第11話

朝早く出て鳥海山にでも登って、苔の湯が分れば一泊する予定を立てていたのだが、秋田市内でのJA関係者との話合いが長引いてしまって、矢島に着いたのは昼をかなり過ぎていた。駅前にある食堂のラーメンと書いた旗をみて、健太は急に空腹を感じた。醤油味のよくあるラーメンだったが、500円で美味かった。


40半ばぐらいのそこの店主に苔の湯を尋ねてみた。「聞いたことないねぇー」と云って、奥にいるかみさんに念を押した。そのかみさんも首を横に振った。田宮虎彦の小説の苔の湯について書かれたところを見せた。〈馬でブナ林の中を3時間〉〈山肌の斜面に小屋掛けのような温泉宿〉、店主は考える振りをして、「この小説はいつ書かれたのですか?」と訊いたので、「昭和33年」と答えると、「俺の生まれる前だわさ」と答えて、「親爺を呼ぶからさァ」と云って、階段口から上に声をかけた。


階段を下りて来た老人は、健太の前に座って、かみさんにお茶をいっぱい持って来させ、健太の本を手にした。表紙を見て「田宮虎彦じゃね」と言ったので、「読まれたことがあるんですか?」と健太が問うと、「名前ぐらいは知っとりますよ」とパラパラとめくった。健太は先程のところを指さした。


「昭和33年といえば、わしが中学生のときじゃ。あの頃と今では全く変わってしまった。何より変わったのは道じゃ、当時は舗装なんてされていず、土煙を上げて走るバスぐらいなもんじゃった。ここから出ているバスといえば、となり村、今の鳥海町にいくやつだけやった。そんなに時間はかからんよ。ブナ林を抜けて馬で3時間かけて・・さてどの辺じゃろう」


「鳥海山麓で温泉といえば?」と健太が訊くと。かみさんが横から「この辺じゃ、猿倉温泉じゃねぇー。でも、そんなに時間がかかるかね」


「今じゃー、車で20分よ。いくら昔で、馬でも3時間はかからん距離よ。ずーっとここで暮らしてきたが、苔の湯、ありそうな名前だけど、一度も聞いたことがないねぇ。黄山瀬という名前も聞いたことがない。この作家さんここに来ないで想像で適当に書いたんじゃないかねぇ」


健太がけげんな顔をしていると、老人は文のある部分を指さした。それは〈終着駅の町は板屋根ばかりの淋しい町であった〉という箇所であった。


「矢島町は村が町になったのではねぇ。生駒氏*、一万石の城下町としてここらの中心として栄えて来たんだ。本荘と山形の真室川を繋ぐ矢島街道の宿駅としても、鳥海山修験の拠点としても大事なところだった。町を歩いてごらん、武家町や商人町など昔の町割りも残っている。なんだね、板屋根ばかりの淋しい町とは…」老人は  この箇所が気に入らないのだ。もっともだ、自分の町を素っ気なく軽く云われたら誰だって気分はよくない。


「今は店がバイパス沿いにできちゃってるが、その頃なら駅付近にはもっと店もあった。俺らの親父も山仕事をしていたから、秋田一の山持の屋敷があるとこなら、一度や二度は聞いてるはずだ。黄色に色着いた谷が黄山瀬というなら奥に入ればみなそうだ。ないものをあるように書くのが作家だべ」


健太がそれでも納得していない様子をみて、


「先生が来たとしても、森林鉄道にでも乗って奥に入ってこげな光景を見て、適当に書いたかも知れんべ。黄山瀬、苔の湯か、いい名前を思いつくね。さすが、作家さんだ」と、老人は健太に本を返した。

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