第7話 東洋大学日本拳法部 名言集
「日本拳法ってのは、オナニーじゃねえんだ」
昭和五十二年、東京都文京区にある富坂警察署で行われた昇段級審査のあとで、当時コーチでいらした出町安雄先輩(昭和四十四年度卒)が、おっしゃった言葉。
日本拳法とは相手がいるスポーツであり、「敵と拍子(呼吸)を合わせながら、最後のところで勝つ」大切さを説かれています。大変わかりやすい言葉を使い(腰まで使って見せ) 、勝負の真髄を的確に表現されています。「夜の最高師範」 ならではのお言葉です。
「なに、熱が四十度ある? 練習すれば治る」
昭和五十一年、当時二年生の松原太(昭和五十三年度卒)先輩が、主将の山根徳之(昭和五十一年度卒)先輩に風邪のため練習を休ませてほしいと、体温計持参で懇願した時の冷たいお言葉です。
先輩は熱で真っ赤な顔をされてフラフラの状態で練習に参加し、防具練習では一年生にまでボコボコにされていました。練習後、這うようにして部室を出て下宿へ帰る先輩を見送りながら、これで先輩が死んでくれればクラブは活動停止になって楽になれる、と皆で喜んでいましたが、なんと翌日、本当に元気になっていました。
現役のみなさんは、こういう練習は危険ですので、くれぐれもしないようにして下さい。
*** ただし、私自身はそれ以来、社会人になってから今まで、風邪をひいたらサウナで汗をかく。サウナがない時には
厚着をして布団にくるまり寝て汗をかく、というやり方で風邪を治してきました。汗と一緒に風邪の菌は体の外へ出る
。これが風邪とその治療に対する、私の「信仰」です。***
「なんでもいいから、ぶっとばせ」
「ケンカと同じだ」
昭和五十一年春のリーグ戦で、メンバー不足から、当時一年生の私(五級)までもが試合に出場しました。四月に入部した時、「新入生のみなさん、日本拳法は ジェントルマンのスポーツです」とおっしゃっていた松本芳久先輩(昭和五十一年度卒、副将)が、その時、リング下から叫んだアドバイスです。
初めてリングに上り、すっかりあがってしまった私は、先輩の言葉を真に受けたわけではありませんが、誤って金蹴りを入れてしまいました。股間を蹴られた相手は戦意喪失してしまい、そこへラッキーパンチが当たり、結果として私が勝ってしまいました。先輩は「よし、やればできる」などと、誤解されるようなことを言っておられましたが、あれが私の公式戦初勝利というのは複雑な思いです。
現役及びOBのみなさんは、こういうアドバイスはしないようにして下さい。
「平栗! これこれ」
昔は、土曜日に白山から上野公園までよくマラソンをしました。動物園の前の大きな噴水。その脇にある広場で、筋トレ、突きや蹴り、気合練習などをします。そして、ひと通り練習が終わると、必ず松本先輩がこう言ってタバコを吸うまねをします。
タバコをもらってこいという合図です。「もらう」と言って、早い話が恐喝のようなものです。
俗に土方タバコと呼ばれる「若葉」とか「いこい」だと先輩に殴られるので、木陰のベンチで愛を語らうアベックや人の良さそうな紳士のところへいき、セブンスターや洋モクを恵んでもらいます。
中には、一箱丸ごとにライター付きで、それこそ投げ出すようにして逃げていく人もいました。 ある時など、蛇皮の靴を履いた「浅草のお兄さん」風の方々に間違って声をかけてしまい、騒動になったこともありました。
一時期、私は禅寺の坊主をしていましたが、托鉢や葬式で善良な人々からお金を貰いながら、「これは、つまり" 煙草をもらう " のと同じではないのか」と、しばらく良心の呵責に苦しんだことがありました。
しかし、松本先輩の、あのうれしそうな笑顔とうまそうに煙草を吸うお姿を思い出し、損する人もいれば得する人もいるのだからいいのかな、と「悟り」ました。上野公園での「修行」が生きたわけです。となると、松本先輩は私にとっての「師匠」なのだろうか。
「ニチボーの女子バレー部に比べれば、お前らのやってることなんか遊びみたいなもんだ」
