHQ司令官ダグラス・マッカーサーが、日本人(の高級官僚や将官クラスの軍人)の精神年齢は十二歳の子供だと米国議会で発言し、日本では物議を醸しだした。だが、ウエストポイント陸軍士官学校始まって以来の秀才といわれたこの男は、その鋭い知性で、人間の本質が最も露骨にあらわれる飢餓状態にあった敗戦直後の日本で、そこに蠢(うごめ)くエリートたちの本性を見た。 陸海空の戦いを通じて、神の如くに戦った崇高な日本の下級兵士や一般庶民の気高さとは対照的な日本の指導者たち(官僚・職業軍人・宗教家)に、マッカーサーは幻滅したのである。
日本語が話せれば「坊主」など誰でもなれる。しかし、本当の坊主・本当の日本人になるのは大変難しい。実際、地位や肩書という殻をはぎ取り、中国の禅でいう「一無位の真人」として、裸の精神で勝負できる真の大人を、日本で見ることは少ない。
戦国時代の頃から、欧米人は日本人の精神を観察し、巨大な仏像や天皇という権威に頼る(利用する) 坊主や貴族の体質を見抜いていた。頼るのは悪いことではない。ただ彼らは「日本人の頼り方」を研究し、ツボ(弱点)を突いてくる。ハーバードの学生の言ったことは、まんざら嘘とは思えないのである。
宗教とはなにか その三
京都には、大徳寺という寺がある。
いわく、寺を建立したのが乞食であった。日本でただ一人「禅を実践した坊主」がいた。日本全国に散在する禅坊主の修行道場(僧堂)で唯一、「中峰国師座右の銘」を読む寺。日本の寺の中でもっとも態度がでかい、等々。
政治家としては建仁寺の栄西、精神的原点としての禅坊主は大徳の宗峰妙超といわれるが、この男が大徳寺の初代管長である。悟りを開いたあと、乞食となって現実の社会でその切れ味を試しているところを、天皇に乞われて大徳寺の住職になった。乞食が乞食されたのである。
「とんちの一休さん」で有名な一休宗純は、「釈迦という いたずらものが世に出でて 多くの者を迷わするかな」という歌を詠んだように、仏教や禅というものを光と影の両面から見ることができた、日本でただ一人の坊主であった。
「中峰国師座右の銘」とは、「末世の比丘(坊主)、 形沙門に似て、心に慚愧無く、身に法衣をつけ、思い俗塵に染む。
口に経典を誦して、意(こころ)に貪欲を憶い、昼は名利に耽り、夜は愛着に酔う。外(ほか)持戒を表して、内密犯を為す。・・・」で始まる銘文。
姿形だけは坊主だが、能書きや肩書ばかりで中身がない。真理ではなく酒や女にたよる心の弱い人間。そういう坊主を多く見るようになってきたら、もうその社会は末期であるという、中国の禅坊主自戒の言葉であり予言でもある。
比叡山の僧兵よりも強力な京都三千家の外護により、大徳寺とは墓や葬式に頼る必要がない。
頼るのは檀家でも天皇でもない。開祖大燈以来、真の乞食が持つ精神の純粋さを至高として指向するがゆえに、その気位の高さは筋金入りである。法の途絶という、禅寺にとって最大の危機に瀕し、同じ法系である他の寺に師家を乞う時でさえ、ここの坊主は「カスは要らん。一番いいのをよこせ」と言ったという。
葬式などやらずとも、座禅と托鉢だけで生活ができる、日本で唯一の「優雅で贅沢な」禅寺(僧堂)なのである。
田舎臭さを都会的な感性に見せることが上手な京都という町が、人と町と思想を羊羹のように練り込んだひとつの宗教であるように、大徳寺もまた、インドでも釈迦でも中国でもない、自分たち独自の精神世界を保ち続けてきた。
私はもうそろそろ、天皇は京都にお返しすべき時期だと思っている。
「 東京」には天皇を使いこなすだけの器量がない。それは今までの歴史と最近の出来事が証明している。「東京」はユダヤ人や中国人・欧米人に対抗する宗教(ソフトウェア)にはなりえない。知識や教養ではなく、武道でいう器量(精神性)こそが、天皇という武器を生かすことができるのだから。
精神に目覚めよ
ドストエフスキーの小説「罪と罰」では、インテリ青年ラスコーリニコフが、金貸しの老婆を殺して金を奪う。「おれのような優秀な人間が使った方が、金もしあわせだ。」という理由である。
自分の方が知識がある、将来性もある。この女が持っていても生きないが、おれが使えば世の中の役に立つ。そういう傲慢さで弱者を切り捨てる。目の前の現金のために、人殺しをする。
今まで助けてくれた者を切り捨てる。自分より弱い人間をいじめるのは誰でもできることだろう。
モンゴメリー・クリフトとエリザベス・テーラーの主演した映画「陽のあたる場所」では、主人公は富豪の娘と結婚することで得られる金と地位のために、それまでつき合っていた女性を殺してしまう。この男もまた自分に都合の良い理由をつけて、貧乏な時代、自分に尽くしてくれた「相棒」を捨てるのである。
