第6話 日本拳法とはなにか
序論
日本拳法とは、戦いの心と原理を学ぶのに最適なスポーツです。
殴り合いという行為を通じて、戦いの原理・人間の本質を知ることができる。
一見すると野蛮な行為ですが、剣道のような堅牢な防具をつけ、しかもノックダウンを目的にしていない(3分間3本勝負制)ので、ボクシングなどに比べると安全性が高い。そして「場と間合いとタイミング」によって勝つという、柔道や剣道と同じ武道の精神を根幹にしています。
(防具をつけて)現実に殴る、蹴る、投げる。日本拳法とは、コンピューター・ゲームのような仮想現実(ヴァーチャル・リアリティ)の世界と異なる超現実の世界。私たちは、嘘ばかりのこの世の中で「3分間の真実(リアリティー)」を体験することができるのです。
人間は、戦うという精神をなくしてはならない。
これは宮本武蔵がその著「五輪書」の冒頭で述べたことです。
戦場の天使といわれた、あのナイチンゲールでさえ、こう言っています。
「天使とは、美しい花をまき散らす者ではなく、苦悩する者のために戦う者です」。
仏教では戦いを否定しますが、戦いとは人間の生存本能から生まれた、きわめて自然な行為です。人間が考え出した宗教や思想によって、いくら(口だけで)戦いを否定しても、生きるために戦うという本性が消えることはない。人間が生まれること自体、精子同士の戦いの結果なのですから。
中国における兵法(戦う思想と技術)とは、この人間の本能をむしろ肯定的にとらえて解決しようとしました。
そして、日本では宮本武蔵が自ら六十数度の戦いをプロデュースし、それを哲学することで、日本独自の兵法を生み出しました。武蔵は戦いの技術や武器以前に、戦う心(ファイティング・スピリッツ)を重要視し、さらには小手先の剣の技術に依存するのではなく、「場と間合いとタイミング」によって「戦いを創り出す」という思想を確立させました。
宮本武蔵という武士は、命がけの決闘から抽出した戦いの原理を鏡に映して反転させることで、技術を思想にまで昇華させたのです。(よく引き合いに出される柳生宗矩の兵法書「兵法家伝書」は、戦いの技術を宗教的な味付けで料理した点で、武蔵の「五輪書」とは全く違う性質を持っています。)
日本拳法とは、格闘技としての戦う技術を学ぶこともできますが、むしろ「格闘」という行為を通じて、武蔵の追求した「戦う心」、そして「場と間合いとタイミング」という考え方・思想を実感(体験)することに、これを行うモチベーションがあると考えるべきでしょう。
本論
武道に於ける戦いの原理を知るとは、心の一致を鍛練することにほかなりません。
相手と心を一致させることで勝つ。これが武蔵や日本拳法に共通する、きわめて日本的な戦いの原理原則なのです。
そこでは、敵を一方的に殴りまくるとか、ノックダウンを目的にした「必殺技」というものは重要ではない。相手の気持ちにうまく自分の心を合わせながら、最後にそれを反転させる。小が大に勝つ、少ないエネルギーで大きな力を転ばせる。そういう戦い方にこそ面白みがあり、真実への道がある。 そして、戦う者同士の心の葛藤が投げやパンチという物理的な現実となる過程を、ミクロとマクロの目で楽しむ。ここに日本人の本質があるのです。
柔剣道・合気道、そして日本拳法という武道の特徴は、相打ちで勝つという点にあります。つまり、敵がこちらに斬りかかる・打ちかかる・投げにかかるといった、攻撃をしかけてくるときが勝機(チャンス)であり、敵がこちらを攻撃してくる、そのコンマ一秒先(もしくは後)に確実に敵を攻撃する。これが日本武道における勝利の鉄則です。
戦う二人の力量が同じであった場合、片方が一方的に自分だけの意志で攻撃しても、必ず防御される。だから、相手がこちらに対し攻撃を仕掛ける時に、その機先を制して攻撃する必要がある。つまり、攻撃をする瞬間、その人の動作が止まるからです。
相手が自分を攻撃しようとする気を察知するために、自分と相手の心を同期させる必要がある。
そして、両者が全く同じ攻撃の心となり、互いに相手を攻撃する(パンチを打つ瞬間)ぎりぎりの時点で、相手とタイミングをずらして攻撃する。これが実の攻撃となるのです。
同期というのは、相手の心と自分の心を一致させるということ。自分の心を敵のそれと同じリズムにすることで、相手が自分を攻撃してくる気を察知する。その気を機(勝機)に転ずるのです。この作業を鍛えるのが、日本拳法の目的といえるでしょう。
もちろん、「心の一致」は武道だけに限りません。バレーボールやサッカーというスポーツでも必要です。あるいは、集団で音楽を演奏することによっても鍛えることは可能です。日本の文化であるお茶や華道にしても、人と人との心の一致を目的とした「道」です。ただ、日本拳法の場合、殴る・蹴る・投げるという、人間のもつ最も原始的な行為(戦い)のなかで、直接的・直感的にこれを学ぶことができるのです。
同じ武道でも、 剣道の場合、武器である竹刀の操作を習得するのに時間がかかる。また、相撲や柔道は生身で戦うため、受け身の鍛練に長い時間がかかる。怪我をしないように転ぶ、投げられるというのは非常に難しい。戦いの原理まで体得するには、大学四年間だけでは短かすぎるでしょう。
「礼に始まり礼に終わる」
日本拳法では、相手に礼をしてから試合場(九メートル四方のマット)に入る。この時点からすでに「心の一致」という作業は始まっている。私が三十年前に見た、ある大学のキャプテン同士の試合。このとき、試合そのものも素晴らしかったが、両者が試合に入るまでと、試合が終わってからの行動(礼)がピタリと一致していた。
優れた選手は相手の呼吸に自分の呼吸を合わせようとする。だから、試合場に入る礼の時点で、まるで申し合わせたかのように、鏡に映したかのように、二人の動作がピタリと一致するものなのです。美しい礼の一致を見ることから、日本拳法の試合を見る楽しみは始まっているといえるでしょう。
日本の伝統的なスポーツ(武道)である相撲では、試合開始の前に、両者の呼吸を合わせるための時間を用意している。仕切り」と呼ばれる数分間の心の調整です。わざわざそんなことをするスポーツは世界でも日本だけですが、それくらい、日本人は「相手との呼吸・心の一致」を大切にする民族なのです。掴み合い投げ合うという、目に見える行為の前に、まず相手と心を一致させる。目に見えない心の戦い(心の調整)から戦いは始まる。これが日本固有の戦いの思想です。
殴る・蹴る・投げる・関節技といった、格闘技の全ての要素を持つ日本拳法という武道は、茶道や華道と同じく、日本人の(和の)精神を学ぶ場でもあるのです。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます