第9話 私的日本拳法の世界
大学日本拳法とは、私にとって理性を鍛える世界でした。
「理性」といっても「自分の欲望や本能のままに行動するのを抑制し思慮的に行動する能力」或いは「物事を論理的に考える精神能力」といった、一般的な理性という言葉がもつ意味とは少し異なります。
自分の感情や欲望をコントロールするために、禅寺の坊主が座禅をしたり、キリスト教の修道士が聖書を読み瞑想にふけるといった修行とは、それぞれの宗教が規定する教えに自分の言動が合うよう、心と行動を修正する行いです。禅の売り物の一つである「無」といい、無という型に嵌まろうと、自分の心や仕種(ある物事をするときの動作や表情)を修正するわけです。
そういう「後付け」の性向とは、理性ではなく知性とか俗性(俗っぽさ)と呼ばれるのでしょう。
私がここで述べる理性とは「鏡」のことです。
鏡のように、光でも闇でも素直に、即座に映し出す(反射する)ことができる心。知性・悟性・感性、すなわち知識や経験から学んだことや、好き嫌いの感情を含む感覚的認識能力を含まない、素のままでストレートな心の性質・性向のこと。
理性という言葉(訳語)は西洋哲学由来ですが、日本や中国では、物の姿をありのままに映し出す鏡に、単なる光の反射という物理的な作用を超えた(形而上的な)大自然の摂理を見てきました。
日本拳法の面突き
知性や悟性とは、生まれてからの知識や経験によって身についていくものですが、理性とは先天的に備わっているものです。そして、私の場合「日本拳法の面突き」によって、性質・性向・気質として機能するようになったということなのです。
そもそも、私の直面突き(注)には、技術というものがない。ガッツと気合いだけでやるのが、私の拳法でした。じりじりと前へ出て、自分の間合いに入ると打つ。相手が打ってくれば自分も打つ。フェイントやタイミングをずらせて一本を取るなんて技術(知性)はありません。ただひたすら前へ出て3分間ぶん殴る。
そこには、殴られる恐怖や負けて恥かしいという感情(感性)、絶対に勝とうとかチームのために負けられないなんていう意識(悟性)もない。全くのニュートラル(中性・無性・0)の心で前へ出るだけの攻撃です。
しかしそのおかげで、拳が交錯する一瞬が、知性も悟性も感性もない私のなかの理性(鏡の心)を鍛えてくれたのです。
一方的にぶん殴るのでは、学びにならない。互いにパンチを繰り出す一瞬にこそ、心がピュアになる。自分の拳がガツンと相手の面に当たり、同時に相手のパンチも自分の顔面に炸裂する。この正と負、陽と陰という衝撃が現実を見せてくれる、過去と未来をつなげてくれる。
(注)直面突き 前拳を打ってから後拳を打つという、ボクシングのワン・ツーパンチではなく、いきなり後拳だけを打つ。日本拳法の形では「敵のパンチや蹴りを避けてから打つ」というパターンがありますが、私の場合、敵のパンチを(sway backで)避けるとか、後拳で防御することはない。敵のパンチを自分の面で殺し(押し戻し)ながら後拳をぶち込む。ですから後拳の位置は(防御の役割もある)顎の下ではなく、助走なしで思いっきり拳を発射できる鳩尾でした。
そんな拳法でも最後は二段になりましたが、私にとっては、四年間の大学生活における約三千回の防具練習と、三十数回に及ぶ公式戦での「一瞬の拳の交錯」こそ、自分が自分である(あった)ことの証明なのです。
宮本武蔵の理性
武蔵は生涯六十数度の戦い(真剣勝負・果たし合い)を行い、そのすべてに勝利しましたが、勝利の再現性を保証したのは彼の理性でした。
剣一つの操作技術に精通していただけでは、六〇数人もの異なる人間と彼らの使用する様々な武器、毎回違う場所での戦いといった不確定要素を排除し、すべてに同じ結果(勝利)を出すことは不可能です。