昭和五十一年の夏合宿での伊沢次丸先輩(昭和四十七年度卒 当時コーチ)のお言葉。
当時は月曜から土曜まで毎日十二時〜十四時、時には十五時頃まで練習をしていました。約一時間の筋トレ・打ち込み稽古で精根尽きたあとの地下練習場での防具練習は、特に夏場は蒸し風呂のようでした。それが合宿になると、防具練習が三時間、四時間にも及びます。それでも遊びだというのです。
世界選手権、東京オリンピックを制し、二十世紀最強の女子バレーボールチームといわれたニチボー貝塚は、毎日会社が終わった夕方5時から深夜2時3時まで練習したそうで、確かにそれに比べれば、時間的には微々たるものでした。しかし、重い面を着用しての戦いは、日本拳法ならではともいうべき独自の精神世界がありました。
伊沢先輩は昭和四十七年の関東個人選手権において中量級優勝、同年全日本選手権の重量級で三位になられた方ですから、我々とは練習に対する取り組み方がちがうのです。
「絶対に目を瞑(つむ)らなかった」
昭和五十四年、伊沢先輩が一人でマッチョマン三十人を相手に、蒲田の繁華街でケンカをした時に。
先輩は八人まで面突きで倒されたそうですが、酔っていたせいもあり、とうとう両脇からつかまれてガードレールに押さえ込まれ、全員から顔面に蹴りを入れられたそうです。
しかしその時、目をしっかり開けて相手の蹴りを微妙に避けたため、目と歯は無事だったということです。その代わり、あの気丈な先輩の奥さんが絶句したほど、その顔は「エレファントマン」になっていたそうです。
宮本武蔵は「五輪書」で「瞬きをするな」と言いましたが、こういうケースもあると知りました。
よい子のみなさんは、絶対に真似をしないで下さい。
「素晴らしい練習だ。こんないい稽古は見たことがない。これだけやれば、もしかしたら・・・ 」
伊沢先輩が学生の練習を見ての、お言葉。
(OBのみなさん、信じられます? あの伊沢先輩がこんなことをおっしゃるとは!) (でも、本当なのです。)
昭和五十五年、六月のある金曜日の夜。場所は大学の隣にある京北学園の柔道場。
この日は、日曜日に控えた春期リーグ戦・決勝リーグのための強化練習。その最終日でした。夜六時半から始まった防具練習は、八時になっても終わる気配がありません。誰も防具を外そうとしないのです。
九時近くになると、副将の小松が「先輩そろそろ」という合図を送ってきます。しかし、順に二年・三年生が防具を外しても、小松や同じく副将の安本、三年の池田らはもう一本お願いしますといって食い下がってきます。技術的な手応えを得るのではなく、精神的な確信を求めて戦いを続けようとするのです。
やがて九時半を回ったころ、小松と私の稽古を最後に、ようやく強化練習は全日程を終了しました。
伊沢先輩のお言葉は、この時に戴いた講評です。
二日後、東洋大学日本拳法部は、誰一人として予想しなかった、関東リーグ戦一部優勝を果たしました。私は先輩のこの言葉に、勝負師としての眼力を見ると共に、この時の練習における精神的な爽快感を、はっきりと記憶しています。コーチ(指導者)の満足感と部員の充実感がピタリと一致したという点に喜びを感じます。優勝トロフィーよりも、この言葉こそが私たちの勲章なのです。
しかし、そんな伊沢先輩が、なぜ、競馬では予想が当たらないのか不思議です。
( 練習そのものというよりも、あの時の雰囲気を、先輩は評価されたのでしょう。目に見えないムードというものこそ、アマチュアスポーツで最も大切な武器であり、また目的そのものといえるのではないでしょうか。金ではなく精神的な満足感。金とではなく(仲間、そして対戦相手との)心の一体感にひたる幸せこそが、アマチュアスポーツの醍醐味なのです。)
「みんな、明るい青春を謳歌しよう」
こういう歯の浮いたようなセリフが言えるのは、昭和五十四年度卒の桜井俊之君だけです。ただし「純真さ」というのは、拳法が強い人に共通する要素の一つでもあるようです。
