第8話  日本拳法の面白さとは

  日本拳法とは、剣道や柔道あるいはボクシングといった、近・現代的な格闘技がごちゃ混ぜになったスポーツである。見た目は確かにそうだ。

 だが、日本拳法を実際にやった者からすれば、むしろ相撲という、三万年の昔から日本列島に住む縄文人が行ってきた「神を目指す競技」が、そのベースになっていると考えた方がmake senseである(納得がいく)。目に見える「戦いの技術」よりも、より原始的で根源的な「戦いの精神」が重要なスポーツであるからだ。


 日本拳法の面白さを知ろうとするならば、相撲の面白さを知るのが近道だろう。

 戦う精神相撲とは、いわゆる「格闘技」ではない。二人の人間が死力を尽くして戦ったすえに神と出会うことを目的とした、いわば、神聖な行事である。

 戦いといって、人間はその誕生の時、精子同士で競い合い、勝ち残った者が人間になれた。戦う精神とは、神が人間に与えてくれた第一番目の機能・能力であり、これを使って人間は、細胞から人間の姿に生まれ変わることができたのである。

 相撲とは、そういう意味での「戦いの精神」が原点になっている。

 だから、相撲では敵をノックアウトすることを目的としていない。相手を土俵から追い出したり、相手の手を地面に付かせることで勝利とする。

 二人の男が走って、ある目的地まで行く競争をしている。競争相手を殺してしまえば話は早いが、相撲とはそうではない。相手を目的地までの道から脇道へそれさせたり、しりもちを付かせている間に、自分が先に到着しようとする。

 それはまるで、寓話「うさぎと亀」のようであり、運動会における「障害物競走」のようだ。

 障害物競走では、網の中を潜る時、わざと先に敵を潜らせて、そのすぐ後ろから網の下をついて行き、網から出る瞬間、一気に目の前の敵を抜き去るというような工夫が必要だ。単に走るのが速いだけでは勝てない。「場と間合いとタイミング」が勝負の鍵となる。

 ちなみに、東洋大学OBである故植木等氏はユーモアを交えてこう歌った。「人生で大事なことは、タイミングにC調に無責任」と。C調とは相手との心理的な間合いのことであ り、無責任とは場を移動して自分の所在をごまかすこと。つまり、単に記憶力がいいとか、足し算引き算ができるといった「頭の良さ(ハードウェア)」だけで は人生に勝てない。あなたのハードウェアを効果的に運用するための思考(ソフトウェア)の方がむしろ大切なんだよ、と。

 相撲とは、見た目は相手を攻撃してぶっ潰す騎馬戦でも、戦いの精神においては障害物競走と同じ。場と間合いとタイミングで敵を出し抜き、相手の気づかない ところで勝負をかける。二人の男による力比べのように見えるが、相撲における戦いはプロレスと違い、目に見えないところで行われている。相手の呼吸をとらえ、気の陰陽を読み、力の入れ具合の裏をかく(先の先をとる)ことで、結果として、一〇〇キロもある巨体を投げ飛ばしたりするのである。

 その意味で、真に相撲を楽しもうとするなら、テレビではもちろん升席でさえもの足りない。できれば、砂かぶり席という、彼らの息づかいや気迫が実感できる場所がいい。技をかけるタイミング、敵の攻撃を外す呼吸、押しながら引く、引きながら押し込むという、そのギリギリの境目に、相撲の面白みが存在するからだ。テ レビの画像ではとらえることのできない、こうした「内面の気」を楽しむには、近くで見るのが一番なのである。



 神なる境地

 相撲でも他の武道においても、人間離れした技を見た瞬間、私たちはそれを「神業」といって称賛する。人間にはなかなかできない神のような行為に人は憧れるものだ。目に見える美しい技そのものよりも、その人が懸命になって心を一点に集中し、人間的な煩悩(人間臭い考え)から離れた境地に達した瞬間を「神々しい」として讃えるのである。

 これは何もむずかしいことではない。私たちがハイキングに行って汗をかき、山の尾根から景色を見ながら深呼吸して清々(すがすが)しい気持ちになることも、あるいは教会で賛美歌を歌う心地よさも、そして、相撲で素晴らしい一瞬を見てスカッとするのも、みな同じ「神を見た」体験なのである。

 相撲とは、単に人間的な腕力で相手をねじ伏せたり、殴り倒すことをみるだけのスポーツではない。人間的な力比べではなく、相手よりも研ぎ澄まされた神のような感性で場を読み、一瞬の気(勝機)を事前に感じ、コンマ一秒先を読む決断力で相手を抜き去る。そういう内面的な力比べを競うスポーツなのであ る。

 相撲の稽古場や国技館には、必ず神棚がある。それは、自分自身で神(的な感性になること)を目指す、という心意気を示す「印」である。柔道場や剣道場でも同じで、稽古に打ち込むことで人間的な煩悩から離れた神の境地に近づこうとする。それを自分の心に暗示をかけるのである。その意味で、キリスト教や仏教における偶像崇拝的な祭壇や仏壇とは違う。