この二つの物語は、男の身勝手さを責めているのではない。より根本的な人間の在り方を問題にしている。
目に見える金や社会的地位にとらわれて、目に見えない心をないがしろにする。「金で幸福が買えるのか」とは、よく言われる言葉だが、目に見えない心より金の方をほとんどの人が選択する。そして、邪魔者は消せ、となり、その二人の中だけでは男の方が強いから、女が殺される。二人という限定された関係の中でのいじめである。
「罪と罰」の場合、ラスコーリニコフという傲慢な男は、最後には罪の意識に目覚める。金を奪う・人を殺す以上に、人の心を踏みにじる・人の心を殺す罪の重さに気がつく。本来、彼のようなインテリが最も軽蔑するはずの貧しい売春婦によって、この男はその魂を救われる。救われるとはどういうことか。精神的に豊かに生きる道を教えられた、ということ。金や地位よりも大切なものがあることを、頭ではなく心で理解したのである。
シベリアという極寒で不毛の流刑地に送られたこの男は、精神性に目覚めたがゆえに、人生の後半を心豊かに生きることができたのである。
一方、「陽のあたる場所」の主人公に救いはない。
女を捨てることで自分が生きようとしたこの男は、法の裁きによって死刑になる。
死刑執行の日、独房を訪れた牧師にかれは訴える。「私は自分の手で殺していない。彼女の死は事故だったのです。」
それに対して牧師は言う。「確かにあなたは直接殺さなかったかもしれない。しかし、彼女を殺そうという心を抱いた時、あなたは罪を犯したのです。」
心の中で人を殺すことを考えた時、それは肉体的に殺すのと同じだ、というのである。
しかし、彼はついにこの言葉の意味がわからず、茫然として死刑台へ向かう。
この映画の原作はドライサーの「アメリカの悲劇」という本です。アメリカという国は、ものと金を目標に、その類まれなるインセンティブ(やる気)によって、建国わずか二百年で世界の一流国になった。その弊害を訴えたのがこの小説です。
ちなみに、アフリカ人の使う「ベンダ・ビリリ」という言葉 は、目に見えるものの下にあるもの(魂)を見る、ということを意味するという。
心で(後拳を)打つと思った時には、すでに打ち込んでいる。 心と体の完全なる一致を求め、日々防具練習に励む私たち日本拳法人ならば、精神の働きと肉体的な行為(行動)とは全く同じであるという意味を、理解できるだろう。
日本拳法による生活
そのむかし、宗峰妙超という坊主は、坊主頭でもなく禅僧の衣を着ることもなく、身を一介の乞食にやつし、京の五条の橋の袂(たもと)で修行した。坊主という肩書など役に立たない、悟りを開いたという資格など何の意味もなさない。そういう最低辺の社会、最も根源的な価値観で動く乞食の世界で己の精神を磨いたのである。
現役時代、私たちは相手を殴り自分も殴られるという体験をしてきた。リングに上がれば、主将という地位や二段という肩書など関係ない「一無位の真人(一人の裸の人間)」である。どちらがより早く、より正確に、理に適ったストレートな技を決めることができるか。どちらが自然の心になりきれるか。あれこれとテクニックを駆使して勝つことが日本拳法の本道ではない。ひとえにその人の精神の純粋さに勝負はかかっている。
では、いざ殴り合いに突入した際、そこで求められるものは何かといえば、それは心と体の強固な連携(無念無相)。コンマ一秒のズレもない精神と肉体の関係である。「この野郎」と思った瞬間には、すでに相手をぶちのめしているほど、心と体が一致していなければ、ケンカでも日拳の試合でも、相手を乗り越えることはできない。洗練された肉体の動きと切れのある精神の一体化こそが、あらゆる修羅場を切り抜ける道へと私たちを導いてくれる。
老いて日本拳法を見る側になれば、今度はその体験を、目の前で日本拳法をやる若者に感情移入して楽しむことができる。殴る蹴るというハードウェアの動きではなく、昔の自分のピュアな心がよみがえってくるのを楽しむ。かつての自分が持っていた精神の純粋さという記憶を、目の前で現役の学生が繰り広げる戦いの中に思い出すことで、心が癒されるのである。
私たちは「日本拳法における一本」という、宗教や社会的な肩書という殻から開放された、ストレートで自由な心をよりどころにすることで、釈迦が四苦だ八苦だと嘆いたこの世界を、より面白く、もっと楽しく生きていけるにちがいない。
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