当時は、鎌倉を舞台にした青春ドラマ「俺たちの旅」が、若者に絶大な人気を博していた時代でした。
「俺は一生青春だ」
昭和五十一年の夏、松本先輩と一緒に伊沢先輩の工場でアルバイトをした時、伊沢先輩が私におっしゃられた言葉。
たしかに、三十歳で三十人相手にケンカするなど、十分青春されています。
しかし、この「青春」が意味するのは、単に若いとか未熟であるということではないのです。
人間誰しも大人になるにつれて、小利口になっていく。柔軟でストレートな心を失っていく。自分の心をごまかそうとする。「嘘も方便」と自分に言いわけをして練習を怠ける。何ごとも中庸(ほどほど)がいいなどと自分の心をごまかして、きつい練習を逃げようとする。
そういう弱い心に対する自分なりの危機感であり、後輩の私に対する警鐘であったのだと思います。
青春という言葉には、苦しくてもバカ(青春の心)になって、遮二無二(しゃにむに=がむしゃらに)やってみろ。途中で止めるな徹底的にやれ、面倒くさがるな、頭で考えるな、体を使え、という沢山の励ましがぎっしり詰まっていたわけです。
「やると思えばどこまでやるさ。それが男の魂じゃないか。・・・なまじ止めるな夜の雨」(村田英雄「人生劇場」)。
結果として、私は青春しきれなかったので、強くなれませんでした。
「オレはよ、深谷のペーターでよ」
ペーター(Peter )とは、「アルプスの少女ハイジ」のボーイフレンドの名前です。
牛飼いとか酪農家と言わず、横文字を使って自分のイメージを向上させる。
これが昭和五十四年度卒、原浩君(財務)の「決め技」でした。
卒業後は、つなぎを着て毎日乳しぼりをしているのかと思いきや、一年後、結婚式に呼ばれてみると、相手は「自動車会社の同僚」の女の子。「白い長靴はもう似合わない」などと言って、革靴はいてネクタイなんかしめ、結婚相手を捕まえるとさっさと会社を退職。
どんくさい顔をしているくせに、手が早い、やることにそつがない。今では、いつのまにか別の大企業にもぐり込み、お茶汲みの女の子にちょっかいを出しているとか。
爽やかに愛だの恋だのを語るトロくさい同期の桜井など及びもしない、超現実家の埼玉県人です。
「なんで面を取らないんだ」
昭和五十二年秋の新人戦(五人制)。前四人で勝負が決まってしまったため、大将戦に出た私は、勝負にこだわらずに思いきりやってこい、という言葉を背に受けて試合に臨みました。
相手は図体がでかかったため、まるでだぼハゼ釣りのごとく面白いように胴突きがポンポン決まり、もう少しで圧倒勝ちというところまでいきました。これだけ ポイントを取ればウチが負けた分の意趣返しになるだろうと、意気揚々と引き上げてきた時、監督の長澤先輩から言われたのがこの言葉でした。
確かに、胴突きというのは小柄な選手が居合抜きのようにして決めるところに意味があるのであって、私のような長身の者が多用すると、かえって卑屈に見 えてしまう。私としても、安物のパンツの、さらにそのバーゲン品を買いすぎて持て余したような、後味の悪い勝利でした。
相手の顔面を、思いっきりぶん殴れる爽快感。ここに、格闘技としての日本拳法の醍醐味と、武道としての学びがあるのです。
「御礼参りです」
昭和五十四年度卒の小松幸弘君(副将)が、卒業に必要な単位の取得が危ういという時に、 菓子折りを下げて教授のところへ訪問したときの言葉。
菓子折りを出すときに、出刃包丁をぽろりと落とすところがミソだということです。
帰り際、大きな声で「ごっつぁんでした」も忘れずに。
「OB ? 口はいいから金を出せ」
現役時代からOBと間違われるほど老けていた、昭和五十四年度卒の杉山眞樹君(東洋大学体育会委員長)の言葉。
彼は一年浪人して立教に受かったとき、二浪すれば早稲田に行けると皮算用して入学を辞退。けっきょく滑り止めの東洋しか合格しなかったという大バカ者です。
入学して二号館の屋上から飛び降りようとしていたところを、昭和五十三年度卒、社会福祉専攻の北崎先輩に保護されて日本拳法部に入部しました。