 日本では昔から、子供でも大人でも、ひまがあるとよく相撲を取った。相撲の持つそういう面白さを、日本人は味わうことができたからだ。地面に丸い線を書き、腰にベルトでも紐でも巻けば、どこでも相撲ができる。体の大きい者が勝つとは限らない。非力でも機転が利く者や、相手の心を読んで即座に行動できる者、強烈な闘争心を持つ小兵の方が強かったりする。体力や頭の善し悪しではなく、性格や感性といった学校のテストでは測れない能力を試し涵養する場とし て、休み時間や昼休みの相撲というのは、私たち日本人にとって大切な学びの場であったのである。

 零戦パイロットであった故坂井三郎氏は、子供のとき、「チビ」の部類であったが、相撲には強かったといい、その秘訣は気迫と閃き(インスピレーション)であったという。



 日本拳法 - 人間の器量を鍛える -

 こう見てくると、日本拳法とは相撲によく似ているという考えは、それほど突拍子もないことではないと理解できるだろう。

 組んで投げるという相撲の攻撃のしかたよりも、むしろ突っ張りの方が日本拳法では主流であるという程度の違いでしかない。相撲も日本拳法も、戦う人間の精神的な充実度が勝負の重要な要素であり、この二人の内的な葛藤を見て(感じて)楽しむスポーツであるという点では、全く 同じ。 アーチェリーのように、的に当たった矢の数で勝負するというよりも、日本の弓道のように、矢を射る人間の姿勢や呼吸、物腰の美しさを「勝負のポイント」とする。これが相撲や日本拳法における「価値」といえるのである。

 弓道とは腕力や小手先の技術を競うスポーツではない。自分の呼吸と周りの空気の流れを瞬時に読み、絶妙のタイミングで弓を放つ。目に見えない空気との間合いと、射るタイミングが勝負どころ。射手の精神の統一と拡散のコントロール、彼・彼女を取り巻く空気を逆に彼らの内へ引き寄せる強力な精神力を競うのである。

 的に当たった矢の数とは、彼らの精神力を測る目安ではあるが、完全な一致とは言いがたい。精神的な充実度・満足度を大切にする弓道とは、勝者と敗者との明確な線引きがしにくいスポーツであり、その意味でアーチェリーとは楽しみ方を異にする、きわめて日本的なスポーツ(武道)なのである。


 日本拳法とは、円の中で二人が戦うのだが、この戦いにノックアウトは要求されない。ボクシングのような激しいパンチの連打や、キックボクシングのような派手な回し蹴りの応酬、空手における煉瓦を砕くほどの破壊力ではなく、あくまで「場と間合いと拍子」によって「敵の攻撃を自分の攻撃に転換する」内面的な力が試されるからだ。相手のガードしていない部分、敵の攻撃の陰(虚)を突く。そこが勝利(判定)のポイントなのである。

 日本拳法の判定は、相撲の行司ならぬ一人の主審と二人の副審によって行われる。行司と同じで、主審は選手に殴られるほど近くにいて、彼らの気迫・気根・心のリ ズムを見て(感じて)いる。特に、日本拳法の突きという攻撃では、コンマ一秒の間に勝負が決まる。選手の体が動くのを目で追っていては判定が後追いになる。だから、肉体を動かす気の動きを事前に察知するために、なるべく選手の近くに立とうとするのである。

 相撲でもそうだが、日本拳法でも本当に素晴らしい「神技・神業」と呼ばれるような攻撃は、肉体的な力以上に、技をかけるタイミングが素晴らしい。一瞬のタイミングによって、敵の攻撃をまるで鏡に反射させるかのようにして自分の攻撃に変換して相手に返す。その姿は、人間の筋肉を使った美しさではなく、内面的な筋肉の美しさを見るかのようだ。

 拳で突くといって、力任せのメガトンパンチというのではなく、場と間合いと拍子がピタリと一致した、ごくごく自然で力の入っていない(ように見える)突きが、日本拳法では評価される。その三つの要素がかみ合った時に生じる美しいハーモニーに対して、審判は「一本」という旗を揚げるのである。


 日本拳法とは、いわばその人間の器量を鍛える、あるいはそれを観るスポーツである。

 つまり、「あの女の子は器量良しだ」という場合、その娘の顔かたちの美しさだけでなく、彼女の内面的な精神の働きと、そこから生まれる優雅な立ち居振る舞いもまた、重要な評価ポイントなのである。

 私たちが日本拳法をやる目的とは、運動部としての苦しい練習によって体力や根性をつける(増強する)だけではない。

 重くて不自由で息が詰まって死にそうな防具練習の中、殴る爽快感と殴られる恐怖という両極端、この天国と地獄の境目に生じる究極の緊張感に耐えることで、社会的な人間ではなく生き物としての人間の器量が鍛えられるのである。

 日本拳法の強さというのは器量の良さのこと。美しい面突きとは、「場と間合いと拍子」という三つの内面的な要素が相互の葛藤を克服し調和した結果である。

 この点を理解することで、日本拳法というスポーツ(武道)をさらに楽しむことができるだろう。


 日本拳法の試合を見るのは無料である。誰もが間近で、選手の呼吸を見ながら観戦できる。そして、選手の内面の充実から生まれた美しい面突きを見る者は、選手の心と自分の心とが一体化することによって、純粋でストレートな心になれる。これこそが、スポーツを行う者と見る者とが精神的に一つになるということで あり、スポーツの大人の楽しみ方、武道の本当の面白さがここにある。

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