※ 相撲で名高い双葉山が六十九連勝したのは、(当然ではありますが)戦う相手が同じ相撲取りであり、戦う場所は土俵で、ルールは同じという理由もあったはずです。七十戦目で敗れた時「いまだ木鶏たり得ず」と言ったのは「鍛錬が足りなかった」ということでしょうが、一ヶ月前の大陸巡業中、赤痢に罹患し寝込んでいたのに、この場所無理をして出場し、休場もせずにここまで頑張り通したのですから、やはり偉大な横綱といえるでしょう。※
剣技や兵法を再現性のある科学にするばかりか、その次元や位相までをも変えてしまう理性。武蔵の遺書ともいえる「五輪書」に私たちは、彼が「理」という語に込めた意味をしっかりと見るべきなのです。
じっさい、哲学者ではなく、実理(現実の戦いから得た道理)と再現性を追求したこの男は、ともすれば、抽象的な話になりがちな理性について、極めて具体的に述べています。
一つは「五輪書」第一巻「地の巻」に列記された、理性の鍛錬についての九箇条。もう一つは「五輪書」とは別に書かれた「独行道」という、理性の完成(理性を磨き出した者の境地・境涯)についての二十一箇条です。
武蔵は、理性という根本原理の作用があったからこそ「五輪書」に述べた様々な技法を科学として運用できた、ということを知らせるため、命のロウソクが燃え尽きようとする最後の最後(臨終間際)に、「五輪書」への画竜点睛として「独行道」を書き記したのです。
理性の鍛錬
一 よこしまになき事をおもふ所
二 道の鍛練する所
三 諸芸にさはる所
四 諸職の道を知る事
五 物毎の損徳をわきまゆる事
六 諸事目利を仕覚ゆる事
七 目に見えぬ所をさとつて知る事
八 わづかなる事にも気をつくる事
九 役にたゝぬ事をせざる事
覐「かくの如き理を心にかけて、兵法の道鍛練すべき也。」
理性の完成
「独行道」
一、世々の道そむくことなし
一、身に楽しみをたくまず
一、よろずに依估の心なし
一、身を浅く思い、世を深く思ふ
一、一生のあいだ欲心思はず
一、事において後悔せず
一、善悪に他をねたむ心なし
一、いづれの道にも別れを悲しまず
一、自他ともに恨み託つ心なし
一、恋慕の思ひよる心なし
一、物事に数寄好む事なし
一、私宅におゐて望む心なし
一、身ひとつに美食を好まず
一、末々代物なる古き道具所持せず
一、我身にいたり物忌みする事なし
一、兵具は格別、余の道具たしなまず
一、道におゐては死を厭わず思ふ
一、老身に財宝所領もちゆる心なし
一、仏神は貴し、仏神を恃まず
一、身を捨ても名利は捨てず
一、常に兵法の道をはなれず。
これら三十箇条による理性の鍛錬が、武蔵の人生における六十余度の戦いに負けなし、という勝利の再現性・戦いの科学に大きく貢献したことは間違いない。私たちも理性という観点から自分の人生を思い返すと、けっこう武蔵的なる部分があったりして楽しめます。二十代の人は「九箇条」をひとつの参考にして、理性というものを意識してみるのもいいかもしれません。
それにしても、何ごとも命がけ・実力本位の戦国時代と、実力よりも家柄や肩書きがものをいう幕藩体制という二つの異なる時代を生き抜いた男にとって、よく切れる刀とか有名な流派などというものは、ひとつの道具やハッタリ(虚構)でしかなかった。自分の中に確かに存在する理性こそが、究極の場面で頼りになるという武蔵の認識は、思いっきりぶん殴る日本拳法という、超現実の世界を経験してきた私たちには、よく理解できるのではないでしょうか。
カントの「純粋理性」
どこを掘っても自分たちの祖先が生活していた遺跡が出てくる中国とちがい、人種も大地もぐちゃぐちゃになった欧州では、自分たちのルーツを、遺跡として発掘することは不可能に近い。(困った白人たちは、全人類の祖先はアフリカだなんて、むちゃくちゃなことを言い出したのです。)