むしろ、こちらの方が彼の人生を狂わせたのではないか、と言われています。
「最後は一人」
卒業時の色紙に書かれた、伊沢先輩(昭和四十七年度卒)のお言葉。
日本拳法とは孤独なスポーツです。リングの上に立てば、同期も先輩も後輩も誰も助けてくれません。野球やサッカーやラグビーのような集団競技としての一体感はありません。
しかし、「One for al l . Al l for one」(仏小説「三銃士」のテーマ )にいう、何者にも冒されない個人の自由と強力な連帯感は、日本拳法にもあります。
一対一の戦いにおける強烈な孤独感と、それゆえにこそ生まれる、薄っぺらな偽の友情を越えた純粋な魂の結びつき。
これもまた、日本拳法における貴重な体験のひとつなのです。
教会に行かずとも、私たちは道場という神聖な場で、且つ賛美歌を歌う代わりに「ファイト・ファイト」とばかでかい声を出すことで、仲間との一体感に浸ることができた。防具を付けた姿はどんくさくて、まるでロボコップのようだが、戦う二人の精神はきっちりつながっている。自分の体でぶつかり、ぶん殴りぶん殴られをやっていれば、おかしな話だが、それが互いのコミュニケーションになった。殴り合いというのは相手の性格までわかるものだ。ヘラヘラお愛想を言い合ってじゃれつく友情なんぞより、よほどタイトな心で結ばれている。
また、私たち凡人は、たとえ「神業」ができなくても、殴るか殴られるかというギリギリの所に自分の心を置くことで、何となく「(日本的な)神」の存在を感じることができたのである。
試合が始まれば最初から最後まで自分一人。でも、一人であるからこそ、目の前の敵に心を集中し、その集中力が雑念を払い、ピュアな心にしてくれる。そして、強烈な孤独感はまた、強い連帯への源でもある。
私たちは独りではあるが一人ではない。孤独に徹すれば、 見えなかったものが見えてくる。あるいは、肉体的には孤独でも、魂のレベルでは大勢の仲間の存在を感じることができる。
「一人は全員のために、全員は一人のために」という犠牲と協調の精神とは、真に個の自立を達成した人間こそ協調できる、という前提を踏まえての話。 日本拳法における孤独な戦いという鍛練は、私たちが安易に世論・大衆に取り込まれ、烏合の衆となる危険から救い出してくれる道でもあるのです。
「道を求めて止まざるは水なり」
卒業時の色紙に書かれた岡本隆爾(昭和五十年度卒)先輩のお言葉です。
岡本先輩は、高校卒業後しばらく社会人をなされ、東洋大学に入学された時点で四年生よりも年上でいらしたそうです。当時の日本拳法部とは、昔の日本の軍隊のような超封建的な上下社会です。そういう環境で自分よりも年少者に仕えるというのは、精神的にかなり苦痛であったと想像できます。
宮本武蔵の「五輪書」に「水は方円の器に随う」とあります。
自分を水と考え、目的達成のためにはどんな入れ物にも自分を合わせる器量と度量が必要である、ということを自戒 とされていたのでしょうか。
岡本先輩は、昭和五十年の全日本選手権の重量級で、準優勝されました。
「焼き加減はいかが致しましょうか」
「生肉でお願いします」
かつて、幹部交代は巣鴨のキャバレーに行くのがお決まりでした。
しかし、キャバレーでの「虚構の愛」を好まない昭和五十四年度卒のキャプテン桜井君の意向で、次代の幹部中村たち六人との交代儀礼は、レストランでフルコースを食べながら、ということになりました。
場所は、有楽町の朝日新聞社七階にあった高級レストラン「アラスカ」。
メインディッシュのステーキについて、ウェイターと小松幸弘君(昭和五十四年度卒)の会話です。
四つ足のものであれば机と椅子以外なんでも食べるといわれたほどの健啖家でもあり、 「食べちゃうぞー」というのが、飲み屋で隣に座った女の子に言う彼の決まり文句でした。
ああいうフォーマルな席で何の迷いもなく、きっぱり「生肉」と言えるところに、坂本龍馬を彷彿とさせる土佐のいごっそう(頑固で一徹な性格)である彼のいさぎよさ、日本拳法らしいストレートな心が感じられます。まことに奥ゆかしいエピソードです。
