第4話 灯り(あかり)は燭台に置く

 戦いに勝った者は美しい。

 また、たとえ敗れたとしても、行き着くべき所までたどり着こうと努力した人間の魂には、勝者のそれと同じ透明な輝きがある。

 しかし、 「栄冠は君に輝く」と歌に謳われた青春のエネルギーの発露は、かれら試合に出場した選手たちだけのものではない。コインに裏と表があるように、勝利の栄冠には、光のあたる部分とそうでない部分がある。

 戦いとは何か、真に強い人間とはどういう者なのか。それを知るために日本拳法という道を歩む私たちは、戦いや勝利というものを総合的にとらえる必要がある。

 栄光を陰で支えた地道な若き情熱もまた、等しく評価されるべきであろう。


 昭和五十五年、当時三年生であった日本拳法部員に、矢部一雄君(昭和五十六年卒)がいた。彼は日本拳法部在籍中、遂に一度も公式戦に出場することがなかった。

 だが彼は、一年生の時ばかりでなく二年生の時も三年生になってからも、新入部員と一緒に早くから部室に来ては、前日に干したバンデージ(拳に巻く白い包帯状のサポーター)を巻き、練習後には、汗に濡れたタオルを干す仕事を怠らなかった。

 人を殴って勝つことはなかったが、部室で道場で試合場で、選手のために立派に戦った。道場では、選手と同じように苦しい防具練習に耐えたのである。そういう人間は矢部君一人ではなかったし、過去から現在に至るまで、東洋大学日本拳法部には彼と同じ役割を果たした部員が沢山いた。

 選手が試合で勝っても負けても、彼ら「燭台」は戦士に対して誠実であった。

 チームが強くても弱くても、格好良くても悪くても、彼らをいたわり、勝者にも敗者にも同じ奉仕で応えた。

 ただひたすら、選手という勝つか負けるかわからない不安定な人間をサポートし、勝ち負けを超えた精神で自分自身と戦った彼らは、もう一人の英雄である。 勝利と敗北が一体であるように、勝利を支えた献身もまた勝利そのものなのだから。


「形あるものの下にはかならず、それを支えるものがある。灯は必ず燭台に置く、とキリストは言った。人はその灯を見るけれども、燭台は忘れる。しかし、燭台はなければならないものだ。」(ニチボー貝塚 監督 大松博文)

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