第3話 二人の英雄

 昭和五十四年と五十五年の二年間とは、東洋大学日本拳法部にとって特別な年であった。

 すなわち、昭和五十四年には、春の関東リーグ戦と秋の東日本選手権という二つの団体戦において東洋大学はそれぞれ準優勝校となり、翌、昭和五十五年の関東リーグ戦では、ついに創部以来初の一部優勝を果したのである。

 昭和五十四年、東洋大学日本拳法部の主将は桜井俊之であり、五十五年は中村伸太郎であった。この二人は、異なるタイプのキャプテンとして多くの部員を率い、東洋大学の名誉をかけて戦った。

 彼ら二人のキャプテンとしての戦い方は全く対照的であったが、それをここで思い出してみることは、何がしかの意味があるかもしれない。


 桜井が主将として臨んだ昭和五十四年。

 メンバーは二段が九人(うち七人が試合に出場)であり、キャプテンの桜井は段位こそ二段であったが、公式戦において他校の三段所持者に何度か勝っていることから、実力は三段とみなされていた(関東における当時の二段とは現在の三段、三段は四段に相当する)。

 また高地出身で副将の小松幸弘(二段)は、日露戦争における陸軍の第一軍司令官、黒木為楨を思わせる褐色の猛将であり、この年の全日本選手権に桜井と共に出場した重量級の雄であった。


 このメンバーによる東洋大学の勝ちのパターンはいつも同じだった。

 先鋒・次鋒・参鋒・中堅・三将・副将までの六人が、三勝三敗か、あるいは二勝三敗一引き分けで終わる。そして七人目の大将戦で、主将の桜井が必ず勝ち四勝三敗。あるいは三勝三敗一引き分けで代表決定戦となり、ここでも桜井が再度登場して勝ち、結果として東洋が勝利する。

 桜井という強力な切り札(エース)の多用によって、東洋大学は一部リーグ五戦のうち四戦を勝利し、東日本のトーナメントでは決勝戦までの戦いを勝ち抜いたのである。

 だが、ただでさえ気力と体力を消耗する公式戦で、しかも三分間をフルに戦う本数勝負制であった当時、この勝ち方は彼に多大の負荷を与えた。


 昭和五十四年の春も秋も、決勝戦の相手は立教大学。メンバー全員が二段であり、その大将は長身で重量級の三段であった。

 軽量級の桜井はこの相手と互角の戦いを演じながらも、最後は延長戦で力尽きた。面突きではなく、彼が現役時代ただの一度も取られたことのない組み打ちの一本で敗れたという事実にはしかし、技術や体力を超えた何かが暗示されていた。

 気は山を抜くほどの強い精神力と優れた技術を持ちながら、ついに頂点に立つことがなかったこの勇者もまた、古の言のごとく、将としてなお兵を語ることはなかった。

 破れて尚 ── 強い者が必ず勝つという自然界の不文律を知りつつもなお、無念の思いを拭(ぬぐ)い去ることができないのは、「星落秋風五丈原」や「流星光底逸長蛇」の詩が、ここに澎湃(ほうはい)として湧き起こるからにほかならない。


 そして、昭和五十五年。

 この年のメンバーは、有段者が四人、あとの三人は一級〜三級クラス(当時は五級まであった)。しかも、主将の中村(二段)は前の主将に比べ、まったく強くなかった。ともすれば、副将の小松正治(二段)や安本雄二(二段)の方が練習で勝つことが多かったくらいである。


 こういうエピソードがある。

 昭和五十四年、桜井がキャプテンの時、副将の小山信生(二段)はレギュラーメンバーを前にこう言った。

「桜井が必ず勝つといって、あいつにばかり頼っていては駄目だ。他のメンバーが勝って、大将戦の前で勝負をつけようではないか」と。自身が高校で野球部のキャプテンを務め、将たる者の責任と孤独を知る水戸のサムライは、その心中を察すると共に、どうせ大将が何とかするさ、という親方日の丸根性に警鐘を鳴らしたのである。

 一方、中村がキャプテンの時、副将の小松正治は試合前にこう言った。

「中村に頼ってたら駄目だ。あいつは必ず負けるんだから。おれたち他のメンバーが勝たなければ試合に勝てない」と。

 また、中村というキャプテンはメンバーの順番をころころ変えた。自分が次鋒になったり中堅で出たりして、主将は常に大将戦で戦うという「名誉ある原則」を、いとも簡単に放棄した。同期の槇泰智(現在は市民運動家)に言わせれば、自分が絶対に勝てる相手を求めてメンバーを組んでいた、という疑惑もあったほどである。