しかし、18世紀のドイツで、カントという哲学者は自分の血の中に、純粋理性という遺跡(自分たち民族の精神的原点)を発掘しました。純粋ゲルマン民族という極めて濃い血と(生化学ではなく)哲学で向き合い、その追求のプロセスをドイツ人らしく律儀に書き出したのが、「純粋理性批判」という本です。
私たち日本人が自分の心を鏡に映し、自分が確かに日本人であるという実感を得る(アイデンティティーの認識)ように、ゲルマン民族は(カント)哲学によって、自分たちの純粋な民族性を認識するのです。
カント哲学の威力
一般に、人文科学(哲学・文学など人間の内面性を追求する学問)は、自然科学や社会科学に比べ、金にならない・実用的でないとして軽視されがちです。
しかしながら、カントが哲学して磨きだしたゲルマン民族の純粋理性とは、その200年後、ジェット機やロケット、そして円盤(UFO)開発に実を結び、また「ドイツ参謀本部」というドイツ人の合理的思考は、アメリカで「Think Tank」という手法に変化し、ハーバード大学・MIT・NASAといった組織の商売道具(飯を食うための手段)となりました。
円盤とは優れた技術の成果であり、哲学とは関係ないと思うかもしれませんが、彼ら民族の純粋な血(純粋理性)を求める哲学あってこそ生まれた技術です。第二次大戦後、あらゆる大国が、ドイツ人の生み出した戦車やジェット機、ロケットやミサイルという技術を未だに乗り越えることができず、円盤の試作品さえ作れないのは、彼らに純粋理性と文学力という正反対の心が、インテリジェンス(知能)として具備していないから。それをごまかすために、月だ火星だと人々の目をそらす話題作りをやっているのです。
哲学に裏打ちされたナチスドイツの理知的な参謀本部と、でたらめな作戦ばかりで、敵軍の最高司令官から「子供」と酷評された大日本帝国陸海軍のそれとでは、全く別物の観がある。どんなに組織や制度を真似しても、実際にそれを運用する人間(エリートたち)の理性レベルが違うと(大日本帝国のように)全てが機能しないどころか、知識が凶器となって自滅してしまう。「バカの壁」という本には、「東大のバカ学生」という項目がありますが、知性(偏差値)の高い人ほどバカの壁も高く・厚くなるため、壁の向こうの現実が見えない(知識で勝てる世界から出ようとしない)。ゲルマン民族の優秀さとは、知性の高さに見合う理性を(カント)哲学によって鍛えている、ということなのでしょう。
中国人の理性
最近の日本でも、日本人としての存在を遡及する学問や、物事の根本的な部分を追求する基礎研究が疎かにされてきていますが、それは目先の技術を真似したり剽窃する方が合理的であると考える寄生民族的発想が増えてきているからです。その意味で、現在の日本は300年前のカントの時代と、よく似た状況になりつつあるといえるでしょう。
そんな「お子様ランチ」のような民族が繁殖する東アジアで、中国人だけは自分たちの力で西洋の技術を消化吸収した(明治時代には多くの留学生を日本へ送り込み、日本経由で西洋文明を学んだが)。そして、長い長い歴史の中で醸成されてきた理性と豊かな文学力によって、いまや欧米諸国を完全に乗り越えてしまった。
中国人の場合、なんといっても漢字こそが「理性を写し出す鏡」といえるでしょう。
森という漢字から現実の森をイメージし、実際の森を見て漢字の森に帰納する。英語ではtreeとforestは別の単語ですが、漢字では木が集まって林になり、さらには森になる。現実のものの姿と言葉が鏡のように反射している。漢字とは、あるものを指し示す単なる記号ではない。憂鬱の鬱なんていう字は、いかにも鬱陶しい・気が滅入る・心が塞がれるという人の心を、よく表現しているではありませんか。単にものの形を象った象形文字ではなく、その心(形而上的な部分)までをも人の心に写し出すのです。
