第8話 

〈きいの〉と暮らすようになってひと月が過ぎた頃、集金した2千円足らずの金を持って道路標識社に帰って来ると、男は「明日ここに来たって俺はいないぜ。どうせお前も気付いていただろうが、そろそろ危なくなるころだ」と云って、5百円の金を渡した。


〈きいの〉は親しくなった老婦人の口利きで、ブローチとかの小物の内職を始めた。そこが外交員を募集していることを知って道一郎に勧めた。なれない仕事を始めるには歳をとり過ぎていたのだが、道一郎はいつしか楽しくて仕方がない気持ちで町々を飛び回っている自分に気付いた。下手なお世辞を使いながら、こまごました取引を取り決めるそんな仕事は20代、30代だった頃の道一郎なら夢にも考えなかったことであった。生きて行くことがたのしみになっていた。そんなあざやかな生命感は道一郎には、生まれて初めてのことであった。


「この頃、あなた夢を見ないようね」。〈きいの〉とのささやかだが、静かな生活は道一郎にあの夢を忘れさせ、うなされることがなくなっていたのだ。道一郎が店で重く用いられるようになって、〈きいの〉はいつしか内職をやめていた。二人がつつましく暮らしていくには事欠かないほどのものを道一郎は持って帰れるようになっていたのだった。〈きいの〉の手料理で晩酌が何よりの楽しみであった。他の楽しみといえば、たまに二人で映画に行くことぐらいであった。


道一郎がいないときには〈きいの〉は習字をしているようであった。〈きいの〉は美しい字を書いた。新しく買った小机の引き出しに習字をした反故を初めて見つけた時は、道一郎はついぞひとことも話して聞かせたことのない〈きいの〉の生れが、なんとなくわかったように思えたのである。きままにいろいろな字がいろいろな書体で書かれていた。そんな反故の中に、黄山瀬、黄山瀬…といくつも同じ文字を書きつらねている反故のあることに気が付くようになった。この三文字に何か特別な意味があるのだろうか?道一郎はそれを問うてみた。「落書きよ」とだけ〈きいの〉は答えた。


〈きいの〉と暮らすようになって6年余りが過ぎ、もー、すっかり卸店の外交員になりきっていた頃、昔の友人に呼び止められた。船の引き上げ事業で出資の呼び掛けを断った友人であった。友人の車に乗せられ丸の内のビルのいかめしい社長室につれていかれたが、友人はそのことには触れなかった。


10日ほどして、その友人が「小さな会社を一つ作ることになったが、誰か任せられる人をと思っていた。君のことは調べているよ。君にもう一度、僕たちと一緒にやってみる気があるなら歓迎するよ」。


小さな会社というのはデンマークの特許をつかった土木機械の日本での業務を代行する会社であった。アクセサリーの会社でも喜んでくれ、〈きいの〉が喜んだのは言うまでもない。道一郎には20代の頃のように前途がひろびろと開けて来るようであった。

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