第6話 無明欲怒 世尊永無 「仏には無明も欲も怒りも無い。」

 少年は街道をしばらく行ったが、誰にも行き会わなかった。

 雨が止んだというのに、付近の者はみな何をしているのだろう。

 昨夜から感じている空腹も収まらない。

 やっぱり悔乃に食い扶持を分けてもらえばよかっただろうか。

 我ながら想像するだけでもぞっとしない考えだった。


 町は静まりかえっていた。猫の子いっぴきとおらない。死んだような町だった。

 門の上にあった死体の数を思い出す。

 とうてい街道沿いにある家の住人たちがおさまるような数の死体ではなかった。

 しかし少年が到着した時点で悔乃がどれだけの数の死体を食べていたのかは不明なのだ。

 この街道沿いの家々の人々は、案外、もうすべて悔乃に食い尽くされたのかもしれない。

「それは困る」

 もしそうだったら、少年はお使いの品を誰に届ければいいのだ。

 お使いの品を届けるまで、少年はどこにも帰れないのだ。

 ほんとうに悔乃が食い尽くしていたなら、あの悔乃とかいう少女はとんでもないことをしてくれた。どうしようもない悪食だ。許し難い。

「お腹が減っているのかい?」

 不確かな怒りにふるえる少年に誰かが声をかけた。

 そこには茶屋があった。

 地味だが高級そうな朽葉色の着物を着た女が茶屋にいた。彼女は店番をしていた。

 こんな高そうな着物を着ている。それなのになぜこんなうらぶれた茶屋なんぞで店番をしているのだろう。

 少年は疑問に思う。

 その似合わなさは、門の上の死体をむさぼる悔乃よりも茶屋の女の方がよっぽどおかしな光景に見えるほどだった。

「よかったら食べていきなよ。ここ最近の雨でうちも商売上がったりなのさ」

「お金がありません」

 少年は素直に答えた。それにお使いの品を届けるために急がなければ行けない。

「かまいやしないよ」

「でも」

 少年が反論を続けるのを無視して女は茶屋の奥に入っていった。

 女のことなど無視していってしまおうか。

 そうも思ったけれど、女のことばにはどこかこちらを逆らわせない強さがあった。

「ほら、道の真ん中なんかに突っ立ってないで、そこの椅子にでもお座りよ」

 茶屋の奥から姿なき女の声がした。

 逆らう気も起きなくて、少年は赤い長いすに座った。

 悔乃の着物の赫色を思い出させるような、鮮やかな赤色だった。

 ああ、そうだ。この女性は、あの悔乃に似てるのだ。

 まるで最初から少年の行動など分かっているかのような、確信的なものの言い方で、こちらの行動を制限してくる。

「はい、お茶と大福餅。こいつは腹持ちがいいよ」

 少年の思考を遮って、女がお盆を持ってきた。

 美味しそうだった。

 少年の空きっ腹には、十分すぎる量だった。

 それでもこの量では、あの悔乃の腹は満たすことがかなわないのだろう。

 何しろあの子は悪食なのだから。

「本当にいただいていいんですか」

「怪しんでるのかい?美人局されるほどの財力すらなさそうじゃないか、坊や。かろうじて価値がありそうなのはそのお使いの品くらいか」

 女が急にお使いの品に矛先を向けてきたので、少年はあわてて風呂敷を胸に抱いた。

 その様子に女はからからと笑った。

「大丈夫。あたしはそんなものに手を出すほど落ちぶれちゃいない。というかあたしに言わせりゃ、そんなものに価値はない。ただ、坊やと比べればいくらか価値があるってだけだね。何せ坊やときたら、全く無価値と言ってもはばかれない有様じゃないか」