歴史的に、インドと中国は、ともに英国によって侵略された過去を持ちます。19世紀、英国人が優雅に午後の紅茶なんぞを飲めたのは、インドの大地が「人骨で真っ白に埋め尽くされた」ほど、英国がインド人の富を搾取したからだし、英国人の持ち込んだ麻薬(アヘン)によって、中国人は一時期、心までボロボロにされた(反抗心を失わさせられた)。
しかも、イギリスという国は非常に嫌らしい国で、インドを放棄する時にはパキスタンを、中国から手を引く時には香港という爆弾(インドや中国を牽制する役割の国・地域)を置き土産にしていった。(同じアングロ・サクソンの米国は、日本の足を引っ張り、やがて飲み込む存在として、南北朝鮮という国を育てているわけです。)
インドも中国も、同じくらい徹底的に搾取され痛めつけられた国ですが、現在の両国を見比べてみれば、圧倒的に中国の方がバランスを取り戻している。インドは英国によってガタガタにされたままですが、中国は阿片戦争の頃、日本から「チャンころ→犬ころ」とバカにされるくらい駄目な民族に成り下がっていたのに、いまでは、世界的マスコミ(宣伝網)による情報操作以外では、完全に英米を凌駕している(日本はその英米の犬ころ)。また、中国の文化が根こそぎ破壊されようとした文化大革命の危機も乗り越えた(日本の場合、蛙がゆっくり茹で殺されるようにして、無国籍人による日本文化の破壊が進んでいます)。
欧米列強による植民地化も、自国の権力抗争による自滅の危機に際しても、大きく国が傾こうとする時には、必ず中国人一人一人の理性が働き、国家としてバランスを取り戻す。この中国人の理性とは、漢字の力によるところが極めて大きいのです。
人類史上、「火の使用」が物質的生活における画期的な発明であったとしたならば、「漢字の発明」とは、それに勝るとも劣らない(形而上における)偉大な発明といえるでしょう。ゲルマン民族におけるカント哲学と中国人における漢字とは、彼ら民族の理性を写し出す鏡なのです。
中国人の文学性
彼らは、あらゆる分野にわたり最先端の技術を持ちながら、中国各地に残る数千年来の伝統文化を、国家と大衆が大切に守り育てている。どこかの国の、間の抜けた国家戦略だとか法令なんていう官僚のお飯事ではない。いかにも中国人らしい、田舎くさくて泥臭いくて地味なやり方ですが、あくまで民主的・能動的・現実的、そして皆が楽しんでやっている。これこそ彼ら中国人の純粋血性(理性と文学性)なのです。
気が遠くなるくらい手間暇のかかる様々な工芸品(芸術)はもとより、日本ではとうの昔に無くなってしまった飴細工(熱くした飴に空気を吹き込み、はさみで切って動物や人形を作る)なんていう遊びの部類に入るような職人技術、田舎芝居のような地域芸能でさえ、住民と国家が大切に守り育てている。子供からお年寄りまで、みんなで楽しそうに伝統を継承している。「人間国宝」「世界遺産」なんていう「他人の認証」など要らない。自分たちみんなが認め、何の疑問も生活の心配もなく、楽しみながら一つのことに打ち込める世界。→「大陸尋奇」https://www.youtube.com/channel/UCXyzhBy7PVhd3JKyIB6ebEw 台灣電視公司制作
彼らはこれから先、五千年でも一万年でも、匂い立つくらい身体から発散される天然の理性と文学性によって、何十万とあるすばらしい伝統工芸や漢民族以外の民族文化をも、残し続けていくでしょう。無意味で金にならないことを、じっくりと時間をかけて丁寧にやる。国家のためとか、逆に個人の金儲けなんて眼中にない。そういう悠久の時間の流れと無限の空間のなかで、中国人は中国人であり続ける。これが中国人の文学性に育まれた純粋理性というものなのです。