 ここにおいて、「今年の東洋は二部落ち」という下馬評は、まんざら悪意のある評価ではなく、部員の中にはOB諸氏からの制裁(ヤキ)を恐れ、試合会場からそのまま夜行列車で故郷へ帰ろうとする者までいた。


 その東洋大学が昭和五十五年の春、一部リーグ戦において優勝したという事実には、まるで屠殺場に連れて行かれる駄馬がその途中、あの駿馬ハイセイコーが取れなかった天皇賞を道で拾ってしまったという感があった。

 だが、事実は小説よりも奇なり。今大会、本命であった立教大学と中央大学との戦いの結果、なんと勝ち点一つの差で、優勝トロフィーは東洋大学に転がり込んだのである。

 負けるといわれたキャプテン中村も勝ったが、この大会で命運を分けた勝ち星という点においては、むしろ、当時三年生で一級の池田貴行(昭和五十六年度卒。本大会で殊勲賞受賞。故人 )が他校の初段に勝ったり、二年生の桑原桂司(昭和五十七度年卒)や岩田朗(同)、細田昌明(同)という二級・三級が上級者に勝ったり引き分けたりといった善戦が目立った。

 主将の中村は、自身が際立った勝ち方をしなかった反面、他人の勝利を自分のことのようにあからさまに喜んで受け入れた。

 中村の強みはここにある。 「自分で勝たないことが、同僚や部下の勝利を引き出した」とでもいうべき、組織の力を発揮させる才に長けていたのである。キャプテンが一年生に「俺を男にしてくれ」と言って手を握るという、まるでどこかの国の田舎政治家の如き姿は、日本海海戦において「各員奮励努力せよ」と、旗艦三笠から訓令を下した東郷平八郎のそれ(トップダウン方式)と全く対照的であった。

 しかしながら、この泥臭い、まるで百姓一揆の如きスタイル(ボトムアップ方式)が、戦闘構成員の多大なる自覚と潜在能力を引き出したのも、また事実なのである。


 中村の同期や後輩たちは、自分たちのキャプテンが必ず負けると思っていたわけではない。かといって、その勝利を期待していたのでもない。彼らは、ただただ自分自身を信じて戦った。 「こうすれば勝てる」という勝ちのパターン・勝ちのスタイル・勝利の感覚を、三級の者までもが、おぼろげながら持っていた。「無心」で戦ったのではなく、普段の練習で磨いた勝ちの感覚を頼りに、それをなぞる(思い出す)ようにして、三分間の戦いを自分のストーリーに引き寄せたのである。

 そういう一人一人の個性的な戦いの積み重ねが、結果として好成績を生み出したのだが、その意味でキャプテン中村は最も個性的な男であった。

 大将は不動という意地も常識も捨て、王が歩となることを潔しとし、己(おのれ)のプライドを殺して衆に頼ることを躊躇しなかった男。百年前、会津で討ち死にした白虎隊の純粋さとは対照的な、この抜け目のない、思いっきり世俗的で面目など気にしない福島県人のもう一つの精神が、万に一つともいうべき僥倖(ぎょうこう)をひろわせたのである。


 そして、なんといっても、この勝利に最も戸惑っていたのは、やはりキャプテン中村伸太郎その人であった。

 二部落ちの責任をとらされてヤキをもらう覚悟で臨んだこの大会。いつ再び米国へ逃亡するやもしれぬダブリの爆弾男を抱え、眠れぬ夜に会津追分を口ずさんだことはいくたびか。

 表彰式で優勝旗を授与された我らが大将は、何を間違えたか、自分の列への帰り道、感きわまって涙ぐみ、他校のキャプテンにお辞儀をしながら戻って来た。

 小学校で習字の展覧会に入賞して以来、久しく人前で栄誉を受けることを知らないこの男は、最も英雄らしからぬ姿で

 会場の拍手に応えたのであった。

  

「英雄の器」 芥川龍之介(青空文庫から転載)

「何しろ項羽(こうう)と云う男は、英雄の器(うつわ)じゃないですな。」

 漢(かん)の大将呂馬通(りょばつう)は、ただでさえ長い顔を、一層長くしながら、疎(まばら)な髭(ひげ)を撫でて、こう云った。彼の顔のまわりには、十人あまりの顔が、皆まん中に置いた燈火(ともしび)の光をうけて、赤く幕営の夜の中にうき上っている。その顔がまた、どれもいつになく微笑を浮べているのは、西楚(せいそ)の覇王(はおう)の首をあげた今日の勝戦(かちいくさ)の喜びが、まだ消えずにいるからであろう。──