 その通りだ。少年には何もない。ただ、お使いの品を届けるくらいしか少年にはないのだ。

「空腹の正体くらい、教えてあげればいいのにねえ、悔乃のやつも」

 その名前が急に出てきたことに、不思議と驚きはなかった。

「お知り合いですか」

「姉妹さ」

 その返答はしっくりきた。

「腹違いだけどね」

「そうでしたか」

「さあさ、お食べよ」

 女は大福餅の乗った皿をこちらに差し出してきた。

 少年はその皿を受け取った。

 美味しそうだった。

「駄目ですよ、知らない人からものをもらっちゃあ」

 少女の声が横槍を入れた。

 倉居悔乃がそこにいた。

 あんぐりと口を開け、少年の手に向かって食いついた。

「うわあ」

 少年は驚いて皿から手を放した。

 悔乃は少年に頓着せず、そのまま皿ごと餅を口に含んだ。

 おおよそ人の食事中とは思えないような皿をかみ砕く音が悔乃の口からとどろいた。

「相変わらずの悪食だねえ、この悪鬼」

「お久しぶりです、妾腹の姉様」

 この世の物ならざる女と少女が、ニヤリと笑って挨拶を交わした。

「お兄さんもお兄さんです。そんなに、お腹が減っていたなら、言ってくださればいいのに」

 姉にいったん背を向けて、少年にそういうと悔乃は懐から何かを取り出した。

「悔乃は食い意地は張っていますがケチではないのです。どこぞの師匠とは違いますよ」

 昨夜に差し出されたもののことを思い出して、少年は身構える。

 悔乃の手に握られているのは赤い果実だった。

「さっきそこの道でもいできたんです。美味しかったですよ、どうぞどうぞ」

 知らない人からものをもらうなと言ったその口で悔乃はそんなことをいう。

「知らない人ではございません。倉居悔乃ですってば」

 すねた子供のように悔乃は頬を膨らまし、果実を少年に軽く投げつけた。

 果実は少年の胴体に当たって、地に落ちた。

 少年はどうして良いのか分からず立ちすくむ。

「もったいないことするね、悔乃」

「お兄さんが食べなくとも、地面に落ちたくらいのもの悔乃は喰いますよ。姉様とは育ちが違うので」

「そりゃそうだ」

 姉はなぜか苦毒でも含んだかのような顔をした。

 悔乃は姉にかまわず少年に向かって続ける。

「お兄さんはどうします?」

「僕はお使いの品を届けるよ」

 誰がなんと言おうと何がどう起ころうと少年にはそれしかない。

「そりゃそうでしょう。さあさ、さっさとお行きなさい」

「かわいそうに、お腹を減らせてる子を追っ払おうなんて」

「お腹が減ったくらいじゃ死にませんよ。こんなぴんぴんしている子が」

「じゃああんたも絶食してみせなさいな」

「悔乃はそうしたら動けなくなるので。師匠に会うために道を行っていたのですが、どうにも迷子になってしまいます。姉様、道をご存知ないですか?」

「知っていて教えるとでも?」

「たまには姉らしいことをしてくれてもよくありませんか?」

「そういう都合の良いことは妹らしいかわいげを見せてから言いな」

「悔乃は十分かわいらしいと思うのです。ねえ、お兄さん?」

「……知らない」

「照れなくても良いのですよ。ほら、お兄さん、お使いの品を届けるのでしょう?」

「うん。でも、君はこれから、お姉さんとどうするの?仲良くお食事って感じでもないようだけれど」

「仲のよくない家族が再会したらやることなど決まっているのです」

「悔い返し」

 言うが早いが、姉は何かをこちらに向かって投げつけた。

 その動きはやっぱり姉妹という感じでとても似ているように見えた。

 悔乃はそれを口で受け、丸呑み。何事もなかったかのように飲み込んだ。何を投げたのかも少年には分からなかった。

 けれどもそれがよくないものであるのはなんとなく理解できた。

「逃げるのです、お兄さん。あなたのやるべきことは定まっているというのなら、進むのです。進むべきです。目的に通じる道があるのなら。悔乃は今のところそれすら見つけられませんが。師匠への道が見つかりませんが。多分あなたが道を進めば悔乃の道も開けるのです」

「訳が分からない。君の言っていることが分からない。どうして他人が道を行くのが、何もない僕が進むことなんかが、君のためになるって言うんだ」

「情けは人のためならずと言うでしょう?」

 悔乃は笑った。

「大切なのは義侠心なのです。さあ、行ってください。もう少し付け加えるのなら、姉様と戦うのにあなたはだいぶ邪魔なのです」

「……分かりました」

 邪魔とまで言われては仕方ない。

 少年の目的は一つだ。

 悔乃の目的も少年を先に行かせることらしい。

 二人の目的は一致している。

 だとしたら進むべきなのだろう。

 たとえ悔乃を心配する気持ちがあろうとも、少年には何も出来ない。

「もしも道の先で師匠って人に会えたら伝えるよ、君が道に迷っているって」

「それは嬉しいことですね。と言っても師匠がこういうときに役に立った試しはないのですけれど。あなたの気持ちは嬉しいのです」


「さあ来てください姉様。悔乃は今とっても嬉しいので、取って食うだけで勘弁して差し上げましょう」

「お生憎様。私は私で食えない奴さ」

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