第2話 思い出は一瞬のうちに

 大学生活で良い思い出を作ろう。人生で楽しい思い出をたくさん残そう。

 人はそう考えるかもしれない。

 しかし私は、そうとばかりは思わないのです。


 < アメリカ逃亡 >

 昭和五十一年、私は東洋大学に入学し、同期の桜井たち六人と日本拳法部に入部しました。しかし、二年生になる時に落第したため、かれらが卒業した後も四年生として活動することになりました。六人の有段者が抜けた穴を少しでも埋めるべく、あえて部に残ることを監督やコーチから命令されたのです。ところが、

「わかりました。日本拳法部のために頑張ります」と言った舌の根も乾かぬうちに、私はアメリカへ逃亡したのです。


 時は昭和五十五年 三月、元同期たちの卒業式が終わってすぐのことです。

 富士山麓で行われた春の合宿を途中で抜け出し、私は羽田から飛行機に乗りました。もちろん、クラブの練習が嫌で行ったわけではありません。社会人になったら長期間の休みなど取れないだろうから、今のうちにアメリカを見ておこう。しかも、何かと値段の高い夏休みではなく、四月という最も安い時期に、というつもりでした。当然ながら、こんな話をして許されるはずもありません。そのため、私はOB諸氏に無断で旅に出たのです。


 北米では、二十四時間運行しているグレイハウンドというバスをホテル代わりにして、結局、金を使い果たすまでの二カ月間、アメリカとカナダをグルグル廻っていました。 金もないし言葉も不自由でしたが、毎日違う景色を見ていれば勉強になるだろうと思ったのです。

 ですから、そんな私に旅先でできる友達は、当時アメリカにボートピープルとして流入していたベトナム難民だけでした。あの時、着の身着のままでアメリカに乗り込んだ青年たちは、二〇一〇年の今、全米各地に巨大なショッピングセンターを建設しアメリカに一矢なりとも報いています。つまり、あんたらに国はグチャグチャにされたけど、どっこいおいらは生きてるよ、と。

 毎日、五十セントの牛乳一本と二五セントの小さなポテトチップ一袋。休憩所(レストラン)にバスが止まっても何も食べない私を見て、隣に座るアメリカ人の老人が食べ物を恵んでくれたこともありました。  

 十日に一回程度シャワーを浴びるために泊まる宿も、スラム街にある一泊三ドルの、部屋に鍵もかからないようなところでした。

 貧乏と孤独と危険だらけの生活でしたが、日本に帰ると、それ以上に恐ろしい現実が待ち受けていたのです。


 < 虎の尾を踏む男 >

 帰国した翌日、五月下旬のある火曜日、クラブの練習が終わったころ部室に行きました。そして、これから伊沢コーチのところへ行くつもりだと皆に伝えました。すると、主将の中村はじめ、幹部全員が猛反対します。

「先輩、アメリカ行ってぼけちゃったんじゃないんですか。あの伊沢先輩のところへ直接行ったら、半殺しどころか全殺しですよ。まず、元同期の桜井先輩と一緒に温厚な山本OB会長のところへ行き、次に長澤監督の所へ行くべきでしょう。」


 しかし、どうせ殺される(ヤキをもらう)なら初めに、と覚悟していたので、私の気持ちは変わりませんでした。

 屠殺場へ連れていかれる仔牛を見るような、後輩たちの悲しい目に送られて、私は部室を出ました。「何かあった時のために、警察に話をしておいた方がいいかもしれませんよ」という、中村の声を後ろに聞きながら。

 現在の部員には笑い話に聞こえるかもしれませんが、当時のことを知る年代の人からすれば、こんな恐ろしいことはありません。かつての日本の軍隊か現代のマフィアかといわれ、上からの命令には絶対服従が血の掟とされた三十年前の東洋大学日本拳法部。その中でも、神か悪魔かと恐れられていたのが、当時コーチをされていた伊沢先輩でした。なにしろ、この人を抑えることができるのは警察ではなく軍隊だといわれ、殺されても死なない不死身という意味で「蒲田のラッキー・ルチアーノ」と呼ばれていたのです。