「日拳やってりゃ偉くなれるのかよ」
昭和五十四年度卒全員の言葉
ここが、小学生に日本拳法を教えるのと、大学生相手に教えるのとの違いです。
小学生はこんな質問をしません。しかし、大学生とは頭で一旦納得しないと行動しない。そうでなければ大学生ではないのです。
西洋における大学とは、国王・貴族・宗教という「権威」に対する不信感から生まれました。彼らのいうことを鵜呑みにしていないで、自分自身で聖書を読み、自分で真理を探求しよ う。大人のいう常識や迷信を疑う、権威に懐疑的になる、自主的に勉強する。それが本来の大学生であり、そういう姿勢でやってきたのが西洋の大学です。
あの東洋大学でさえ、創設者の井上円了は「お化け博士」などとバカにされていますが、日本古来の迷信やおかしな「常識」、あるいは、なんでもかんでも西洋のものを受け入れる当時の日本人に疑問を抱いたところから始まった学校なのです。
大学生にもなって、ケンカに強くなるために日本拳法をするのではありません。アルバイトやデートをする時間を割いてまで日本拳法をやる意義は何なのか。たとえ普遍的な解でなくとも、個人的に納得したいのです。日本拳法が宗教でもなく国家資格でもないならば、一体何のためにこれをやるのか。そこが終着点でもある原点を明確にしておきたいのです。
「大学で日本拳法を一生懸命やることの意義」を後輩に納得させるには、自分なりのきちんとした理論を持つことが大切なのではないのか。昭和五十四年度卒の部員たちは、「曖昧な精神論」に対して、心の中でそう反論したのです。
もちろん、「大学時代、毎日汗を流して気持ちよかった。」だけでもいいのです。
自分が自信を持って、今のそして過去の大学生活を語れるようになることが大切なのではないでしょうか。
「苦しそうな顔をするな」
殴ると思った時には、すでに相手を殴りとばしている。それくらい隙間のない、 肉体と精神の一致を求めるのが日本拳法の目的ではなかったのか。
苦しい時にそれがそのまま表情に出る。そうでなければ、心と体の「無念無相」(宮本武蔵「五輪書」)という境地に至り得たと言えないのではないか。
しかし、試合中はもとより練習中であってもヤキをもらっても、たとえどんなに苦しくても、暑くて死にそうでも倒れそうでも、私たちはそれと全く逆の涼しい顔をしていなければならなかった。
それはまるで、相撲取りがインタビュアーからなにを聞かれても、無表情で「ごっつぁんです」としか言わないのとよく似ている。自分の感情を表に出すな。能面のごとく無表情であれ。(最近 - 2019年 - の相撲取りは、ペラペラよくしゃべる人が多いですが。)
道場であるいはリングの上で真剣勝負を行った日本拳法人であれば、その理由は言わずともわかるはずだ。
決して強がりでもハッタリでもない。勝負に勝つためのポーカーフェイスでもない。日本人の、武道としての精神性がそこにあるのです。
「なぜお前はそこにいるのか」
まるで禅問答のようなこの問いに答えられる人がいるだろうか。
三十年前、三堂地克太郎君(昭和五十四年度卒)は、この言葉の前に一瞬、たじろいだ。
フランスの哲学者デカルトは、一切を疑うことから始めた。
すなわち、「自分は本当は存在しないのではないか?」「自分はなぜここにあるのか?」と自らに問いかけ、その結果、存在を疑う自分自身は確かに存在する、「我思う、故に我あり」というひとつの境地に至ったのです。
早い話、新しい学問が世の中をむずかしくしてしまったということ。
殴られれば痛い、殴ればなお痛いという、超現実の世界に生きる私たち日本拳法人には、頭で考える神や哲学など用はない。殴り合いの痛みが自分の存在をハッキリと認識させてくれるのだから。
今、目の前にいる敵にいかに殴られないようにするか、逆にどうやってぶん殴ってやろうかを考え、即、行動に反映させる。それこそが、日本拳法における「身体全体を使う哲学」なのです。
