第12話 快楽安穏 「安楽は与えられた。」
その犬を犬原は自分だと思った。
よく見たら、全然知らない犬だった。
そもそも自分だった犬はとっくに死んでいるのだから動くはずもない。
ぬいのそばにいるのだから。いれるのだから。
なんにせよ、犬原の死を嗅ぎつけてやってきてくれたようだった。
「俺を喰ってもうまくはないと思うが……あまりの味に悔いぬというのならどうぞ食えばいいさ」
凛々しく犬は吠えた。
犬原に巣喰う悪いものを取り除くために犬は果敢に犬原の腹に食いついた。
「……似てるね、君は」
僕が大好きだった僕の友達に似ている。
それは犬原の記憶じゃない。
犬原の前の犬の記憶でもない。
更に前の記憶。
犬原がよく知らない誰かの記憶。
肉体が彼のものなら結局犬原の記憶も彼の者になってしまうのだろうか。
それならそれで苦痛すらも彼の物になるのだからよいのかもしれない。
現にもう犬が犬原の肝を食べる苦痛を犬原は感じなかった。
それでも犬原は死にたくなかった。
あの犬にすがったように。
あの不悔にすがったように。
その先の願いなんて犬原にはないけれど。
犬原は死にたくないのだ。
「……なんでだろうな」
なんでだっけな。
それも忘れている。
意地なのかな。
「……形見」
毛皮。残されたもの。誰の形見かも分からない肉体と精神。
渇虜の纏う毛皮とは今の犬原のようなものだった。
「俺にはいないからかあ」
形見を渡せる人がいない。
犬にも少年にもいたのに。悔乃にも渇虜にもいるのだろうに。
今はともかく昔は不悔にだって渇虜がいたのに。
犬原にはいない。
何も残らない。
ただ、自分が死ぬということが、彼には理解できた。
そのはらわたは食い荒らされ、その四肢から力は抜けきり、その口は渇ききり、その心には何もなかった。
「これで良かったんだ」
その呟きはまともに言葉にならずに空に消えた。
開かれた口へと水滴が落ちる。
しかし、それだけでは渇きは癒えない。
ゆっくりと、沈む。
それなのに、それを許してくれない君がいる。
「あなたの世界は何色でしょう」
そんなの君らしくない。
お腹が減ったとか美味しそうとかじゃなきゃいつもの君らしくない。
食べ物の色なんて君には関係ないだろう。
どんな色の食べ物でも君は美味しくいただくだろう。
平らげてくれるんだろう?
「いえあなたの今の色は赤色多めの肌色、ついでに地面にたたきつけられたせいで茶色に汚れがちです。そういうことではなく、あなたから見た世界の話です」
それなら君だ。君しか見えない。空の青色も鈍色も僕を全身でのぞき込む君が塗りつぶしている。
そんな回答を悔乃は聞きやしない。
「悔乃の世界は赤色でしょうか。
師匠の世界はたぶん、茶色です。
ほら、毛皮が。
悔乃も着物赤色ですし、姉様はきっと、朽葉色ですね。よく着てらした。
ならあなたはさだめし、白色ですかね、わんちゃんもそんな色でした」
そうだったのか。
血の色に染まってたから俺にはよく分からなかったんだよ。
俺を助けてくれた恩ある存在の色すら俺は知らないんだよ。
「兄様は何色かしら、悔乃にはよく分からないの。
悔乃には、あの人のことがわかりません。
ねえ師匠、何色でしょうね」
「きっと、あいつも赤色さ」
渇虜は何故かそう言った。
犬原も何故かそうだと思った。
犬原の中の彼らもそれに同意した。
悔乃はなんだか泣きそうな顔をして、それから嬉しそうに笑った。
「そうだったらいいのだけど」
「それではいただきます」
今まで食べた悪いもの同様、悔乃は食べていく。
少年の悪いところを全て食べていく。
それは食材を生かすために。
ただ、自分が死ななかったということが、彼には理解できた。
そのはらわたは修復され、四肢から力は抜けきり、その口には雨粒が垂れ続け、その心にはたった一つがあった。
「師匠!次は何を食べに行きましょう!」
「師匠はそんなこと知りませんよ。お前の食べるものはお前が決めなさい」
渇虜は渋い顔で地図とにらめっこしながらどうでもよさそうに答えた。
「ちえー。わんちゃんはどう思われます?」
悔乃の質問に犬は答えない。気まぐれにしっぽを振るばかりだ。
「みんなつれないなあ……あ、犬原君はどう思います?」
「僕に訊くの犬より後なんだね……」
「犬のしつけに序列は大事ですよ?」
「ねえそれ僕の話なの、わんちゃんの話なの」
「犬の話ですよ?そうじゃなくてごはんの話ですよー!」
「僕は人間に食べれるものならなんでもいいよ……」
「だから犬原君じゃなくて悔乃の話ですよ!」
くわっと悔乃が威嚇の姿勢を取る。
「はいはい……きっと美味しいものだよ」
君が食べるものならば、それは全て美味しいものだ。
そうに決まっている。
蜜の味である不幸も蕩けるような幸福も腹に収めれば同じこと。
倉居悔乃の前に美味しくないものは存在せず、倉居悔乃の後ろに美味しいものは残らない。
「そうですね、楽しみです」
悔乃は笑った。犬原は彼女の笑顔を以前に見たときのことを一瞬思いだし、それが誰の記憶か少しだけ戸惑い、頭を振ってそれらを振り払った。
今そこにある笑顔について行く。
改めてそう決めて犬のように従順に犬原は悔乃について歩き出した。
完
クライクイノ 狭倉朏 @Hazakura_Mikaduki
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