第5話 知我心行 「私の心を知ってください。」
「結局、その毛皮は誰の形見なんでしょうね」
雨の降りやまない中、犬原は暇をつぶすように渇虜に問いかけた。
「それを知るために、俺は不悔を探している」
「なるほど、最初からそう言えばいいのに。まわりくどいですねえ」
「うるせーばーかばーか」
「罵倒が単直ですねえ。しかし不悔さんに会えないなら結局不悔さんの形見と言っても差し支えないのではないですか?」
「俺はあいつの形見を大事に持つほどあいつを大事に思っていないからな」
「はあ」
「かつての友ではあるが、今のあいつはただの他人だ。弟子の兄、以上の何物でもない」
「めんどうくさい間柄ですねえ」
「けっ」
渇虜は足元の小石を蹴っ飛ばした。小石はぬかるんだ石畳を水しぶきを上げながらはずんで遠くに消えた。
その行方を見送ると、まるで語ることなど最初からなかったかのように、二人は黙り込んだ。
雨は勢いも単調に降り続いていた。
相変わらず悔乃はこちらに到達するそぶりも見せない。
犬原は改めて思う。本当にあの子は迷わずここまで来れるのだろうか。美味しそうだという自分を求めて、来てくれるのだろうか。
渇虜は改めて思う。この鬱陶しい雨はいつまで降るのだろう。いつになったら晴れてくれるのだろうか。
雨はいつから降っていただろう。
記憶をたどってみても判然としなかった。
悔乃と別れたときにはすでに降っていたのだろうか。
分からない。
思い出せない。
不明瞭。
「そー言えば」
渇虜は口を開くことで思考を切り替えた。
「悔乃には大好きな姉が居やがるって話はしたっけかな?」
犬原は怪訝そうな顔をした。
「何ですか?藪から棒に」
「良いから。したかな?してなかったかな?」
「なされていた、と記憶いたします」
「記憶いたします、か。けっ。すてきな記憶力の持ち主め。まあ、姉貴大好き悔乃ちゃんのことだ。一度くらいは話題にしてるだろーな」
「はあ。で、そのお姉さまが何か?」
「いや、な。悔乃の姉貴に倉居
「とおっしゃりますと、その梗乃さんとやらの御母堂は既にお亡くなりになられていた……というわけですか?」
「いいや。そうじゃねえ。何せ悔乃には母が同じで梗乃よりも年上の兄貴も居るんだからな。ま、こっちの方とは悔乃は没交渉と言っていいんだが」
「もしかして毛皮のお兄さんですか」
「そうそれ。悔乃と兄貴は正妻の子。梗乃ちゃんは妾の子だ。と言っても悔乃が腹から食い破って出てきたおかげで梗乃ちゃんは正妻の子になったんだが」
「……腹を食い破ったとは比喩ではなかったのですか?」
「比喩ではあるが結果が同じという話だな」
「それはなんというかご愁傷様です」
「俺に言うな俺に」
「そうでしたね。それでお姉さんがどうかされましたか」
「思い出したかったんだちゃんと」
「はあ」
「自分の記憶が正常に作動しているか確認したかったんだ」
「してましたか?」
「してたよ梗乃ちゃんに関しては」
渇虜はゆるりと立ち上がった。
「だけどだからこそしていない。するわけないんだよ梗乃ちゃんの話なんか悔乃は。悔乃は梗乃ちゃんのことが大好きだけど梗乃ちゃんは悔乃に話題にされるのも嫌がるくらい大嫌いなんだから」
「なるほど。そんなに嫌ってましたか梗乃さんは」
淡々と犬原は答える。どうでも良さそうに応える。
渇虜は尋ねる。
「お前は誰だ」
「犬原ですよ」
「犬原って誰だ」
「僕ですよ」
「僕って誰だ」
「そんなこと僕にもわかりませんよ」
「自分のことなのにか」
「僕というのは僕という毛皮を纏っているようなものでしょう。あなたが毛皮の正体を知らないように、僕だって僕の正体を知らないさ」
「人面獣心、懐かしいなあ……うん。でもたまに思うのさ獣になれた方が楽じゃないかってね」
「それは誰の話ですか?」
「俺の話だよ。俺は俺以外の人間のことなんてどうでもいいのだから」
「そうですか」
犬原は刀を取り出した。犬原の質素な服装には釣り合わない根の張りそうな美しい刀だった。それがどこから取り出されたものか渇虜には認識できなかったが渇虜は驚きもしなかった。
その現象には覚えがあった。
「心技体の分捕りの……体か」
「残念ですよ、渇虜師匠」
「お前に師匠と呼ばれる筋合いはねえよ」
「ええそうですねあなたを師匠と呼ぶのは一人でいい。その一人も直に死にますが」
「もしかしてそれは悔乃の話をしているのか?」
「他にいますか?」
渇虜は大声で笑った。
「息が苦しくなるほど笑ったのは久しぶりだよ……それこそ獣だった頃のようだ。不悔がいた頃のようだ」
「はあ。面白がっていただけたようで何よりですよ」
「何がおかしかったのか理解の及ばないという顔だなあ。及ばないくせにとりあえずそれを呑み込んじまおうって顔だ。駄目だよ犬原それは駄目だ」
渇虜はゆっくり頭を横に振った。
「よく噛んで食べましょう。よく言われていることだろう?親御さんに習わなかったかい?」
「いませんよ。親なんて僕にはいませんよ」
「ああそういえばそんなこと言ってたっけ言ってなかったっけ」
その記憶も曖昧ながら渇虜は堂々とそこに立つ。
「なんでもいいさ。どうせ俺は倉居悔乃の前座なのだから。のらりくらりとゆっくりやろうぜ」
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