かのフランス人も殴られる痛みを知っていれば、もっと簡単に問題を解決できたにちがいない。
ところで三堂地君のことであるが、これは彼が毎日家から学校へ通う際に利用する西武新宿線新井薬師駅での出来事であった。
夕方の六時、大勢の人が行き交う改札口でばったり出会った関西出身のその友人は、池袋に住んでいるはず。それがど
ういうわけか「そこにいる」。しかも、三堂地君の疑問をそのまま、彼に投げかけたのである。
「なんでお前がここにおるんや」
「ここは俺のヤサ(ホームグラウンド)だ。俺がいるのは当たり前じゃないか。」
即座に、そう答えるべきものを、彼は一瞬、さっき大学で受けてきた哲学の授業を思い出し、いささか現実と学問とを錯綜したのである。
今でこそ「金融道」という超現実の世界を迷いなく生きる三堂地克太郎君、若かりし頃の逸話である。
なお、その友人がそこで「誰を待っていたのか」は、永遠に謎である。
「はよう来んかい !」
こう叫びながら、坊主頭で、手が釣り針で傷だらけのいかつい男は、高知名物さわち料理にあるでかい鰹(かつお)の頭をつかむと、それを新郎に投げつけた。
土佐は高知の中村市。招待客の多くが漁師や木こりという、小松幸弘君(昭和五十四年度卒)の結婚披露宴である。 会場は、あの坂本龍馬も訪れたことがあるという、映画「極道の妻たち」に出てくるような、格調高い木造二階建て料亭の大広間。
招待客は二百名という話であったが、途中から式に関係ない浴衣(ゆかた)姿の人まで来て飲み食いしているので、結婚式なのかどこかの健康ランドの宴会場なのか、わけがわからない。
なにしろ、披露宴が始まる前から会場のあちこちで酒盛りが始まっており、新郎新婦がキャンドルサービスでテーブルを回る時点で、もうすでにみんなヘベレケ。仲居さん(給仕のおねえさん)まで酔っぱらって、舞台の上で歌いだす始末。
さて、投げつけた鰹の頭は、数メートル先でキャンドルに点火中の、新郎のこめかみに命中。会場のあちこちから「お見事!」「子供が見ていなかったから、もう一度」という歓声があがる。 しかし、日本拳法では、殴られ強さで全日本まで行ったといわれる小松君。二発三発と鰹やサザエの殻が頭に当たり、額から血を流しながらも笑顔を絶やさないところはさすがである。私たちの席まで来たときには、プロレスの流血男アブドラ・ザ・ブッチャーのように顔面血まみれであった。
一方、純白のスーツに真っ赤な蝶ネクタイ姿で、赤ずきんちゃんのような新婦と人力車に乗って登場した、埼玉のペーターこと原君。まるで天使のように、真っ白な煙に包まれて天使のように天井から舞い降りてきた、三堂地君。どこぞの襲名披露のようなおごそかな(恐ろしい)雰囲気で、飯も喉に通らなかった小山(おやま)君の結婚式。
かれらの結婚式を見た私は、オレは死んでもこんなものはやらないぞ、と心に決めたのでした。
「相手のパンチが止まって見えた」
「悟りをひらいた」といって、それがどんなものなのか、本当にそうなのか、誰にもわからない。
だが、柿やリンゴの実が熟したということは、色や形によって、そしてなによりも、木から落ちるという事実によって知ることができる。
では、日本拳法が強くなったということを、日本拳法らしさが身についたということを、私たちはどう「自分で」知ることができるのか。
無敵ではなかったが、敵を選ぶことのなかった青春のストリートファイター伊沢次丸氏(昭和四十七年度卒)は、相手のパンチの見え方で自分を知った。
日本拳法という特異なスポーツ(武道)で 我々が鍛えてきたものは何か、と問われれば ここに行き着く。相手と自分のパンチが交錯する「一瞬を見る」力である。
日本人黒澤明( 映画監督)は、「黒澤映画」ともいうべき独自の世界を生み出したが、それは 彼が若き日、厳しい剣道の鍛練を通じて涵養したこの力による。
動いていながら止まり、止まる姿に動きがある。喜びと悲しみ、怒りと笑いが表裏一体となってこそ、真のリアリティがある。それを映画という虚構の世界で表現したのが彼の映画である。