「そうかね。」

 鼻の高い、眼光の鋭い顔が一つ、これはやや皮肉な微笑を唇頭に漂わせながら、じっと呂馬通の眉の間を見ながら、こう云った。呂馬通は何故(なぜ)か、いささか狼狽(ろうばい)したらしい。

「それは強いことは強いです。何しろ塗山(とざん)の禹王廟(うおうびょう)にある石の鼎(かなえ)さえ枉(ま)げると云うのですからな。現に今日の戦(いくさ)でもです。私は一時命はないものだと思いました。李佐(りさ)が殺される、王恒(おうこう)が殺される。その勢いと云ったら、ありません。それは実際、強いことは強いですな。」

「ははあ。」

 相手の顔は依然として微笑しながら、鷹揚(おうよう)に頷(うなず)いた。幕営の外はしんとしている。遠くで二三度、角(かく)の音がしたほかは、馬の嘶(いなな)く声さえ聞えない。その中で、どことなく、枯れた木の葉の匂(におい)がする。

「しかしです。」呂馬通は一同の顔を見廻して、さも「しかし」らしく、眼(ま)ばたきを一つした。

「しかし、英雄の器じゃありません。その証拠は、やはり今日の戦ですな。烏江(うこう)に追いつめられた時の楚の軍は、たった二十八騎です。雲霞(うんか)のような味方の大軍に対して、戦った所が、仕方はありません。それに、烏江の亭長(ていちょう)は、わざわざ迎えに出て、江東(こうとう)へ舟で渡そうと云ったそうですな。もし項羽に英雄の器があれば、垢(あか)を含んでも(恥を忍んでも)、烏江を渡るです。そうして捲土重来(けんどちょうらい)するです。面目(めんもく)なぞをかまっている場合じゃありません。」


「すると、英雄の器と云うのは、勘定に明(あかる)いと云う事かね。」

 この語(ことば)につれて、一同の口からは、静な笑い声が上った。が、呂馬通は、存外ひるまない。彼は髯から手を放すと、やや反(そ)り身になって、鼻の高い、眼光の鋭い顔を時々ちらりと眺めながら、勢いよく手真似(てまね)をして、しゃべり出した。

「いやそう云うつもりじゃないです。──項羽はですな。項羽は、今日戦(いくさ)の始まる前に、二十八人の部下の前で『項羽を亡すものは天だ。人力の不足ではない。その証拠には、これだけの軍勢で、必ず漢の軍を三度破って見せる』と云ったそうです。そうして、実際三度どころか、九度(くたび)も戦って勝っているです。私に云わせると、それが卑怯(ひきょう)だと思うのですな、自分の失敗を天にかずける── 天こそいい迷惑です。それも烏江を渡って、江東の健児を糾合(きゅうごう)して、再び中原の鹿(天下)を争った後でなら、仕方がないですよ。が、そうじゃない。立派に生きられる所を、死んでいるです。私が項羽を英雄の器でないとするのは、勘定に暗かったからばかりではないです。

 一切を天命でごまかそうとする── それがいかんですな。英雄と云うものは、そんなものじゃないと思うです。蕭丞相(しょうじょうしょう)のような学者は、どう云われるか知らんですが。」


 呂馬通は、得意そうに左右を顧みながら、しばらく口をとざした。彼の論議が、もっともだと思われたのであろう。一同は互に軽い頷きを交しながら、満足そうに黙っている。すると、その中で、鼻の高い顔だけが、思いがけなく、一種の感動を、眼の中に現した。黒い瞳が、熱を持ったように、かがやいて来たのである。

「そうかね。項羽はそんな事を云ったかね。」

「云ったそうです。」

 呂馬通は、長い顔を上下に、大きく動かした。

「弱いじゃないですか。いや、少くとも男らしくないじゃないですか。英雄と云うものは、天と戦うものだろうと思うですが。」

「そうさ。」

「天命を知っても尚、戦うものだろうと思うですが。」

「そうさ。」

「すると項羽は── 」

 劉邦(りゅうほう)は鋭い眼光をあげて、じっと秋をまたたいている燈火(ともしび)の光を見た。 そうして、半ば独り言のように、徐(おもむろ)にこう答えた。

「だから、英雄の器だったのさ。」

(大正七年一月)

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