第17話

〈廃線深訪〉


高浜健太の趣味のもう一つに廃線探訪があった。こちらは30代半ばだからかなり年季が入っている。そのきっかけは、小学校3年のとき一家は田舎から大阪に出てきた。そして父と母は場末で小さな商いを始め、少しましな商店街に移り、ささやかな成功をみた。お蔭で、健太は大学にやって貰えたのだ。当時福知山線と言った。


関西出張のとき、その線に乗ってみたくなった。大阪を出て、尼崎から伊丹を経て宝塚から渓谷になるのだが、その景観が違った。車中の客に訊くと「それは旧線ですなぁー」と答えた。翌年その旧線跡を訪ねた。一部は整備された遊歩道になっているが、歩くのがやっとの墜道がいくつもあった。生瀬駅 - 道場駅間の武庫川渓流は昔と変わっていなかった。出てくるとき、河原でキャンプをしているのが眺められた。改めて歩いてみて、父や母がいかなる覚悟で出て来たかが分って涙が出てきた。それから病みつきになってしまったのだ。


その老婦人との出逢いを、健太は思い出していた。不本意な思いもあったが、65歳まで仕事を続けて来られたのである。定年退職を記念して一人旅に出た。目的地も予定もない気まま旅である。期間は1週間と決めた。それだけを家人に伝え、何んぞない限り連絡は入れないし、連絡はするなと言い置いた。携帯の電源も切った。


K県の私鉄沿線に短い区間だが廃線になったところがあった。県下の中堅都市から観光地までの海沿いを優雅に走る萌黄色の流線型が健太は好きだった。高度成長期、中堅都市が発展し、膨張し、沿線に人家が立ち並びだした。海と山との間は狭い。まるで人家の裏庭の間を走るようで、紫陽花の季節には花を縫って走る電車は一服の絵になった。しかし近くに小学校がある踏切で、死亡事故には至らなかったが事故がたて続いた。また住民たちも電車の客にいつも家中を見られているような思いがあったので、それを後押しした。それで電鉄は二駅の区間を山手に移した。


話はここで終わらない。大雨で土砂崩れが起き、この区間が壊滅的にやられた。地盤調査が甘かったのである。電車は元の線を走るようになった。無人踏切は有人踏切となった。この早い決断は電鉄側の経営判断にもあった。山手に上る急こう配は利用客を減らした。住民たちも毎日となると堪えた。


廃線駅になったのは山手のこの2駅になったのである。このような経緯を知っていたので、健太は首都圏に行く途中の電車を降りて、この線に乗り換えたのである。現在の(いや前からあったのだが)駅から、山手に上るには65歳の健太には堪えた。


二つある駅の西側の駅、何て言ったか、移動したときに名前まで変わったのだった。

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