第14話

健太は言葉に甘える旨を述べた。「そうと決まれば、お茶漬けの用意でもしましょう。苔の湯のことは、与二郎さんなら昔のことや、この地にも詳しいですから、お聞きになって下さい」と、婦人は台所に立った。


出された御膳は、粕漬けの焼き魚に味噌汁と山菜の漬物という質素なものであった。山菜の漬物は美味で、茶漬けは山歩きに疲れた健太の胃袋に沁み入った。


「誰かと食事を一緒にするのは久しぶりですわ」と、婦人は嬉しそうに云って、簡単に身の上を語った。


横手の旧家に嫁いだのだが、姑と折り合いが悪く、子供もないことから離婚をして30歳のときから実家で暮らしていること、父親は10年前に亡くなり、弟が一人秋田市にいて何かと面倒を見てくれていること。自身も小学校の教職についていたが、昨年統廃合にともない勤めていた直根小学校が閉校になったのを機に辞めたことと。そして、「今は与二郎さんに習いながら畑で野菜作りをしている憶えの悪い生徒です」と笑った。


あくる日、健太は婦人に礼を述べて、与二郎さんの車に乗った。車の中で苔の湯について尋ねたが、「たいがいはここらの温泉は知ってるだが、聞いたことがねぇー」と云う返事だった。「婦人のお母様と同期でしたね」と訊くと、「としさんていうんだが、成績はいいし、綺麗だし。家は近くても俺らたちには遠い存在でした。旧家だから養子を取って、徳夫さんと云うだが、またええ養子さんで、俺らも仲ようして貰いやんした」と語った。


「お世話になり、礼状も出さないといけないのに、うっかりしてお名前も住所も聞いていません」と云うと、与二郎さんは車を止めて手帳の1ページを破いて書いたものを渡してくれた。婦人の下の名前は紀乃と書かれていた。


「〈きいの〉って読むんだでぇ。何でも自分が書いた三文字が有名な作家さんの小説の題になっていだと、そん中のおなご性の名めどごとったとおっしゃっていだス」


〈苔の湯〉はたぶん、虎彦氏がありそうな名前として付けられたのだろう。しかし一瞬だったが黄山瀬の光景が見られた。小説のもとになったという黄山瀬という達筆な書も見た。あの婦人の名前が〈きいの〉。苔の湯には入れなかったが、黄山瀬の世界にたっぷりと浸かった満足感で健太の心は温かかった。


「初雪だばぁー、冬っこがくべし」と云う声がした。列車の窓の外に目をやった。鳥海山の頂がうっすらと冠雪していた。



注釈


生駒氏の生駒は大和国平群郡生駒である。生駒を出て、信長、秀吉に仕えた。大名としての生駒家は生駒親正にはじまる。四国平定に寄与し、親正は讃岐国17万石を与えられ、豊臣政権に参与した。関ヶ原の戦いでは親正は西軍に与したが、嫡男一正が東軍に参じて戦ったため本領安堵され、一正の後は子の正俊が襲封した。正俊は伊勢津藩主藤堂高虎の娘を正室とした。高虎は豊臣系の外様大名だが、徳川家康への忠勤に励み江戸幕府の信頼が厚かった。高俊は、家中不取締りを理由(世に言う生駒騒動)に領地を没収され、堪忍料として矢島1万石を与えられた。


秋田杉


天然秋田杉(てんねんあきたすぎ)とは、秋田県の天然の杉である。木曽のひのき、青森のひばと並ぶ、日本三大美林のひとつ。大館市の伝統工芸品・曲げわっぱは江戸時代より原材料として使っている。

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