第9話 

会社の設立準備に目のまわるような日々が続いた。ひと区切りがついたあとはデンマークから技師が来るだけとなった。友人たちの勧めもあって5日ほどの休みを取ることになった。道一郎はふと思いついて〈きいの〉を温泉にでも連れて行こうと思った。もし、〈きいの〉に出あうことがなかったら、自分がこれまで立ち直ることができただろうか、〈きいの〉におぶわれて深い淵を渡って来たようなものだった。それなのに〈きいの〉に楽しみらしい楽しみをさせたことがなかったのだ。


〈きいの〉は嬉しそうに「苔の湯っていうとこへ行ってみましょうよ」と言った。聞きなれない温泉であった。


「どこにあるんだい、いったいどこにあるの」


「東北よ、私もよく知らないんだけど…」道一郎は交通公社へ行ってその湯のことを聞きあわせた。思いがけず不便な山奥の温泉であった。上野を夜行の急行でたって翌朝支線に乗り換え、十時すぎに着いたその終着駅からまたバスに乗り継いで山道を登って行くというのである。ともかく切符を買い、〈きいの〉に頼まれたスーツケースを買った。もー、午後も遅い時刻でその夜の汽車に乗ることは到底無理なことであったが、道一郎はふいにその夜の汽車に乗りたいと思った。急にもどかしい焦りが道一郎を急き立てたのである。


急いで家に帰って見ると、離れを借りている地主の内儀が飛び出して来て、「おくさんが、おくさんが――」と言った。


〈きいの〉がトラックにはねられ、病院に担ぎ込まれたというのだ。〈きいの〉はすでに息をひきとっていた。道一郎は、もー、何もする気になれなかった。四、五日して友人が訪ねて来たが、新しい会社に行く気持ちはなくしてしまっていた。


道一郎はまたジャングルの山道を歩いていく夢を見始めていた。いつか季節は秋になっていた。道一郎は〈きいの〉が最後の日に行きたいと云っていた温泉に行って見ようと思い立った。いまさら一人でそこに行ってみたところで、どうにもなるわけでもなかったが、行かないではいられない気持ちがこみ上げて来るのであった。


道一郎は東北に行くのは初めてであった。翌朝、支線に乗り換えた頃には秋とは思えぬ寒さであった。「バスは夏の間しかねえからなァ」。終着駅の町は板屋根ばかりの淋しい町であった。「馬ッコやとえば行ってくれんべ」駅員はそう付け足した。


ぶな林の中を3時間、山肌の斜面に小屋掛けのような温泉宿が建っていた。70ばかりになる湯治客が一人いた。2、3日滞在するうち、その老人と口をきくようになった。老人は能代の材木商だといった。


「すこし、歩いてみねぇかね。すっかり山が黄葉している。せっかく山さ来たんだから、山の景色も見てけぇるもんだ。ぶったまげるようなとこさ案内してあげますよ」と誘われたのである。


澄み切った秋の空のかなたに鳥海山が遠くに見えた。人ひとりがやっと通れるほどの山道を老人は先に立って2時間ばかり歩いていった。尾根に出た。視界が開けて谷間を見下ろしたとき道一郎は思わず「ああ」と喘ぎ声をあげていた。見わたす限りの谷間がすべて黄ひといろにうずめつくされていた。道一郎の声に老人は「この谷は黄山瀬っていう谷だ」といった。


「谷間に2、3件人家がある。そこまでおりて、馬ッコたのんで、苔の湯まで帰ることにしますべ」。道一郎が息をのむほど驚いているのにも気付かず、こうつけくわえた。


「30年ほど前まで、黄山瀬には豪家が一軒あった。県内一の山持ちでな、だども、没落して、その家の人はどこさ行っているか音沙汰もねぇだ。今、谷間に残っているのは、昔、その家で使われていた男衆どもだ…」


で、終わる。

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