理性への道
勝利の再現性を求めて理性を鍛え、生死の間に出入せしこと六十余度。最終的に行き着いた、色も匂いもない宮本武蔵という人間の純粋理性、それが「独行道」(を書き出した武蔵)でした。
殺し合いをせずとも哲学をしなくても、毎日の生活のなかで、漢字と自分の心との反射作用によって内なる理性を磨きだす。そして、発音記号でしかない他の言語と異なり、一つ一つの漢字に文学性がある故に、中国人の理性には心がある。(その意味で、中国が漢字を簡体字にしてしまったのは,少し残念なことです。)
ドイツ人カントは、ドイツ人の振りをしてドイツ人社会に紛れ込む異民族によってもたらされる魂の混乱(宣伝・広告という虚飾の繁栄のうらで、人の心をバラバラで不安定にする)のなか、自分の内なるゲルマン民族性を追求することで「無国籍人」と戦った。「純粋理性批判」という本は、自分たちゲルマン民族の原点(純粋理性)に遡行するための道案内なのです。
知性や悟性といった後付けの性向と異なり、理性とは「父母未生以前」から備わる本性であり、これを鍛えるとは、自分の根源的な存在を遡って追求することであり、となれば、その人の人生とは一度だけの閉じたものではなく、輪廻・魂のメビウスの輪となって、永遠に続いていくことになるのでしょう。
大学日本拳法で鍛える理性
理性の鍛錬といい、日ごろ武蔵が「五輪書」に示した「九箇条」を心がけていればいいわけですが、人の示した教条を口ずさみ、心に念じているだけでは宗教になってしまう。宗教で人は救われない。
まいにち殴り合える相手がいるというだけで、大学日本拳法をやる意義はとてつもなく大きい。そこで自分から前へ出て、踏み込んで飛び込んでぶん殴り合いをすることで、内なる理性を自分で鍛えることができるのです。
昇段級審査や大会の結果に一喜一憂するのも楽しいことですが、学校の授業ではもちろん、他のスポーツや武道、芸事・習い事とはひと味違う「面突きの一瞬」という貴重な鍛錬を通じ、いろいろな人たちと、頭(知性)ではなく心(理性)で接することができる自分を作り上げるというのも、愉快なことではないでしょうか。
理性というものをもう少し具体的に知りたい人は、ヒッチコック映画をご覧になるといいでしょう。なかでも、主人公が無実の罪(冤罪)で警察に追われるプロットの映画。主人公たちは、訓練された諜報部員でもなければ危機管理の専門家でもない、ごく普通の一般市民ですから、突然身に降りかかった危機を素人の機転とガッツで切り抜け、真実を突き止める(真犯人を捜し出す)。
そういう絶体絶命の状況にある人間が頼みにするのは、やはり(武蔵と同じく)理性なのです。
ヒッチコックの冤罪もの三選
「三十九夜」「海外特派員」「逃走迷路」
なお、これはあくまでも、学校の授業で知性をつけ、ゼミやアルバイトといった場で悟性や感性を豊かにすることができる大学生活において、唯一鍛錬する場が少ない理性を日本拳法で、という話です。
私の場合、特に大学卒業後は、理性(ガッツと気合い)ばかりで知性(知識と教養)はゼロ、若干の悟性(理解力)と感性(感受性)で前へ出るという、私の日本拳法と全く同じスタイルの人生になってしまいました。
根性と気合いばかりとは、いかにも「体育会系バカ」ですが、当時、私がいた半導体製造装置業界と、世の中が活気のある(戦国)時代でしたので、このノリで押し通せました。また、商社ですから知的人材も豊富で、そういう知性集団と仕事をするには、むしろバカの方が良かったようです。 そして、何ごとも心で押しまくったがゆえに、営業成績という数字(記録)よりも、心に残る強烈な思い出(記憶)となりました。
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