黒澤は映画のことを「写真」と呼んだ。 それは彼が映画というものを、写真の連続としてとらえていたからだ。 黒澤映画とは、黒澤明という真実を見る達人によって切り取られた 、俳優たちの一瞬の表情、一瞬の真実の記録である。現実世界にあるコンマ一秒の事実(リアリティ)を切り取り、それを映画という時間の流れ(仮想空間)に巧みに張り付けることで、真に人の心を揺るがす名画を生み出した。この黒澤の手法とは、徹底した虚構(コンピューター・グラフィックス、3D)によって、人の心の「虚」を刺激する現代ハリウッド映画とは、似ているようで全く異なる。
「相手が止まる」という事実は、単に動体視力がいい悪いという、肉体的な機能だけで可能となるのではない。 「場と間合いとタイミング」というソフトウエア(考え方・思想)があってこそ、完成される。そのことを私たち日本拳法人は意識すべきだろう。
「構えに始まり構えに終わる(日本拳法のすべてはかまえにあり)」
長澤政行師範(昭和四十四年度卒)
この方に「名言」はありません。
全ての言葉や行動は(美しい)形に帰結する。 それが昭和四十四年の全日本選手権(軽量級)で優勝した者として、また、厳しいビジネスの世界を戦い抜いてきたビジネスマンとしての矜持でもあるのです。
どんなに困難で危機的な状況にあっても、寸分の狂いなく、静かで安定性のある絶対の構えが崩れることはない。「万法一に帰す」という言葉は、戦国時代、戦う武士たちの美しい構えを見た者が 捧げた感嘆の言葉であり、 静止した一点の構えにこそ、言葉や技術をこえた説得力があるという証左でもある。
それはまるで、美しく生けられた一輪の花に言葉を絶した宇宙の広がりを感じ、茶をたてる以前と後の茶人のたたずまいに、時間と空間の美しい一致を見るかのようだ。
熱い闘争心と冷徹な技術を包み込む日本拳法の精神は、美しい一点の構えの中に凝縮されているのです。
「平栗、おれは日本人じゃないんだ」
大学一年生の八月、あるOBの工場で一ヶ月間アルバイトをやらせて戴いた時に言われた言葉です。一回目は先輩のタバコを買いに走り、五分かかるところを二分で戻った時、二回目は民家のどぶろく屋で、ベロベロになりながらも(当時は、吐いても更に飲まされた)大きな声で押忍、押忍と先輩の酌を受けていた時でした。
1976年に聞いたこの言葉の意味を、2020年の今、私は漸く理解できたような気がします。
この先輩が日本人でないことなど誰でも知っている。それを二回も私に言ったのはなぜなのか。
それは、このときの私の行動に「必死さ」「一生懸命さ」を見たからなのです。タバコひとつ買うにも、炎天下のなか全速力で走る。酒席でも道場の練習と同じように大きな声を出して、キビキビと応対する。そんな私の新入生らしい、何ごとも全力で取り組む真剣さに、かつての御自身の姿を見たのではないか。
日本人が生来好み(在日)韓国人が本能的に敬遠するもの、それは金にならないことでも一生懸命打ち込むという、純粋さ・直向きさ(素直さ)です。
バブリーダンスで有名となった、ダンス甲子園。大会に向け、夏休み期間中も毎日ぶっ倒れる位まで練習する彼女たちは、有名になるといった「外に何かを求める」を越え、徹底的に自分を追い詰めることで本当の自分と一体化しようと「内に哲学している」かのようだ。また、一人の天才ダンサーとして、その技術を生徒に注ぎ込もうとする(生徒以上の)コーチの情熱、生徒の家族や学校関係者たちの献身的な気遣いと協力。そして、観客・やじ馬の私たちは、そういった人々の、物欲や作為のない純粋な魂に感情移入することで、同じピュアな心を一緒に味わうことができる。
また、終戦後、好きな考古研究をやりたいが為に早朝の納豆売り(朝5時から自転車で行商)をし、発掘した石器の説明のために、群馬県の桐生と東京(明治大学考古学研究室)120㌔を日帰りで何度も自転車で往復(片道9時間)した相沢忠洋氏は、昭和24年、ついに十万年前の原始日本人の遺跡(岩宿遺跡)の手がかりとなる石器を発見した。これもまた日本人の直向きさ・純粋さであり、こういう話に「我がことのように」感激できるのもまた、日本人なのです。
