第5話 千葉先生の教え
これは昭和五十一年の夏、千葉栄先生(史学科教授・東洋大学日本拳法部長)が神主(かんぬし)をされていらした神社のお祭りの時、先生から直接お聞きした話です。
私たち日本拳法部員、松本芳久先輩(昭和五十一年度卒)、下田隆(昭和五十三年度卒)先輩、北崎登(昭和五十三年度卒)先輩、小山信生(昭和五十四年度卒)、原浩(昭和五十四年度卒)、三堂地克太郎(昭和五十四年度卒)、そして私。このアルバイトを含む神社の氏子(うじこ)数十名が、中世の舎人(とねり)のような装束で、牛車を引いて深川の下町を練り歩くという行事でした。
夕方、巡行が終わった打ち上げの席で、千葉先生は東洋大学の体質というものについて、お話をされました。
終戦後の昭和二十一年、焼け野原の東京は白山に、東洋大学を再建する計画が起こされた際、国道十七号線(旧白山通り)に面した現在の正門は、初めの計画では、もっとずっと奥の坂の頂上の辺りに作られる予定であったそうです。
つまり、現在の甫水の森(かつて柔剣道場が地下にあった建物:旧二号館)のあたりには民家が建っていたため、国道から五十メートルほど奥へ細い道を引き、そこから学校の敷地になるという建設計画であったのです。
これに対し、千葉先生は猛烈に反対しました。先生がおっしゃるには、東洋大学という 学校は「引っ込み思案」である。大通りに面してどんと校舎を建てないで、奥まったところに建てようとする。積極的に表に出れない。「質実剛健」を指向するあまり、自己主張が下手で、他人に正しく評価してもらえない傾向がある。
だが、個人であっても組織でも、社会で生きていくからには、自分(たち)の存在をたとえ地味でもいいから、明確にしておかねばならない。人に見てもらうということではなく、天下大道に向かって自己の存在をアピールすべし、とおっしゃるのです。
結局、千葉先生の強い働きかけで、旧二号館の辺りまで土地を買収し、めでたく現在のように国道に門を構えた校舎の配置となったそうです。
千葉先生は神主をされていらしたため、人間だけの世界である仏教と異なり、「神と人間」という意識を強く持たれておられました。人間の中で自己主張するのではなく、神という桁違いに大きな存在の中で自分の存在を照らしださねばならない、というお考えでした。
そして、性格的には極めて温厚・穏便な方でしたが、日本拳法の精神である「前へ出る」という、積極的な精神の持ち主でもあられました。
知識主体の東京帝国大学に対抗し、あえて「諸学の基礎は哲学にあり」と、形而上学の重要性を唱えて哲学館(東洋大学の前身)を創設した井上円了の精神(ファイティング・スピリッツ)を忘れるべきではありません。
東洋大生は、各専門分野の単なる技術屋ではなく、哲学を持つ真のプロフェッショナルを目指すべきではないでしょう
か。多少、地味な印象であっても、強く深い精神性(潔癖という意味ではない)を持つビジネスマンや教師・エンジニアというように。
知識の量や高さを競うよりも心の内側を開拓することで自分の存在を確かなものにする。それが大和魂(日本人らしい生き方)ではないか、と私は思うのです。
明治時代、文明開化・合理的という掛け声のもと、目に見える物(ハードウェア)ばかりを、取り憑かれたように追い求める日本人に対し、目に見えない部分(ソフトウェア・心・魂)を大切にせよ、と警鐘を鳴らしたのが、小説「こゝろ(心)」を書いた夏目漱石や、多くの短編で人の心の奥深さを見せてくれた、芥川龍之介のような 文学者たちではなかったのでしょうか。
千葉先生は、派手な自己宣伝をせずとも、天下大道に自分をさらす「控えめな勇気」によって、心で前へ出るという、日本人の精神を教えてくれたのです。
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