 その人が頼むと頭を下げたことを反故にした人間が、一日として生きていられるでしょうか。「虎の尾を踏む男たち」という黒澤明の映画がありますが、その時の私はまさに、安宅(あたか)の関を越えんとする源義経一行と同じでした。

 死を覚悟して前へ進むか、今度は永久に日本から脱出するか、二つに一つの選択しかなかったのです。

 もともと楽天的な私も、この時ばかりはお先真っ暗。後悔はしていませんでしたが、大学から先輩のところまでの一時間、やり場のない絶望感を味わいました。ケンカなら、戦う・逃げる・和解する等、いくらでも方法があるのですが、今回に限っては選択の余地なし。一方的に殺されるしかないというのは、どうしようもなく辛いものです。


 先輩の工場に着いたのは夕方四時頃でした。

 工場の入り口の部屋には応接セットが置かれています。そこへ入ると、ちょうど伊沢先輩のお兄さんが新聞を読みながらくつろいでおられましたが、ガクラン姿の私を見ると、すぐに奥へ行き「おーい、つぐ(先輩のこと)、大学の後輩の方が見えてるぞ」と伝えてくれました。

 しばらくすると、奥の方から「後輩 ? なんだ今頃・・・」とつぶやきながら、長身の伊沢先輩がタオルで汗を拭きながら、リラックスした表情で部屋に入ってこられましたが、私の顔を見た瞬間、お釈迦様から般若の面に変わりました。私はすかさず「押忍」と、先輩の目を見ながら頭を下げたのです。

 先輩はすぐに普段の顔に戻り、しかし恐ろしい目だけはそのままで、静かにこうおっしゃいました。 

  

「・・・おまえか。・・・いい度胸してるじゃねえか。」


 この言葉は、私が棺桶の中に入ったときでも脳裏から消えることはないでしょう。

「京都五条の糸屋の娘 姉は十六妹は十四 諸国大名は弓矢で殺す 糸屋娘は目で殺す」

 糸屋の娘なら好し。しかし、毘沙門天のごとき憤怒の心を前にして、この瞬間、私の魂はその振動を止めたのです。

 先輩は一瞬置いてから、

「そこで待ってろ。」

 こうおっしゃると、再び奥へ戻られました。

 緊張の極(きわみ)に達した、この「色のついていない一瞬」こそが、私の大学生活における最大の思い出であり、この一点に五年間のすべてが凝縮されているといってもいいのです。

 これに比べれば、グランドキャニオンやニューヨークを見た時の感動など、ものの数に入りません。

 それから後のことは、まあ、私が今こうして生きているという事実が、あの場から無事生還できたという証拠です。


< 旅に病んで夢は枯野を駆けめぐる >

 人はその思い出す景色の数によって、人生の豊かさが決まるのでしょう。

 楽しい思い出や美しい記憶の数々は、最後の時間を楽しくしてくれるにちがいありません。

 しかし、人が死ぬその最後の一瞬には、たった一つの思い出しかない。

 目で見た美しい景色や、ただの楽しい思い出ではなく、心で見た景色こそが、 死というゲートを乗り越える時に求められるのです。

 そして、生と死の境目(さかいめ)で正しくそれを思い出せた者だけが 、行くべき所へ行ける。

 もちろん、これは何の宗教でもない、私自身が信じていることなのですが。


 芭蕉が死の床(とこ)で見たのは、奥羽で見た美しい山々や、佐渡の夜空に輝く銀河ではなかった。この人生の旅人がその最後に、頭ではなく心で思い出したもの、それは枯野だったのです。 

 緑の木々も青い海もない、光と影だけの世界。怒りも恐怖も悲しみも取り払われた究極の (心の)風景。それこそが、人生を心ゆたかに生きた人間が最後に思い出した景色であったとするならば、私たちはそういう思い出もまた、少しでも多く心に刻んでおくべきではないでしょうか。

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