一方、韓国人というのは、無償の奉仕などとんでもない。自分の内側を掘り下げるなんて感覚自体ない。要領よく立ち回り、目に見える利益を得る者が賞賛される。金にならないアマチュア・ダンスのために死ぬほどきつい練習をするより、韓国人の芸能プロダクションで、そういう才能ある日本人を使う側になる方を好む。自分で苦労するよりも、人の成果にうまくタダ乗りするのが賢い生き方、という考え。相沢が孤独の中で背負った運命や、ただただ日本国民の期待に応えるべく、ニチボー貝塚女子バレーボールチームが取り組んだ地獄のような苦しい練習なんて、「韓国人だから関係ない」という以前に「そこまで必死になる」こと自体、彼らには理解できないのです。
ところがこの先輩は、新入生の頃、ニチボー貝塚の「スパルタ精神」を見習い、血反吐をはくほど激しい練習を自分に課して頑張った(ほど日本人的だった)。日本拳法部のコーチをされていらした時も、どんなにきつい練習でも「要領を使う」ことを戒めておられました。そこまで日本人に成りきった人が、卒業後、全く異なる価値観・生き方をする社会で生活するというのは、きつい工場での仕事以上の苦労があったのかもしれません。
あの時、私が聞いた「おれは日本人じゃないんだ。」という、叫びにも似た言葉には「今や別の社会にどっぷり浸かってしまったオレは、もう、お前のように日本人らしくなれないんだよ。」という、郷愁と慚愧の念が込められていたのではなかったか。
(しかし、一人で三十人相手に殴り合いのケンカをするなど、ガッツ石松氏のような日本人のやることです。韓国人であれば必ず「オレにけがをさせると、仲間とマイクロバスでお前の家に火をつけに行くぞ !」なんて、殴り合いをせずに口で勝つ(心理的に脅しをかけて服従させる)のが、彼らの「正統的な戦い方」なんですから。)
私たち日本人は、十万年の昔からこの日本(列島)という地域で生きてきました。そして約2,500年前、大陸から天皇制(帝)とか律令制という中国文明・文化の、縄文人(原始日本人)世界への混淆が始まったわけです。ですから、好むと好まざるとに関わらず、また濃い薄いの違いはあるにせよ、現在の日本人には弥生人の血が混ざっているのかもしれません。
大学時代、私はこの先輩ほど厳しい練習を自分に課すことはありませんでしたが、ケンカの殴り合いとは違う面突きの一瞬だけは、一年生の頃から好きでした。知恵も技術もなければ、勝つも負けるも気にしない。ただただガツンという相打ちの一瞬に集中する。そういう無意味で無為(自然のままで作為がない)、無位無冠の気持ちで殴り合いをすることで、自分の中の日本人性が強化されたような気がします。 → 68頁「第八話 私的日本拳法の世界」
私もまた、今までの人生で最も日本人らしかった(日本人に成りきっていた)時といえば、やはり日本拳法部の底辺でヒーヒー言っていた、あの頃であったのかもしれません。
「焼いたら食えるかな」
年末、郵便局でお金を下ろすのを忘れた小松幸弘君(昭和五十四年度卒)は、憧れの東京で迎えた初めての正月(昭和五十二年)を、無一文・食べ物なしで過ごすことになりました。ATMもコンビニもない(彼の部屋にはテレビもラジオもない)時代でした。
毎日少しずつ舐めてきた角砂糖も底をついた三日目、朦朧とした意識の中、部屋の隅で自分と同じようにうずくまる(餓死していたらしい)ゴキブリを見た時、彼がつぶやいた言葉です。
「おまえ、ほんとに食ったのかよ。」という問いには「・・・ノーコメントや。」と、英語で返されました。何でも積極的に取り込む彼のハングリー精神は、ここから始まったのかもしれません。
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