第20話

〈塩原の夜〉


入浴後、二人で宴会。と言っても静かなもの。何しろ65歳と70歳。健太は大手商社の繊維部にいて部長職であと5年というときに、上と意見が合わず、退職してアパレルの会社を創設したが、65歳になるとき定年制を導入すべきと共同で立ち上げた部下に追われる形で仕事を辞めた話をした。老婦人は「それでいいのよ、創業者の地位ならいつまでも仕事から抜けられないわよ。それで目鼻がつけばいいけど、アパレルも厳しんでしょう。仕事だけが人生ではないわ。これからたっぷりとした時間を味わいなさい」と云って、健吾の盃に酒を注いだ。老婦人と話している内に健吾の頭は婦人の老は取るべきだと思うようになった。


婦人は結構いける口で、主人との生活を語った。「主人はね、大学の教授だったわ。それも女子大のね。国文学者で「枕の草子」清少納言研究とかでね、それなりに名が知れていたの。わたしはロシアや西洋文学の方が好きでね。それと西洋の歴史も好きだわ。とくに、フランス革命からロシア革命にかけてのあの世紀はね。まさに革命と戦争の時代ね」。駅で見せられた本はローザ・ルクセンブルクについて書いたものではなかったか。それは婦人の若い時の思想の立ち位置の一面を語っていた。


「主人は持てたわね。大学で私たちは同期、主人は国文、私は英文、私の友人がね、お熱を上げたの、毎日彼の素敵なことを聞かされている内に、そうかなと思うようになって、彼女と彼が親しくし出したら、俄然ファィトが湧いてきて、女がその気になれば怖いわよ。私は親友から彼を奪った悪い女よ。夫は50になったとき、大学をやめたの。若い女子学生との関係が明るみになってね。私との関係をやめたのなら、何も大学まで辞めることないのにね。今何していると思う、大学辞めて古書店の店主。一度店に行ってやったの。こっちの方が似合っていたわよ。幸せそうだった。若い奥さんとも挨拶したわよ。そういえば顔が大学時代のあの親友と似てたわね」と笑った。健吾は婦人の意外な一面を知ったのと同時に、その笑みに一抹の寂しさを感じた。


健太は寝る前に一風呂浴びに行った。大浴場には誰もいなかった。湯船に浸かりながら、アルバイト時代のことを思い出していた。大浴場と小浴場があって、普段、男性客は大浴場、女性客は小となっている。分けているだけで、大浴場の方は混浴禁止というわけではない。時々年配の婦人たちが入って来る。


従業員は湯が開く4時前に入る事になっている。健太がタオルを肩にかけて湯に行くと、脱衣場には若い女性が2,3人。勇気があるなぁーとチラリと見て、湯気で煙った風呂場のガラスの開き戸をガラガラと開けた。目が一斉に健太の身体に集注した。若い女性の山盛りである。キャーではなく、うわ~と歓声が上がった。


「間違いました、スイマセン」と出ようとすると、戸口にいた女性二人が戸を閉めて、「ゆっくりしていらっしゃいよ」と云った。


予期せぬこの世の天国に、健太はほうほうの体で逃げたのである。資生堂の団体客があり、大と小がチェンジになっていたのを健太は知らなかったのである。団体は早めについたので、4時前に開湯になっていたのである。


この後、この話を人にすると、みなは、「惜しいことをしたなぁー、歓迎されているんだから、堂々と入ればいいものを。それでこそ大物」・・何が大物だ、実際を見てないから言えること、予期せぬ若い肢体の山盛りは恐怖に近いものがあった。そう、「取って食べられそう」とはまさにこのことを云う。と健太は今でも思っている。


湯のガラス戸が開いて婦人が入って来た。「やっぱり大きなお風呂は気持ちがいいわねー」。お歳とは思えぬ肌に艶と張があった。


「幸せそうな顔、何かいいこと思い出していたの?」と訊いてきたので、その話をした。


「それは惜しいことをしましたね。それから約半世紀、今宵は老女一人と混浴、わたしは襲いませんよ」と・・二人の笑い声が大きな湯殿に響いた。


「背中を流しますよ」と云えば、「あら、殿方に背中を流して貰うのぉー、生まれて初めてよ。あの世のお土産になりますよ」と、婦人は云いながら背中を健太の方に向けた。流しながら、健太は何故か懐かしいものに触れている感じがした。


会津磐梯、秋田角館、津軽は太宰の斜陽館、そして気仙沼から石巻、原発の福島海岸常磐線、電車は廃線跡も事故で不通線もお構いなしに走った。津波跡、避難で空になった町、みな痛々しかった。婦人はその光景をみながら、「何回来たけれど、綺麗な海や山々だったわ、天災はしかたないけど、なにも東京に置けないようなものをわざわざ持ってくることもないのにね。早く人々が戻って暮らせるようになればいいね。いくら防波堤を築いたって、土盛りしたって、人々が戻らなかったらどうしょうもないわ。大きな天災は勝つより逃げることよ」。その後、復興の現実は婦人の言った通りになった。


老婦人との思い出深い、東北を1周した1週間の旅は終った

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