第19話

〈日光から塩原へ〉


健太の卒業した大学はこの県にあった。県下の唯一の国立大学だったが、関西では知られていず、「きみぃ~、日光農科短期大学に行ってるの?」と云われ、げんなりしたことがあった。


日光にはスキー、ハイキング、クラブの合宿とよく行ったものである。夏には湯ノ湖にあるホテルにひと夏、泊まり込みのアルバイトもしたこともある。今なら紅葉が綺麗だろうと思ったのだ。全山黄色と云う中を歩いたことがある。その頃付き合っていた女性と歩いたあの景色はいつまでも頭の中で記憶になった。その女性とは、結婚まで決意したが、西と東、当時の距離は遠かった。


最近、しきりと全山紅葉の中を歩いた夢を見るようになった。その女性の時もあれば、他に男性が加わって3人のときもある。もう一度見て、絵に出来たらと思ったのだ。今度の中で唯一目的地らしきとこといえばこの日光であった。その話をすると、老婦人は、「秋の日光はいいわね。戦場ヶ原、よく主人と歩きましたよ」と、日光行に賛成してくれた。今回の全山黄色はこの老婦人と供にしたのである。


夜泊まるところとして塩原温泉を選んだ。ここもよく健太が夏や冬の休みにアルバイトしたところである。旅館のアルバイトのいいところは、3食、酒付なことであ。もっとも宴会の残り酒ではるが・・。山中のこととてお金を使うところもない。まるまるアルバイト料が貯まるのである。これで友人への借金や、飲み屋の付を精算した。これをみなは、山に入ると云った。


そのアルバイト先は鍵屋と称し、本館という和風の古い旅館と、その頃としてはモダンなホテルを少し離れたところに建て繁盛していた。アルバイト達は本館で寝泊まりし、ホテルの方に通った。本館は県下の上客が多く、ベテランの女中たちで切り盛りした。ホテルの方は県外からの団体客が多く、夕方バスが着き、客たちは風呂に入ってその後宴会になる。その宴会中にアルバイト達は布団を敷くのである。二人一組になって白いシーツを敷き、時間内に終えるのは結構手際を要した。時間内に終わらず、最後の部屋になったときなどは宴会から帰って来た婦人連にからかわれるのである。それを喜ぶ奴もいたが、健太は嫌いだった。男性客はそれから部屋で麻雀をする者、スナックに外に繰り出す者。残った男女は、ホテルのカラオケで歌う者、ラウンジでダンスをする者、ほとんど寝ずに騒いでいたのではないか、そして翌朝、朝飯をすませて、そくさくとバスで次の地に出かけていく。睡眠はバスの中で取るのだろう。高度成長期、そんな会社の慰安旅行でホテルは持っていたのである。今から思えば何と忙しい旅行、旅行と云える代物ではなかった。


この塩原も今では家族連れや個人客がゆっくりできる旅館に人気があって、鍵屋のような団体向けのホテル形式は寂れる一方であった。あの古い木造の本館は既に取り壊されていた。あれば、そちらにしただろうに、健太は惜しいことをしたもんだと思った。


ホテルの外観は当時とそう変わらず、手入れをしたのであろうが、中に入ると古さが目立った。スタッフの数も当時よりは格段に少なく思えたし、入った瞬間に寂しさを感じた。健太が二部屋を云うと、老婦人は「一部屋でいいわよ」と云った。「まさか、わたしを襲わないでしょう。なら一部屋でいいの。お金は無駄に使わない事よ」ということであった。

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